調整槽から引き揚げられた少女の肌には、黒い魔力の文様が血管のように浮き上がり、喉元には一際濃密な混沌の核が鎮座していた。
「……よく耐え抜いたね。これで君は、再び歌うことができる」
司祭は、濡れた少女の髪を優しく撫で、その耳元で甘く囁いた。
少女――歌姫は、自らの喉に手を当てた。そこには、かつての瑞々しい感触はなく、冷たい石を埋め込まれたような異物感がある。
(……本当に? ……本当に、私はまた……歌えるのかしら?)
彼女の意識の底には、まだ微かな期待が燻っていた。もし声が戻るのなら。もう一度、彼のためにあの歌を奏でられるのなら。この耐え難い痛みも、混沌の魔力さえも受け入れよう。
彼女はまだ知らない。その喉が奏でる「歌」が、もはや愛を囁くためのものではないことを。
「クク……。不安かね? ならば、今の君の歌の素晴らしさを確かめるための『舞台』を、すぐに用意してあげよう」
司祭は立ち上がり、壁に設置された魔導通信機へと声を飛ばした。
「――聞こえるか、警備部門。地下第三演習場に連絡を。『キャンバス』に、彼女の門出を祝うための特別な『観客』を用意させたまえ」
通信の向こうから、重々しい承諾の声が返る。
「……お手並み拝見ですな、閣下」
影の中から姿を現した教団幹部が、無機質な瞳でセイレーンを見下ろした。
「果たして、この娘の悲鳴……失礼、『歌声』が、あの大司教にまで届きうるものかどうか。……もし失敗すれば、素材の無駄遣いに終わりますぞ」
「案ずるな。……これまでに無いほど、純粋な絶望を注ぎ込んだのだ。……さあ、行こうか、歌姫。……世界中を酔わせる、死の演奏会の始まりだ」
司祭に導かれ、歌姫は重い足取りで演習場へと向かった。
一人の少女の願いが、最も残酷な形で踏みにじられる「初演」の幕が、いま上がろうとしていた。
――邪教団の地下第三演習場。冷え切った円形の舞台の端に、一人の少年が力なく座り込んでいた。
彼の名は、【キャンバス】。
かつては港街で、貧しくともひたむきに画家を夢見ていた少年。ゴブリンに唯一の肉親を殺され、挙句に放火の濡れ衣を着せられて全てを失った彼は、司祭の手によって「描いたものを実体化させる」異能を植え付けられた。しかし、彼が生み出せるのは竜や魔神のような神話の怪物ではなく、既存の魔物の模造品に過ぎない。司祭からは「筆が凡庸」と切り捨てられた「劣化品」である。
「……キャンバス。新しい『観客』を描きなさい」
司祭の冷徹な命令に、少年は虚ろな瞳のまま、魔力を帯びた黒い絵具を筆に浸した。彼が宙に筆を走らせると、墨汁のような魔力が空間に滲み出し、異形の形を成していく。
「――岩喰怪蟲(ロックイーター)。鋭い牙で岩を噛み砕きながら地面を掘り進み、音を頼りに獲物に襲いかかり、鎧を纏った冒険者でさえもあっさり喰い殺す怪物ですな」
描き出された巨大な怪蟲を見下ろし、教団幹部が事務的な声でその危険性を説いた。
「本来なら、熟練の冒険者が十数人と集まって、綿密な作戦を立ててようやく倒せるような相手……。戦いの経験など皆無な、ただの町娘であったあの娘が、果たして立ち向かえるものかどうか」
教団研究員が、震える手で記録板を握りしめながら疑念を口にする。
「クク……。だからこそ、最高級の『悲鳴』が期待できるのだよ。……始めなさい、キャンバス。彼女に、音を出すことの恐怖を教えてあげるのだ」
司祭の合図と共に、キャンバスが最後の一筆を加え、ロックイーターに「命」が吹き込まれた。
地響きと共に岩の床を砕き、怪蟲は地中へと身を潜めた。
――十分後。明かりの乏しい円形舞台に、セイレーンが一人立たされていた。冷たい岩肌に囲まれたその場所は、かつて彼女が夢見た王都の大劇場とは似ても似つかぬ、死の匂いのする檻だった。
「――ここが君の初演の舞台だ。少々殺風景だが、余計な装飾がない分、君の『声』がよく響く」
上層の観覧席から、司祭のゆったりとした声が降り注ぐ。歌姫は震える肩を抱き、周囲を必死に見渡した。
(観客……? どこにいるの? 誰もいないじゃない……)
彼女は音の出ない喉をさすり、上層の観測室にいる司祭を仰ぎ見た。司祭は優雅に椅子に腰掛け、手にしたタクトを振るように彼女を指し示す。
「クク……。案ずるな。彼はそこにいる。ただ、とても恥ずかしがり屋でね、今は地面の下に隠れているんだよ」
その瞬間、足元の岩盤が微かに震えた。ズシン、と腹に響くような振動。
「さあ、歌いたまえ。君のその素晴らしい歌声を聴かせてあげれば、彼も喜んで姿を現すだろう」
(歌う……。本当に、私の声は戻ったの?)
彼女は司祭の言葉に縋るように、ゆっくりと唇を開いた。
かつてのように、王都の聴衆を感動させるような、清らかな旋律を思い浮かべて。
「――――――――」
物理的な「音」は出なかった。
しかし、彼女が声を絞り出した刹那、空間そのものが不気味に歪んだ。喉に刻まれた核が熱を帯び、彼女の「絶望」が魔力の共鳴波となって放射される。
その「歌」が舞台を満たした、その時だった。
ドゴォォォォォォォォンッ!!
舞台の床が内側から爆ぜ、巨大な節足を持つ岩喰怪蟲(ロックイーター)が、獲物の位置を特定する「音」を頼りに、地下から躍り出ようとした。
だが。
「ギ、ギギ…………!? ギガァァァァァッ!!?」
獲物を喰らおうと鎌首をもたげた怪蟲の動きが、空中で奇妙に止まった。
怪蟲にとって、歌は単なる音ではなかった。それは脳の中枢に直接打ち込まれる、強烈な「認識の毒」。
幻声に支配された怪蟲の脳は、「目の前にいる獲物」と「自分自身の肉体」の境界を見失った。
グチャ……、バリバリッ!!
怪蟲は狂乱し、自らの巨大な顎で、自らの脚を、そして腹部を、凄まじい力で噛み砕き始めた。
自身の牙が肉に食い込み、体液が舞台にぶちまけられる。怪蟲は苦悶の声を上げながらも、その「歌」が脳を支配している限り、自壊の手を止めることができない。
(……やめて。どうして、自分を傷つけているの!?)
歌姫が恐怖に瞳を揺らす間も、彼女の「歌」は止まらない。
感情が昂れば昂るほど、術式の出力は上がり、旋律はより残酷な響きとなって怪蟲の精神を解体していく。
わずか数分後。
そこには、自らの意志で自らの命を絶った、巨大な魔物の残骸だけが横たわっていた。
「――これが、彼女の新たな『歌』か。魔力の波形が既存のどの術式にも当てはまらん」
教団幹部が、震える手で眼鏡を直した。彼の目の前の観測機器には、セイレーンの発した不協和音が精神を「物理的に削り取る」様子が克明に記録されていた。
「凄まじいな……。歌を通じて『観客』の精神を狂わせ、本能レベルで自滅を強要する。……怪蟲は最後、自分の肉体を『排除すべき異物』だと誤認したのだ。これは幻術などという生易しいものではない。自己の根底を破壊する、魂の崩壊音だ」
静寂が戻った演習場に、司祭の拍手が冷たく響き渡る。
「クク……、予想以上だ」
それまで沈黙を守っていた司祭が、ゆらりと立ち上がった。
彼は手すりに手をかけ、血の海に膝をつく少女を、この世で最も愛おしい芸術品を眺めるような眼差しで見下ろした。
「素晴らしい初演だったよ、潮風の歌姫。……いや、もうその名で呼ぶのは失礼だな。君はこの一曲で、人としての過去を完全に捨て去り、神の領域へとその指先をかけたのだから」
司祭の声が、拡声の術式を通じて演習場全体に、荘厳に響き渡る。
「君には新たな名を与えよう。……『セイレーン』。甘美な歌声で船乗りを魅了し、抗えぬ力で岩礁に誘い込んで、その骨の髄まで喰らい尽くす神話の怪物の名だ」
(セイレーン……。……怪物……)
司祭の称賛を背に、セイレーンは震える手で自らの喉を覆った。
自分の声が戻った。
けれど、それは誰かを幸せにするためのものではなく、命あるものを自壊させるための、呪いの笛の音だった。
(……こんなの、歌じゃない……)
その絶望が、彼女の次の「旋律」をさらに研ぎ澄ませていく。
死神の初演は、こうして鮮血と自滅の喝采の中で幕を閉じた。