『ゴブリンスレイヤー』外伝【幻声哀歌編】   作:いっかず

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第13話:深淵の揺籃

執務室を飛び出し、土砂降りの雨のなかを遮二無二走った。

肺が焼けつくような痛みも、泥に汚れる高価な靴のことも、いまの彼にはどうでもよかった。ただ、一刻も早くあの静かな部屋へ戻り、彼女の手を握りしめ、「あの手紙は僕の意志ではない」と伝えなければならない。その一心だけが、彼を突き動かしていた。

 

「ハァ……、ハァッ……!!」

 

肩で息をしながら、神殿の療養所の扉を乱暴に開ける。

だが、彼を待っていたのは、安堵の光ではなく、心臓を凍りつかせるような静寂だった。

 

「……っ、歌姫!? どこだい、歌姫!!」

 

返事はない。

彼が今日供えたばかりの青い花が、主を失った寝台の脇で寂しげに揺れている。

シーツは整えられたままで、そこには体温の残滓すら感じられなかった。

 

「……ああ、若様。戻られたのですか」

 

物音を聞きつけて現れた医者が、力なく首を振った。その手には、一口も付けられていない夕食のトレイが握られている。

 

「……夕食を持ってきましたが、トレイには全く手をつけておられませんでした。お声をかけても反応がなく、ひどく絶望した様子で……」

 

「彼女は!? 彼女はどこへ行ったんだ!!」

 

青年に詰め寄られ、医者は悲痛な面持ちで視線を逸らした。

 

「……分かりません。先ほど、少し目を離した隙に……。一時間ほど前に回診に訪れたときには、既にお部屋はもぬけの殻でした。窓が開いており、外は激しい雨で足跡も追えず……」

 

「そんな……ッ!!」

 

青年の視線が、床に落ちた一通の紙切れ――豪商の封蝋が無残に引き裂かれた絶縁状を捉えた。

 

(父上……なんてことを……!!)

 

彼はその紙を握りしめ、再び雨のなかへと飛び出した。

視界を遮る豪雨。どこへ向かえばいいのかも分からない。けれど、彼女がこの状況で向かう場所など、一つしか思いつかなかった。

 

(お願いだ、早まらないでくれ……!!)

 

(僕の言葉を、僕の愛を、まだ君に伝えていないんだ。あんな紙切れ一枚で、僕たちの全てが終わるなんて、絶対に認めない……!)

 

一人の青年の必死な足跡が、夜の港町に刻まれていく。

しかし、彼が桟橋に辿り着いたとき、そこにはもう、彼女の影も、そして彼女を誘い出した「光の教団」の馬車の音も、残ってはいなかった。

運命のダイスは、既に最悪の出目を確定させていた。

 

――豪商の屋敷の書斎では、暖炉の火だけが赤々と燃え、主の冷徹な横顔を照らし出していた。

 

「……旦那様。療養所から報告が入りました。彼女が……あの歌姫が、書き置き一つ残さず姿を消したそうです」

 

老執事が沈痛な面持ちで告げる。その声には、かつて街の華であった少女への、微かな憐憫が混じっていた。しかし、机に向かって帳簿を捲っていた豪商は、ペンを止めることさえしない。

 

「そうか。……せいぜい、人目のつかないところで野垂れ死んでくれれば、こちらとしても都合がいい」

 

「……しかし、坊ちゃまが……。あの方は雨の中、狂ったように街中を駆け回り、彼女を探しておられます。港の端から、治安の悪い裏路地まで……」

 

執事の言葉に、豪商はようやく顔を上げた。だが、その瞳に宿っていたのは息子への心配ではなく、底冷えするような苛立ちであった。

 

「諦めろと伝えろ。……小鬼に汚され、声も出せんような『壊れ物』に、これ以上我が家の労力を割く必要はない。……あやつがどれほど叫ぼうが、探そうが、あの娘はすでに我が家とは、そしてこの社会とも何の関係もない存在なのだ」

 

豪商は冷酷に言い捨て、再び帳簿へと視線を落とした。

 

「失踪したのなら、なおさら好都合。……死んだと思って早く忘れるのが、あやつにできる唯一の親孝行というものだ」

 

「…………。かしこまりました」

 

執事は深く頭を垂れ、部屋を去った。

 

――激しい潮騒が、切り立った断崖を叩き、白い飛沫が夜の闇に舞う

港街から数里離れた、かつては海の監視を担っていたものの、今や地図からも人々の記憶からも消えかけている場所――「深淵の岬」。

 

(……ここは、街外れの深淵の岬……。幽霊が出るって、子供たちが怖がっていた場所……)

 

かつての彼女なら、その名を聞いただけで震え上がったことだろう。けれど、今の彼女にとっては、自分を見捨てた明るい街よりも、この陰鬱な岬の暗闇の方が、ずっと心地よく感じられた。

 

「――驚いたかね? ここに打ち捨てられていた古い監視塔を、我が教団の拠点として使わせてもらっているのだよ」

 

司祭は、優雅な仕草で塔の重厚な扉を開けました。

 

「ここは静かだ。神々の遊戯の騒がしさも、無理解な人々の嘲笑も届かない。君のような傷ついた魂を癒やすには、これ以上ない聖域なのだよ」

 

司祭は、優雅な仕草で塔の入り口を指し示した。鉄の扉が重苦しい音を立てて開くと、そこには白い仮面を被り、不気味な黒い法衣を纏った男たちが、跪いて二人を待ち構えていた。

 

「――お待ちしておりました、閣下」

 

奥から現れたのは、白装束に身を包んだ教団幹部たち。彼らは歌姫を一瞥すると、獲物を値踏みするような鋭い眼光を、一瞬で「慈悲深い信徒」の微笑みへと塗り替えた。

 

「最高級の『素材』……いえ、失礼。新しい仲間の到着ですね。準備は全て整っております」

 

司祭は満足げに頷き、震える歌姫の背中にそっと手を添えた。

 

「さあ、早速儀式を始めようか。……君の喉を縛るその絶望を、世界を震わせる最強の歌声へと昇華させるための神聖なる儀式をね」

 

司祭は彼女を促し、塔の奥深くへと続く螺旋階段を下りていく。

冷たい石の壁には、教団が崇める「拒絶の曼荼羅」がいたる所に刻まれ、不気味な魔力の脈動を放っていた。

 

やがて辿り着いた最下層。

そこには、無数の鎖と、不気味に発光する液体で満たされた調整槽が置かれていた。

 

「……ぁ……あ……」

 

歌姫は、言い知れぬ不安に胸を締め付けられた。

聖域と呼ぶには、この場所はあまりにも冷たく、血の臭いがどろりと澱んでいる。

 

けれど、彼女に拒否する術はない。

彼の元へ帰るために。

自分を捨てた世界に、もう一度自分の価値を認めさせるために。

 

彼女は、自分を地獄へと誘う揺籠の中央へと、自ら歩みを進めた。

 

司祭の指先が動き、不気味な詠唱が始まる。

それは祈りではなく、一人の少女の魂を裏返し、その悲鳴をエネルギーへと変換する【反転術式】の産声であった。

深淵の岬に、少女の人間としての最後の悲鳴が響き渡った。

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