神殿から呼び戻され、息を切らして屋敷に辿り着いた婚約者は、重厚な執務室の扉を勢いよく開けた。
「――父上! 急ぎの話とは一体何ですか? 彼女……歌姫の容態なら、さっき神殿で見てきたばかりです。あの子にはいま、僕が側にいないと……」
部屋の中、暖炉の火だけが爆ぜる音を立ててちた。豪商は椅子に深く腰掛け、机の上の書類に目を落としたまま、顔も上げずに答える。
「座れ。……その件についてだ」
「相談なら後にしてください! 僕は明日も朝早くから彼女の元へ行く約束を――」
「もう戻る必要はない」
豪商がゆっくりと顔を上げる。その瞳にはただ不採算な事業を切り捨てる商人の冷酷さだけが宿っていた。
「……あの娘とは、もう関わるな。本日を以て、縁談は全て白紙とした」
一瞬、部屋から音が消えたかのように青年は硬直した。
「……何、を……。何を言っているんですか、父上、冗談はやめてください。……彼女は今、あんなに辛い思いをして、ようやく街に戻ってこれたんです。僕が支えなくて、誰が――」
「既に破談の書状は、先ほど執事に持たせて神殿へ送らせた」
「なっ……!?」
青年の顔から、一気に血の気が引く。
自分が呼び戻されたその「空白の時間」を使い、父親は最悪の手を打っていた。
「な、なんてことを……! すぐに、すぐに追いかけて止めてきます! 彼女が、彼女がそんな手紙を読んだら、今度こそ心が死んでしまう!!」
「お前も我が一族の男なら、いい加減に自覚しろ。……あのような『壊れ物』を抱えて、これからの商会をどう導くつもりだ? 一生、声も出せず、夜な夜な小鬼に怯えて泣き喚く女の面倒を見続けられるとでも思っているのか?」
「愛しているんです! どんな姿になっても、僕が彼女を支えると決めたんだ!」
「一時の情熱で人生を棒に振るな。…あの身体では、まともに子供を産むことも、育てることもできまいよ。小鬼の毒牙にかかった肉体が、我が一族の清らかな血を繋ぐ器として相応しいと思うか? 穢れた種を孕まされたかもしれぬ腹で、我が家の跡取りを産ませるわけにはいかんのだ」
「父上……貴方は、彼女を人間だと思っていないのですか……っ!」
「名家の跡取りとしての責務を忘れるな。お前はまだ若いし、将来もある。わざわざ泥の中に手を突っ込み、一生を台無しにする必要はないのだ」
豪商は、机の引き出しから別の書状を取り出し、青年の前に放り投げた。
「王都の伯爵家から、令嬢との見合いの話が来ている。汚れを知らぬ、清らかな乙女だ。……あの娘のことは、死んだものと思って忘れろ。それがお前のためであり、我が一族のためだ」
「……貴方という人は……ッ!」
「商売を教えたはずだ。……価値の無くなった資産は、速やかに手放すのが鉄則だと。……下がれ。二度とあの汚物の名を口にするな」
青年は、震える手で扉の取っ手を握りしめた。
父の語る「正論」という名の泥。
それが、自分が信じていた世界の全てを、いま真っ黒に塗りつぶそうとしていた。
「……僕は、認めない。……絶対に、認めないぞ!!」
青年が部屋を飛び出した後、豪商は冷たく鼻で笑う。
その足元、暖炉の中では、歌姫と青年がかつて交わした約束の譜面が、静かに灰となって崩れ落ちていった。
――夜の帳に包まれた、港街の寂れた桟橋。
荒れ狂う波が足元を叩き、白い飛沫が冷たく頬を打つ。
歌姫の手に握りしめられているのは、無慈悲な絶縁状。雨に打たれ、泥に汚れた彼女の姿には、かつて「街の宝」と謳われた面影はどこにもなかった。
(……ああ、そうね。お父様の仰ることは正しいわ……)
彼女の心には、絶縁状に記された冷酷な言葉が、毒のように回っていた。
(彼の家は名家。名誉も誇りもある……。ゴブリンに汚され声も出なくなった私が、彼の隣に並べるはずがない。ましてや、こんな不浄に塗れた身体で、彼の子供を産めるわけがない……)
彼女はゆっくりと目を閉じ、一歩、奈落へと足を踏み出そうとした。
その刹那。
「――早まってはいけないよ。絶望の花は、まだ蕾のままだ」
不自然なほど穏やかで、銀の鈴を転がすような声が響き渡る。
驚いて振り返った彼女の瞳に映ったのは、純白の法衣を纏い、柔らかな光を背負った男。
「……っ……、ぁ……」
声の出ない彼女は、怯えたように後ずさる。男は優しく微笑み、彼女の前に跪いた。
「怖がらなくていい。私は司祭。虐げられた人々に救いの手を差し伸べる『光の教団』の代表を務めている者だ。君の悲鳴を聞きつけて、ここまでやってきたのだよ」
司祭は、彼女の泥だらけの手をそっと取り、いたわるように包み込んだ。
「可哀想に。神は君を見捨てたのではない。試練を与えただけなのだ。……私と一緒に来なさい。我らの聖域で『反転の儀式』を受ければ、君は必ず、あの失われた美しい歌を取り戻すことができる」
「……!? ……ぅ……、ぁ……」
歌を取り戻せる。その甘美な誘惑に、彼女の指先がピクリと跳ねた。
「歌を取り戻せば、君を『汚物』と呼び捨てた街の人間も、掌を返して君を敬うだろう。君を裏切ったあの婚約者の家族も、自分たちの非を認め、心を入れ替えるはずだ。……愛した彼も、きっと君の元へ戻ってくる」
司祭の瞳の奥で、ドス黒い混沌の炎が揺らめく。
「君には価値があるのだ。誰にも、何にも汚されない、絶対的な価値がね。……さあ、その絶望を私に預けなさい。君を、この世で最も高く、最も美しく歌う『神』にしてあげよう」
「……ぁ……あ……っ……!」
絶望のどん底で差し伸べられた、偽りの救いの手。
自分を捨てた世界への微かな復讐心と、愛されたいという切実な願い。
その隙間に、司祭の言葉が完璧な楔となって打ち込まれた。
彼女は震える手で、司祭の指を強く握り返した。
「クク……、良い子だ。……さあ、君の新しい人生を始めようか」
豪雨の岬から、二人の影が消えた。
後に残されたのは、波にさらわれる一枚の絶縁状と、救いなき世界の沈黙だけ。