雨に咽ぶ港街。神殿の病室はもはや空で、彼女が大切にしていた楽譜も、彼が贈った青い花も、無残に床に散らばっていた。
狂ったように街中を捜索し、手がかりを失い、ボロボロになって戻ってきた青年を、豪商の館の重厚な扉が冷たく迎え入れた。
執務室の明かりの下、豪商は優雅に書類を整理しながら、息子を一瞥した。
「……戻ったか。ようやく自分の立場を理解したようだな」
豪商は満足げに鼻を鳴らし、息子の憔悴しきった姿を「反省」の証だと決めつけていた。
「……決めました、父上」
青年の声は、先ほどまで叫んでいたとは思えぬほど、静かで、硬く、冷え切っていた。
「ほう。ようやく分かったか。それでこそ我が一族の男、私の息子だ。あの不浄な小娘のことなど、一晩寝れば忘れる。明日には王都の伯爵家の娘との――」
「この家を出ます」
「…………なんだと?」
豪商の動きが、凍りついたように止まる。
「聞こえませんでしたか。僕は、今日この時を以て、貴方の息子であることをやめ、この家を去ります」
青年は、父が大切にしている家紋の入った上着を脱ぎ捨て、床に叩きつけた。
「僕は、何があっても彼女を見捨てません! 例えあの子が二度と歌えなくても、言葉を失っても……! どんなに身体が汚されたと貴方が蔑もうとも、関係ない! 僕が愛したのは……僕が共に人生を歩みたいと願ったのは、彼女の気高い魂なんだ!!」
「狂ったかッ!!」
豪商が立ち上がり、机を激しく叩きつけた。
「現実を見ろ! 手掛かりも無く消えたのだぞ!? この辺境の習いとして、あの手の女は今頃もう、絶望して海に身を投げているだろうよ! 魚の餌になった死体を愛でて、どうしようというのだ!」
「…………いいえ。彼女は、必ず生きています」
青年は、父の怒号を真っ向から受け止め、一歩も退かずに言い放つ。
「根拠なんてありません。でも、僕の魂がそう叫んでいる。……彼女をあんな暗闇に独りで置いていけるもんか。僕が必ず、彼女を見つけ出し、救い出す。貴方たちが捨てた、その汚れごと、僕が全て抱きしめてみせる!!」
「勝手にしろッ! 勘当だ! 二度とこの敷居を跨ぐことは許さん! 飢え死にしようと、ゴブリンに食われようと、一銭の援助もせんぞッ!!」
「……ええ。さようなら、父上」
青年は一度も振り返ることなく、豪雨のなかへと再び飛び出していった。
地位も、財産も、約束された安泰も。
その全てを捨てて、彼は一振りの剣を手に、愛する人を救うための「終わりのない旅」へと身を投じた。
――邪教団本拠地、地下最深部。
そこは、不気味に明滅する黒紫色の魔法陣と、臓物を焼くような魔力の悪臭に満ちていた。手術台の上で、かつての「潮風の歌姫」は無数の鎖に繋がれ、喉元に埋め込まれた「核」が、彼女の命を啜るように激しく脈動している。
「――閣下、施術は最終段階に入りました。……ですが、本当に大丈夫なのですか? あの華奢な娘が、果たしてこの負荷に耐えられるでしょうか。これまで、屈強に鍛えられた女冒険者ですら、魂の反転に耐えきれず肉体が崩壊していったというのに」
教団研究員が、モニター代わりの水晶に映し出される、危ういバイタルデータを見つめながら震える声で問いかけた。
「ククク。案ずるな。……器の強さなど、この術式には大した問題ではないのだよ」
司祭は、狂信的な外科医のような手つきで、歌姫の喉元の術式を調整した。
「大事なのは魂の『質』だ。……見てみろ、あの娘の瞳を。あれほど無残に裏切られ、絶望の底に突き落とされながらも……その魂の奥底には、未だに消えぬ不純な『光』が燻ぶっている」
――歌姫の、混濁する意識の底。
激痛。
全身の血が沸騰し、魂が千切られるような苦しみの中で、彼女はたった一つの「願い」だけを、消えゆく意識で抱きしめていた。
(……もう一度……歌いたい……)
(彼に……もう一度、私の声を届かせて……。あの日、約束したみたいに……私の歌で、彼を……世界を幸せにしたい。……彼が、また私を愛してくれるなら……私は……何だって……!)
その時、静まり返っていた室内を、けたたましい警告音が切り裂いた。
水晶に映る魔力出力のグラフが、垂直に跳ね上がる。
「な……ッ!? この数値は……!? 魂の共鳴係数が、計測限界を突破しています!! 被験者の『喉』から、異常なまでの高密度な混沌波が……!!」
「…………ああ、聞こえるぞ。神々が盤面に置いた『不運』が、最高の『災厄』へと裏返る音が」
司祭は恍惚とした表情で、調整槽のガラスに顔を寄せた。
少女の喉に刻まれた核が、真っ赤に燃え上がり、空間を歪ませる高周波のノイズを放つ。
「――誕生だ。絶望の旋律を奏でる、我が一号体。……世界を死に至らしめる、美しき死神の誕生だよ」
一人の少女の人生は完全に終わりを告げ、世界の不浄を掃除するための「最初の旋律」が、深淵の岬へ向けて解き放たれた。