地母神の神殿、柔らかな午後の陽光が差し込む療養室。
窓の外からは潮騒の音が微かに聞こえ、平和だったあの日々と何も変わらないように見える。しかし、白い寝台に座る歌姫の瞳には、色彩という色彩が抜け落ちたような虚無が宿っていた。
「……今日は、君の好きな花を持ってきたよ」
婚約者の青年は、努めて明るい声を作りながら、小さな花瓶に青い小花を活けました。彼は彼女の隣に座り、震える彼女の手を、壊れ物を扱うように、けれど力強く包み込んだ。
「顔色が少し良くなったね。……大丈夫。焦らなくていいんだ。医者様も言っていたよ。喉に傷はないんだから、必ず、声は取り戻せる。 また君が、あの広場で楽しそうに歌う姿を、僕に見せておくれ」
彼女は何も答えられない。ただ、彼の指の温もりを感じることだけが、いまの彼女を現世に繋ぎ止める唯一の錨であった。
「もし、時間がかかったとしても……。僕がずっとそばにいるよ。 君が言葉を失ったなら、僕が君の目を見て全てを汲み取る。君が独りで眠るのが怖いなら、夜が明けるまで僕がその手を握り続ける。……約束だ」
歌姫は、彼の胸にそっと顔を寄せた。
彼の服から漂う、街の風と、微かなインクの匂い。
あの不浄な巣穴の悪臭を上書きしてくれる、世界でたった一つの救い。
(………………)
声は出ない。歌も奪われた。
けれど、彼女の心には、絶望を押し返す温かな決意が灯っていた。
(……まだ、彼がいる。……歌がなくても。みんなに忘れられても。……彼さえ、彼さえそばにいてくれるなら、私は生きていける。また、笑える日が来る……)
彼女にとって、かつての「歌姫」としての名声も、王都での華やかな舞台も、もはやどうでもよいことであった。ただ、この温もりだけがあればいい。この静寂のなかの幸福こそが、彼女にとっての「やり直せる」という言葉の真実だった。
二人の穏やかな時間を切り裂くように、重々しい靴音が廊下に響き、部屋の扉が急に開かれた。
「――失礼いたします、若様」
立っていたのは、豪商の館で働く老執事でした。その表情はいつになく硬く、どこか事務的な冷たさを帯びていた。
「父上からですか? 彼女の容体なら、今しがた医者様から……」
「いえ。旦那様が至急、若様を屋敷へ呼び戻すようにとの仰せです。王都の商会との重要な案件について、どうしても今夜中に話しておかねばならぬことがあると」
執事の言葉に、青年は戸惑いの表情を浮かべた。いまこの時、彼女の側を離れたくないという思いが、彼の足を止めさせる。
「……今夜でなければならないのですか? 彼女はまだ、一人にするには……」
「旦那様の命でございます。一刻を争うとのこと」
執事は無機質に、けれど拒絶を許さないトーンで告げた。
青年は、不安げに自分を見つめる歌姫の方を振り返る。彼女の細い指先が、シーツをぎゅっと握りしめているのが見える。
「……ごめんね。きっと、僕たちのこれからの生活についての相談だよ」
青年は彼女の頬を優しく撫で、安心させるように、最高の笑顔を作って囁いた。
「大丈夫。また明日、来るよ。」
ありふれた、けれど絶対の愛を込めた約束。
「明日には、もっといい知らせを持ってこられるかもしれない。だから、今夜はゆっくり休んで。……おやすみ、僕の歌姫」
彼女は声が出ない代わりに、小さく、祈るように頷いた。
彼が部屋を出ていく後ろ姿。
カタン、と扉が閉まる音。
それが、彼女が「愛する人の背中」を見た、最後の瞬間になるとは夢にも思わずに。
――深夜。地母神の神殿、ひっそりと静まり返った療養室。
数刻前まで、愛する人の温もりが残っていたその部屋に、再び重苦しい足音が近づいてきた。
カタン、と小さな音を立てて扉が開いた。
(……え? 彼……? 忘れ物かな……)
歌姫の瞳に、微かな期待が宿る。しかし、入ってきたのは愛する青年ではなく、先ほど彼を呼び戻したはずの、あの老執事であった。
「……お休み中のところ、失礼いたします」
彼は枕元に歩み寄り、震える手で一通の書状を差し出した。上質な羊皮紙、そこに押された豪商の家の封蝋。
(……これは……?)
歌姫は震える手で、その重い紙を受け取った。
封を切り、中身を目にした瞬間。
彼女の心臓が、物理的な衝撃を受けたかのように激しく脈動し、凍りついた。
そこには、流麗な筆致で、彼女が最も恐れていた「世界の終わり」が綴られていた。
『不慮の災難とはいえ、小鬼に穢され、声を失った者に、我が家の後継ぎの妻としての価値は無い。よって、此度の縁談は白紙とする。二度と我が一族、および息子に関わらぬよう、この神殿で余生を過ごすがよい。……それが、不浄に塗れた貴殿への、せめてもの慈悲である』
「…………っ、あ…………」
指先が凍りついたように震え、書状がシーツの上に滑り落ちました。
(……嘘……。嘘よ……)
(彼は……彼はさっき、明日来るって……ずっとそばにいるって、言ってくれたのに……)
彼女には分からなかった。これが、彼が知らないところで行われた、父親による卑劣な「損切り」であることを。
彼女の目に映る真実はただ一つ。
自分を救うと誓ったあの人でさえも、結局は自分を「汚れ」として捨て去った。
(……そうよね。……そう。……ゴブリンに汚された私なんて、もう……誰の隣にもいちゃいけないんだわ……)
溢れ出した涙が、頬を伝い、シーツに黒い染みを作っていく。
彼女は叫ぼうとした。
「嘘だと言って」
「行かないで」
しかし、絶望に焼き切られた喉からは、ただ、ひゅ、と空気が漏れるような虚しい音しか響かなかった。
声が出ない。
愛する人にも、捨てられた。
世界から「お前はもう死んでいるのだ」と告げられたような、底知れぬ静寂。
執事は一度だけ、苦しげに彼女の顔を視ましたが、何も言わずに一礼し、足早に部屋を去った。
暗い病室に残されたのは、色を失った青い花と、一人の少女の死にゆく心だけ。
――邪教団本拠地。観測室
「――予想通りとはいえ、実に胸糞悪い話ですな」
教団幹部が、水晶の中の光景を見つめながら、吐き捨てるように告げる。
「昨日まで愛を囁き、共に明日を夢見ていた男の家族が、彼女が傷ついた途端にこの仕打ちだ。しかも、本人が知らないところで事務的に『処理』を済ませるとは。……不浄なるゴブリンの方が、まだ獲物に対して正直ですよ」
「クク……。我々が言うのも何だが、人間とはつくづく残酷な生き物だよ」
司祭は、彼女の魂から溢れ出す「漆黒の絶望」を吸い込むように、深く息を吐く。
「小鬼は肉体を壊すが、隣人は心を殺す。……彼女を最も深く、再起不能なまでに傷つけたのは、あの薄汚れた獣たちではない。自分を愛していると信じ込ませ、最後には『ゴミ』として捨て去った、あの光の下で笑う人間たちなのだよ」
司祭の瞳には、実験の成功を確信した狂気が宿る。
「これで……彼女の心の最後の砦も、跡形もなく崩れ落ちた。……『信じたい』という不純な願い。……『待っていたい』という愚かな未練。その全てが、裏切りという名の炎で焼き尽くされた」
「左様ですな。いまや彼女の魂は、純粋な空白……。世界を拒絶し、全てを呪うための完璧な器へと成り果てました」
「……さあ、収穫の時間だ」
司祭は、月を見上げて不気味に微笑んだ。
「光に裏切られ、愛に捨てられた歌姫よ。……君のその乾いた喉に、私が『真実』を注ぎ込んであげよう。……君を捨てた世界を、君が歌声一つで塵に変える……そんな至高の救済をね」