港町の北門を、一台の馬車がゆっくりと潜った。
馬車の横を歩くのは、自分たちの初手柄に胸を張る四人の白磁等級の冒険者たち。その中心で、汚れ、力なく揺れる身体を支えられているのは、かつてこの街の光であった「潮風の歌姫」だった。
「……はぁ。命懸けの救出劇だったのに、報酬はパーティーで金貨10枚か。やっぱ安いよなぁ、ゴブリン退治ってのは」
少年戦士が、ギルドから受け取った報酬袋を手のひらで弄びながら、不満げにこぼした。
「初依頼を無事にこなせたことを喜びましょう。……さあ、歌姫さん、まずは神殿へ行きましょう。そこでゆっくり治療を受ければきっと良くなりますよ」
少年僧侶が、労わるような視線を荷台へ向ける。
「そうですよ。街の皆だって、貴女が無事に戻ってくるのを本当に心配していたんですから」
リーダーの女細剣使いが、眩しい太陽のような笑顔を向けた。
「……大丈夫です。生きてさえいれば、また次があります。王都の公演だって、いつか体調が戻ればまた挑戦できますから」
新米魔術師の言葉が、トドメのように歌姫の胸を抉った。
彼女の喉は、いまだ凍りついたままだった。
次なんて、ない。
仲間も、楽長も、親友も、あの暗い穴の中で肉の塊に変えられた。
自分だけが「生かされた」ことの恐怖を、この少年たちは「幸運」と呼んで笑っている。
だが、それ以上に彼女を絶望させたのは、周囲を取り囲む「善良な市民」たちの声だった。
「――おい、聞いたか!? あの楽団、街道でゴブリンの群れに襲われたんだってよ」
「ああ……。生き残ったのはあの娘だけか? 酷いもんだな。あんなに綺麗だったのに、もう台無しだ」
「……ま、よくある話だ。 この辺境じゃ、小鬼に攫われて生きて帰れるだけ幸せだと思わなきゃな」
「へへ、あの身体を好きにできた小鬼どもが羨ましいぜ。俺たちじゃ手も届かなかった高嶺の花だったのになぁ」
好奇と偏見。無関心と憐れみを装った侮蔑。そして、隠そうともしない卑屈な劣情。
彼女が愛し、歌を捧げてきた「人々」の正体が、剥き出しになって彼女に襲いかかる。その視線は、あの暗闇で自分を組み伏せた小鬼たちの瞳と、何も変わらなかった。
(……ああ……。あの洞窟と……同じだ)
彼女は叫ぼうとした。だが、声が出ない。
そして、もし声が出たとしても、この街の誰もが、自分の「悲鳴」を聴こうとはしないことを、彼女は悟ってしまった。
彼女の瞳の中で、街の人々の顔が、暗闇の中で自分を覗き込んでいた小鬼たちの顔と重なっていく。
「――何を笑っているんだ!! 見世物じゃないんだぞ、彼女はッ!!!」
突如喧騒を裂くような、激昂した声が響き渡った。人混みを強引に掻き分け、泥を撥ね上げて飛び出してきたのは、婚約者の青年であった。
彼は野次馬を鬼のような形相で睨みつけ、馬車の荷台に飛び乗ると、震える歌姫を、汚れなど微塵も気にする様子もなく、力強く抱きしめた。
「……遅くなって、ごめん。……本当によく、生きていてくれた」
「あ……、ぁ……」
歌姫は目を見開いた。
青年は彼女を抱きかかえ、泥に汚れた彼女の頬を、自分の袖で優しく拭い、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
「……君は、何も悪くないんだ」
青年の声には、一点の曇りもない。
世間体も、名誉も、穢れも。そんなものは最初から存在しないかのように、彼は彼女という「魂」だけを見つめていた。
「……君がどんな目に遭おうと、僕が愛しているのは、歌っている君でも、綺麗な君でもない。……君という、ただ一人の女の子なんだ。……だから、自分を責めないで」
「…………!!」
その瞬間。
灰色に塗り潰されていた歌姫の視界に、鮮やかな色が戻った。
「不浄」として死んでいたはずの瞳に、温かな、瑞々しい光が宿る。
少年戦士や女細剣使いが呆気に取られて見守る中、青年は彼女を守るように嘲笑の渦から彼女を連れ出した。
――その光景を、路地の影から見つめる二つの影。
「……ほう。予想外の展開ですな、閣下」
教団幹部が、意外そうに眉をひそめた。
「あの手の成金の若造など、純潔を失った娘は即座に捨て、別の『商品』を探す輩が大半だと思っておりましたが。……どうやら、あの男の情愛は、我々の想定よりも少しばかり深かったようだ」
「……美しいではないか」
司祭は、去りゆく二人の背中を、まるで最高級の実験器具を眺めるような眼差しで見つめた。
「ゴブリンに汚された娘の中にも、家族や恋人の支えによって立ち直り、再び光の下で生きる道を選んだ者たちは確かに存在する。……あれこそが、至高神がこの不条理な世界に遺した、唯一の『気休め』なのだからな」
「回収を急ぎますか? あの男に心を癒されてしまえば、素材としての価値が……」
「いいや、観測を続けたまえ」
司祭の瞳に、底知れぬ暗黒が宿る。
「彼女が、あの男の愛によって救われ、再び歌を取り戻すのなら……それはそれで、一つの結末だ。神々の遊戯盤の上で起きた、稀有な奇跡として祝福してあげよう」
司祭の声が、急激に温度を失い、奈落の底から響くような冷徹さを帯びた。
「だがね。……一度与えられた『救い』が、最も残酷な形で裏切られた時。その瞬間に反転する絶望の熱量は、最初から絶望していた者の比ではないのだよ」
司祭の瞳に、狂信的な計算が宿る。
「愛を知らぬ者の絶望は、ただの静かな闇だ。だが、愛を知った後にそれを奪われた者の絶望は、世界を焼き尽くす劫火となる。……彼女が幸せを信じれば信じるほど、その後の『落差』が生む拒絶は、神の理すらも粉砕するだろう」
「…………。成る程。絶望を『発酵』させるのですか」
「そうだ。……あの男には、精々頑張ってもらおう。彼女の心を、できるだけ高く、温かな場所まで持ち上げてもらうためにね。……突き落とされた時の悲鳴が、より美しく響くように」
一時の安らぎに浸る恋人たち。
その背後で、邪教団は「愛」という名の毒をじっくりと煮詰め、彼女の魂が完全に真っ黒に染まる「その時」を、蛇のような忍耐で待ち続けていた。