『ゴブリンスレイヤー』外伝【幻声哀歌編】   作:いっかず

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第11話:旋律の埋葬

地母神の神殿、柔らかな午後の陽光が差し込む療養室。

窓の外からは潮騒の音が微かに聞こえ、平和だったあの日々と何も変わらないように見える。しかし、白い寝台に座る歌姫の瞳には、色彩という色彩が抜け落ちたような虚無が宿っていた。

 

「……今日は、君の好きな花を持ってきたよ」

 

婚約者の青年は、努めて明るい声を作りながら、小さな花瓶に青い小花を活けました。彼は彼女の隣に座り、震える彼女の手を、壊れ物を扱うように、けれど力強く包み込んだ。

 

「顔色が少し良くなったね。……大丈夫。焦らなくていいんだ。医者様も言っていたよ。喉に傷はないんだから、必ず、声は取り戻せる。 また君が、あの広場で楽しそうに歌う姿を、僕に見せておくれ」

 

彼女は何も答えられない。ただ、彼の指の温もりを感じることだけが、いまの彼女を現世に繋ぎ止める唯一の錨であった。

 

「もし、時間がかかったとしても……。僕がずっとそばにいるよ。 君が言葉を失ったなら、僕が君の目を見て全てを汲み取る。君が独りで眠るのが怖いなら、夜が明けるまで僕がその手を握り続ける。……約束だ」

 

歌姫は、彼の胸にそっと顔を寄せた。

彼の服から漂う、街の風と、微かなインクの匂い。

あの不浄な巣穴の悪臭を上書きしてくれる、世界でたった一つの救い。

 

(………………)

 

声は出ない。歌も奪われた。

けれど、彼女の心には、絶望を押し返す温かな決意が灯っていた。

 

(……まだ、彼がいる。……歌がなくても。みんなに忘れられても。……彼さえ、彼さえそばにいてくれるなら、私は生きていける。また、笑える日が来る……)

 

彼女にとって、かつての「歌姫」としての名声も、王都での華やかな舞台も、もはやどうでもよいことであった。ただ、この温もりだけがあればいい。この静寂のなかの幸福こそが、彼女にとっての「やり直せる」という言葉の真実だった。

 

二人の穏やかな時間を切り裂くように、重々しい靴音が廊下に響き、部屋の扉が急に開かれた。

 

「――失礼いたします、若様」

 

立っていたのは、豪商の館で働く老執事でした。その表情はいつになく硬く、どこか事務的な冷たさを帯びていた。

 

「父上からですか? 彼女の容体なら、今しがた医者様から……」

 

「いえ。旦那様が至急、若様を屋敷へ呼び戻すようにとの仰せです。王都の商会との重要な案件について、どうしても今夜中に話しておかねばならぬことがあると」

 

執事の言葉に、青年は戸惑いの表情を浮かべた。いまこの時、彼女の側を離れたくないという思いが、彼の足を止めさせる。

 

「……今夜でなければならないのですか? 彼女はまだ、一人にするには……」

 

「旦那様の命でございます。一刻を争うとのこと」

 

執事は無機質に、けれど拒絶を許さないトーンで告げた。

青年は、不安げに自分を見つめる歌姫の方を振り返る。彼女の細い指先が、シーツをぎゅっと握りしめているのが見える。

 

「……ごめんね。きっと、僕たちのこれからの生活についての相談だよ」

 

青年は彼女の頬を優しく撫で、安心させるように、最高の笑顔を作って囁いた。

 

「大丈夫。また明日、来るよ。」

 

ありふれた、けれど絶対の愛を込めた約束。

 

「明日には、もっといい知らせを持ってこられるかもしれない。だから、今夜はゆっくり休んで。……おやすみ、僕の歌姫」

 

彼女は声が出ない代わりに、小さく、祈るように頷いた。

彼が部屋を出ていく後ろ姿。

カタン、と扉が閉まる音。

 

それが、彼女が「愛する人の背中」を見た、最後の瞬間になるとは夢にも思わずに。

 

――深夜。地母神の神殿、ひっそりと静まり返った療養室。

数刻前まで、愛する人の温もりが残っていたその部屋に、再び重苦しい足音が近づいてきた。

 

カタン、と小さな音を立てて扉が開いた。

 

(……え? 彼……? 忘れ物かな……)

 

歌姫の瞳に、微かな期待が宿る。しかし、入ってきたのは愛する青年ではなく、先ほど彼を呼び戻したはずの、あの老執事であった。

 

「……お休み中のところ、失礼いたします」

 

彼は枕元に歩み寄り、震える手で一通の書状を差し出した。上質な羊皮紙、そこに押された豪商の家の封蝋。

 

(……これは……?)

 

歌姫は震える手で、その重い紙を受け取った。

封を切り、中身を目にした瞬間。

彼女の心臓が、物理的な衝撃を受けたかのように激しく脈動し、凍りついた。

 

そこには、流麗な筆致で、彼女が最も恐れていた「世界の終わり」が綴られていた。

 

『不慮の災難とはいえ、小鬼に穢され、声を失った者に、我が家の後継ぎの妻としての価値は無い。よって、此度の縁談は白紙とする。二度と我が一族、および息子に関わらぬよう、この神殿で余生を過ごすがよい。……それが、不浄に塗れた貴殿への、せめてもの慈悲である』

 

「…………っ、あ…………」

 

指先が凍りついたように震え、書状がシーツの上に滑り落ちました。

(……嘘……。嘘よ……)

(彼は……彼はさっき、明日来るって……ずっとそばにいるって、言ってくれたのに……)

 

彼女には分からなかった。これが、彼が知らないところで行われた、父親による卑劣な「損切り」であることを。

彼女の目に映る真実はただ一つ。

自分を救うと誓ったあの人でさえも、結局は自分を「汚れ」として捨て去った。

 

(……そうよね。……そう。……ゴブリンに汚された私なんて、もう……誰の隣にもいちゃいけないんだわ……)

 

溢れ出した涙が、頬を伝い、シーツに黒い染みを作っていく。

彼女は叫ぼうとした。

「嘘だと言って」

「行かないで」

しかし、絶望に焼き切られた喉からは、ただ、ひゅ、と空気が漏れるような虚しい音しか響かなかった。

 

声が出ない。

愛する人にも、捨てられた。

世界から「お前はもう死んでいるのだ」と告げられたような、底知れぬ静寂。

 

執事は一度だけ、苦しげに彼女の顔を視ましたが、何も言わずに一礼し、足早に部屋を去った。

 

暗い病室に残されたのは、色を失った青い花と、一人の少女の死にゆく心だけ。

 

――邪教団本拠地。観測室

 

「――予想通りとはいえ、実に胸糞悪い話ですな」

 

教団幹部が、水晶の中の光景を見つめながら、吐き捨てるように告げる。

 

「昨日まで愛を囁き、共に明日を夢見ていた男の家族が、彼女が傷ついた途端にこの仕打ちだ。しかも、本人が知らないところで事務的に『処理』を済ませるとは。……不浄なるゴブリンの方が、まだ獲物に対して正直ですよ」

 

「クク……。我々が言うのも何だが、人間とはつくづく残酷な生き物だよ」

 

司祭は、彼女の魂から溢れ出す「漆黒の絶望」を吸い込むように、深く息を吐く。

 

「小鬼は肉体を壊すが、隣人は心を殺す。……彼女を最も深く、再起不能なまでに傷つけたのは、あの薄汚れた獣たちではない。自分を愛していると信じ込ませ、最後には『ゴミ』として捨て去った、あの光の下で笑う人間たちなのだよ」

 

司祭の瞳には、実験の成功を確信した狂気が宿る。

 

「これで……彼女の心の最後の砦も、跡形もなく崩れ落ちた。……『信じたい』という不純な願い。……『待っていたい』という愚かな未練。その全てが、裏切りという名の炎で焼き尽くされた」

 

「左様ですな。いまや彼女の魂は、純粋な空白……。世界を拒絶し、全てを呪うための完璧な器へと成り果てました」

 

「……さあ、収穫の時間だ」

 

司祭は、月を見上げて不気味に微笑んだ。

 

「光に裏切られ、愛に捨てられた歌姫よ。……君のその乾いた喉に、私が『真実』を注ぎ込んであげよう。……君を捨てた世界を、君が歌声一つで塵に変える……そんな至高の救済をね」

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