港街の療養所。波の音が遠く聞こえる静かな一室で、婚約者の青年は、担当の医者と向き合っていた。扉の向こうの寝台には、虚空を見つめたまま一言も発さない、変わり果てた歌姫が横たわっていた。
「……失語症、ですか」
青年の声は、絞り出すようにかすれていた。
「ええ。肉体的な損傷――喉の組織そのものには致命的な傷は見当たりません。しかし、あまりにも凄まじいショックやトラウマ……精神的な衝撃により、脳が『声を出すこと』そのものを拒絶してしまっている。……ゴブリンの被害を受けた女性には、よく見られる症例です」
「よく、見られる……」
医者は手元のカルテを無機質に眺め、淡々と事実を告げた。
「無理に話そうとすれば、彼女の脳があの地獄を強制的にフラッシュバックさせてしまう。防衛本能として、声が出せなくなっているのですよ」
「治りますか。……何でもします。どんなに高い薬でも、王都の有名な神官様を呼ぶための寄進でも、僕が工面します。だから……!」
「……心理療法や、根気強い発声訓練を続けていくしかありません。神殿の奇跡も、心の傷までは塞いでくれません。彼女自身が、再び世界と向き合う勇気を取り戻すまで……」
医者は一度言葉を切り、窓の外に広がる、何も知らない活気に満ちた港の景色を眺めました。
「……しかし、若いお人。覚悟はしておきなさい。……彼女が、かつてのように『潮風の歌姫』として、何千人もの前で朗々と歌い上げる日は……二度と来ないかもしれない。例え言葉を取り戻せたとしても、その声に宿っていた『輝き』まで戻るかどうかは、地母神様のみぞ知ることです」
「そんな……、そんなこと……ッ!」
「……今は静かに休ませてあげてください。……彼女を壊したのは小鬼だが、彼女を追い詰めるのは、周囲の『期待』と『同情』なのですから」
医者は診察室の扉を指し示した。
青年は力なく立ち上がり、廊下へ出た。
隣の病室では、彼女が震える手で自らの喉をさすり、声の出ない絶望に打ちひしがれている。
そして街では、人々が「もうあの子の歌は聴けないのか」と、新しい娯楽を探し始めている。
それは再生への希望ではなく、社会から緩やかに抹殺されていく、一人の少女の孤独な戦いであった。
療養所の門を出たところで、婚約者は、一人の男に呼び止められた。
男は穏やかな笑みを浮かべ、清潔な白い法衣を纏っていた。その佇まいは、荒んだ港街にあって、そこだけが陽だまりであるかのような錯覚を覚えさせるものだった。
「……お困りのようですね、若き御人」
「貴方は……?」
青年は足を止め、男を不審げに見つめました。
「失礼。私は『光の教団』の巡回神父を務めている者です。……此度の楽団を襲った悲劇、そして、貴方の愛する方が声を失われたというお話、聞き及びました。実においたわしい……」
巡回神父は、胸元で静かに手を組み、慈悲深い声を紡いだ。
「よろしければ……彼女を、我が教団の聖域に預けてはいただけませんか? 我らには、神殿の奇跡とも、医者の薬とも異なる、独自の『精神療法』や『カウンセリング』の技術がございます。心を閉ざしたあの子を、再び太陽の下へ連れ戻すお手伝いができるはずです」
「…………」
青年は、神父の言葉を黙って聞いていた。
喉から手が出るほど欲しい「救い」の言葉。
しかし、港街最大の商家の跡継ぎとして、幼い頃から海千山千の商人たちと渡り合ってきた彼の直感が、脳裏で警鐘を鳴らす。
あまりにも、間が良すぎる。
そして、この男の瞳の奥にある「冷たさ」が、先ほど会った医者の事務的な冷酷さよりも、ずっと不気味に感じられたのだ。
「……ありがたいお申し出ですが、お断りします。彼女のことは、僕が責任を持って守りますから」
「……そうですか。それは残念だ」
神父は表情を変えず、静かに一礼した。
「ですが、気が変わったならいつでも仰ってください。我らは常に、救いを求める者のために扉を開けておりますから……」
白い法衣の男が雑踏に消えていくのを、青年はいつまでも冷めた目で見送っていた。
「……失敗しましたか。流石は港街最大の商家の跡継ぎ、意外に鋭いですな。あのような絶望の淵にありながら、我々の『慈善』に疑念を抱くとは」
教団幹部が、戻ってきた工作員の報告を受けて眉をひそめた。しかし、闇の中に座る司祭は、ワイングラスを揺らしながら愉しげに笑った。
「ククク……。なに、焦る必要はないよ」
奥の暗がりに座る司祭が、愉しげに水晶球を弄んだ。
「情愛という不純物が、一時的に目を曇らせないようにしているだけだ。……だが、個人の意志など、社会の圧力の前では塵に等しい。……彼の実家の動きを探りたまえ。あの強欲な豪商が、息子と『傷物』の恋をいつまで許容できるか……その瞬間こそが、真の収穫期だ」
「御意に、閣下」
救いの手が拒絶されたとしても、司祭は動じない。
なぜなら、彼は知っていた。
一人の若者の純愛よりも、一人の権力者の「体面」の方が、遥かに容易く、かつ無慈悲に人を壊すことができるということを。
港街、豪商の館。深紅の絨毯が敷かれた執務室で、豪商は窓の外を見下ろしながら、忌々しげに鼻を鳴らしといた。その手には、ギルドから提出された「楽団襲撃事件」の最終報告書が握られていた。
「……ふん。オーガか、さもなくば高位のデーモンにでも襲われたのかと思えば……。まさか、初陣の白磁等級ですら倒せるような、あのゴブリン如きに負けるとはな。冒険者ギルドの等級査定はどうなっているのだ。高い報酬を払って雇った銀等級が、あんな雑魚に後れを取るなど笑止千万だ」
豪商は報告書を机に放り投げ、まるで腐った果実でも見るような目で、そこに記された「ゴブリン」という文字を睨みつけた。
「……しかし旦那様。彼女が、あのお嬢様が生きて帰ってこられたのは、まさに不幸中の幸いというもの。地母神様の慈悲にございましょう」
傍らに控える執事が、絞り出すような声で口を開く。主のあまりにも冷淡な反応に、背筋に冷たいものが走るのを感じていたからだ。
「不幸中の幸いだと? 冗談ではない」
豪商は振り返り、その瞳に底冷えするような実利の光を宿らせた。
「あの娘はもう、声が出せんのだぞ? 医者の見立てでも、いつ治るか分からんというではないか。元々、庶民の出であったあの娘を我が家に迎えることを許したのは、あの『歌』という唯一無二の価値があったからだ。王都の貴族連中への顔利きにも、我が家の商売の箔付けにも、あの歌声は最高の商品だったのだよ」
豪商は一歩、執事へと歩み寄り、声を低くした。
「それがどうだ。いまや一言も発せぬ抜け殻ではないか。商品価値のないガラクタを養うほど、我が家は慈善事業に熱心ではない。ましてや……」
豪商の顔が、嫌悪感で醜く歪む。
「……ゴブリンの『お手付き』なぞを、我が家の跡取りの妻として迎えてみろ。他国の商会や王都の連中から、どれほど後ろ指を指されるか分かったものではない。穢れた血をこの家に混ぜるなど、断じてあってはならんことだ」
「な……! 旦那様、彼女は被害者なのです! 望んであのような目に遭ったわけでは……!」
「被害者だろうが何だろうが、汚れたという事実に変わりはない。……死んだ方が、まだ家の名誉のためには良かったのだ……」
一人の少女が、命を懸けて地獄を生き延びたというのに。
彼女を「家族」として迎えようとしていた男の父は、その生存を「欠陥品の返品」としてしか見ていなかった。
「……もはや議論の余地はない。あの娘との縁談は白紙だ。明日中に、療養所とあちらの親族に書状を届けろ。」
「……旦那様。本気で仰っているのですか?彼女はいま、療養所で必死に絶望と戦っております。声を失い、心に深い傷を負ったあの子に、いまこのタイミングで破談を告げれば……彼女がどうなってしまうか、お分かりにならないのですか!?」
「……どうなる、だと?」
豪商の口端が、わずかに嘲笑を浮かべて歪む。
「ゴブリンに慰み者にされた娘が、絶望して失踪したり、自ら命を断つなど……この四方世界では『よくある話』だ。統計上の一行が増えるだけで、誰も気に留めはせんよ。彼女もその一人になる、ただそれだけのことだ」
「…………!!」
執事は、主の口から出たあまりにも非情な言葉に絶句した。小鬼という不浄を忌み嫌う以上に、目の前の「人間」が放つ無関心という名の毒。
「……ですが、坊っちゃまが納得しません! あの方は今も、彼女が声を取り戻し、再び笑ってくれるのを信じて、療養所に通い詰めておいでなのですぞ!」
「ふん、若さゆえの一時的な熱病だ。……あれには、王都のしかるべき家柄から、もっと『まともな』令嬢を宛てがえばいい。時が経てば、小鬼の臭いが染み付いた女のことなど、綺麗さっぱり忘れるだろう」
豪商は羽根ペンを手に取り、破談の書状に自らのサインを書き込んだ。
「……明日、彼女の病室にこれを届けておけ。我が家からの最後の慈悲だ。……これ以上、彼女という不純物に、我が家の名誉を汚させるわけにはいかん」
執務室の明かりが、老商人の冷たい瞳を不気味に照らし出していた。
この日、一つの「光」が公式に抹消された。
世界が彼女を捨て、愛する人の父親が彼女を「汚れ」と定義したその瞬間。
邪教団の使い魔は、屋根の上で翼を休め、最高の「絶望の香」を吸い込んで悦びに震えていた。