地下演習場での初演――ロックイーターが自らの身体を噛み砕き、肉塊へと変わった凄惨な光景から一週間。セイレーンは塔の最上階に近い一室で、窓の外に広がる灰色の海を眺めていた。
喉の刻印は皮膚の下でどす黒く定着し、時折、彼女の意思とは無関係に、焼けるような熱と「声」の衝動を伝えてくる。
(……あの人たちは、一体何をするつもりなの?)
鏡に映る自分の顔を見るたび、あの日自滅した怪物の血飛沫がフラッシュバックする。救われたはずなのに、歌を取り戻したはずなのに。彼女の心は、かつての澄み切った海のような平穏からは程遠い、淀んだ暗闇の中にあった。
カタン、と背後で扉が開く音がした。死の淵にいた自分を「救い上げた」男――司祭の気配。
「――体調はどうかな、私の歌姫」
「……ッ、……ぁ……」
声を出そうとすると、喉の奥が震える。司祭は彼女の隣に腰を下ろし、その震える手を優しく、けれど逃げられぬ強さで握りしめた。
「怖がることはないよ。……今はまだ、自分の変化に戸惑っているだけだ。だがね、君がこの歌を完全に使いこなせるようになれば、もう誰も君を『傷物』と蔑んだり、汚物として避けたりはしない。むしろ、君の前に跪き、その声を聴くために慈悲を請うようになるだろう」
セイレーンは唇を噛み、下を向く。自分を捨てた人間を見返したいという小さな欲。それを司祭は言葉巧みに増幅させていく。
「何より……ゴブリンに怯えることも、なくなるはずだよ」
その言葉に、セイレーンの肩がびくりと跳ねた。
「あの薄汚い獣達がどれほど群れようと、君の調べ一つで塵へと帰る。君はただ、誇り高く歌っていればいい。……力無き者に、この世の不条理に立ち向かう力を与える。それこそが、我ら『光の教団』の至高の教義なのだからね」
(……不条理に立ち向かう、力……)
司祭の言葉は聖職者が語る「信仰」よりも、いまの彼女にはずっと現実的な救いに聞こえていた。
「さあ、顔を上げなさい。君の価値を、再び世界に知らしめる時だ。次の舞台の準備が整ったよ。……新たな『観客』が、君の声を待ち望んでいる」
再び、地下の暗い演習場へ。
セイレーンの奏でる幻声の「第二楽章」が始まろうとしていた。
――観覧席の最上段。手元の記録をめくる教団幹部が、隣に座る司祭へと問いかけた。
「――閣下。セイレーンの調整は順調のようですが、次の実験は如何いたしますか?」
司祭は、舞台の上で力なく項垂れている少女を見つめ、静かに問いを返した。
「……君は彼女の能力……この『幻声の哀歌』の弱点は何だと思うかね?」
幹部は少し考え、魔導学の定石に基づいた答えを口にした。
「……歌を聴かせて精神に干渉し、認識を改竄する性質上、物理的な対策は容易でしょう。例えば『聴覚を持たぬ者』。あるいは、そもそも感情や心、自意識を持たぬ『無機物の人形』相手には、無力なのではないでしょうか」
「クク……。果たしてそうかな?」
司祭は立ち上がり、舞台の端で待機していたキャンバスへと合図を送る。
「……キャンバス。次の『観客』を用意しなさい。……標的は、『岩のゴーレム』だ」
「………………」
キャンバスは無言で頷き、宙に巨大な筆を走らせた。黒い魔力の絵具が、重厚な石の質感を伴って凝縮されていく。
「――成る程。耳も心もない、ただの命令に従うだけの人形。……もし、セイレーンの歌が『音』や『心』に依存しているのなら、この石の塊を止める術はないはず」
描き出されたのは、身の丈四メートルを超える、岩石の巨像。
心臓の鼓動も、獲物を狙う殺意もない。ただ、刻まれた術式に従い、目の前の生命体を排除するためだけに動く、死を恐れぬ自動機械がセイレーンへと歩み寄る。
「…………っ」
セイレーンは後ずさり、震える手で自らの喉を押さえた。相手には耳がない。鼓膜を震わせ、脳を狂わせる「歌」は、この動く岩塊には届かないはずだった。
「さあ、歌うのだ。対話に言葉がいらぬように、拒絶に鼓膜はいらぬことを証明したまえ」
咆哮もせず、呼吸もせず、ただ司祭の殺意を代行する岩の巨兵が、巨大な石の腕を振り上げる。その影に飲み込まれそうになりながら、セイレーンは血を吐くような思いで喉を震わせた。
「――――――――」
舞台を満たしたのは、ロックイーターを屠った「狂乱の旋律」ではなかった。それは、より低く、重く、空間そのものを震動させるような、不気味な地鳴りに似た重低音の調べ。
「……ほう。この曲はロックイーターを屠った時とは違いますな」
観覧席の教団幹部が、身を乗り出して魔力計を凝視する。
「調べの波形が、物質の分子構造を揺らしている。……見てください。歌が届いた瞬間に、ゴーレムの動きが止まった」
「……観測機に異常な数値! これは、歌が物理的な障壁を透過して、直接ゴーレムの『核(コア)』に干渉しています!」
教団研究員が、魔法計の針が振り切れるのを見て叫ぶ。
「精神への干渉ではない……! 魔力の波形が、ゴーレムを動かしている術式の構成周波数と完全に同期(シンクロ)している。歌が、石の身体の中に流れる『命令の糸』を直接掴み取っているのです!」
ズズ……、メキメキッ……!!
ゴーレムの岩の表面に、無数の細かな亀裂が走り始めた。
本来、ゴーレムは術者(キャンバス)からの「敵を砕け」という命令を最優先するはずの存在。しかし、セイレーンの奏でる不協和音は、その魔力回路の深淵へと潜り込み、命令そのものを根底から書き換えていった。
「馬鹿な! 術者からの命令を、『自壊』に書き換えただと?精神を持たぬ無機質に対し、認識の上書きを強行するなど……!」
ゴーレムの全身を構成する岩石が、内側から激しく軋む。
核に宿る魔力がセイレーンの「声」と共鳴し、自身の構造を維持するための結合を、自ら解除し始めたのだ。
――パキィィィィィィンッ!!!
巨大な岩の腕が根元から崩れ落ち、さらには胴体が、頭部が、まるで砂の城が崩れるように音を立てて瓦礫の山へと還っていく。
「ククク……。驚くことはあるまい」
司祭は、崩れゆく巨兵を満足げに眺め、教典の一節を説くように静かに言葉を繋ぐ。
「耳がないならば、その身を巡る魔力に直接語りかけ……。心がないならば、その存在を繋ぎ止めている『理』の隙間に、絶望の不協和音を流し込めばよいのだよ」
――バォォォォォンッ!!!
四メートルの巨躯は、ただの動かぬ石礫となって舞台に降り注いだ。
「…………」
静寂。
セイレーンは、自らが成し遂げた「理不尽」に絶望し、涙を流した。心がないはずの道具にさえ、彼女の歌は「死」を強制したのだ。
「……素晴らしいよ、セイレーン」
司祭がゆっくりと拍手しながら、階段を下りる。
「君の歌は、もはや精神汚染の域を超えた。……それは、この世界の理そのものに食い込み、不都合な存在を消去するための『削除命令』へと進化したのだよ。……これで証明された。君の前では、生者も、死者も、人形も……等しく無力だということがね」
セイレーンは、砕けた石の破片のなかで、震える手で自らの顔を覆った。
自分の声が、自分でも理解できないほどに強大で、恐ろしいものへ変貌していく。
(……あ、あ……)
(……本当にこれが……。本当にこれが、誰かを幸せにできる歌なの……?)
彼女の脳裏に、かつて夢見た「王都の舞台」が浮かぶ。
拍手、喝采、笑顔。
今の自分の周りにあるのは、自壊した怪物の残骸と、自分を「最強の兵器」として品定めする狂信者たちの冷たい眼差しだけ。
歌えば歌うほど、世界から色が消え、命が砂となって消えていく。
その絶望的な矛盾が、彼女の喉に刻まれた反転術式の「核」を、さらに深く、暗く、純化させていった。