邪教団の拠点、深淵の岬にそびえ立つ監視塔。その地下にある「抽出と調律の間」では、魔導水晶に映し出される実験データを見つめながら、教団の幹部たちが冷徹な分析を交わしていた。
「――報告いたします。ワイバーンにトロル、シーサーペント……キャンバスが描き出した既存の魔物はあらかた試しましたが、いずれもセイレーンの『幻声の哀歌』の前には、自らの肉体を食い破るか、精神を焼き切られて自壊。生物としての本能を逆手に取った汚染術式は、既に完成の域にあります」
教団研究員が、これまでに「処理」された検体の山を指し示した。そこには、キャンバスの筆によって産み落とされ、セイレーンの歌によって自壊させられた無数の魔獣の残骸が積み上がっていた。
「しかし、閣下。そろそろキャンバスの作品を使った戦闘実験には限界があります」
教団幹部が、疲れ果てて筆を置いた少年の背中を一瞥し、不快そうに鼻を鳴らした。
「あれの能力で産み出せるのは、一度に一体のみ。その上、ドラゴンや魔神のような神話級の魔物は、奴の貧弱な器では描ききれません。セイレーンの『真の出力』を測るには、もはやこの地下はあまりに狭すぎる」
幹部の言葉は、これ以上のデータ収集には「実戦」が必要であることを示唆していた。
すると、影の中から一歩歩み出た司祭が、愉悦に満ちた笑みを浮かべて窓の外――漆黒の海を指差した。
「クク……。案ずることはない。ちょうどいい『観客』たちが、向こうからこちらへ歩み寄ってきているようだよ」
「……観客、ですか?」
「ああ。情報によれば、あの『紅鮫』が、近々この岬を通過して港町を襲撃するらしい」
「紅鮫海賊団……!南海の覇者と恐れられる、あの巨大海賊団ですな」
その名を聞いた瞬間、幹部の表情が微かに引き攣った。
「五十隻の艦隊に五千の兵力。略奪と殺戮で鍛え上げられた船員たちは、王国軍の正規兵を凌ぐほどの手練れ揃い……。あの王国海軍ですら、被害を恐れて下手に手を出せないほどの海の王者……」
「そうだ。物理的な暴力と、略奪への欲望で固められた五千の魂。……これほど贅沢な『合唱団』が他にいるかね?」
司祭は、地下で絶望の微睡みの中にいるセイレーンへと思いを馳せる。
「キャンバスの描き出す虚像ではなく、生きた人間の『劣情』と『絶望』を、彼女の旋律でどこまで増幅できるか。……五千の悲鳴が重なり合い、海を真っ赤に染め上げるその瞬間……。それこそが、私の死神が真に世界へ産声を上げる、最高の初演舞台となるだろう」
司祭の瞳には、これから起きる一方的な蹂躙が、完璧に構成された「楽譜」のように映っていた。
「準備をせよ。……海賊諸君には、略奪の宴ではなく、永遠の眠りへと誘う『鎮魂歌』を聴かせてあげようではないか」
塔の最上階から放たれる呪いの波動が、静かな海面を不気味に波立たせ始める。
南海の覇者が、ただの「当て馬」として数えられようとしていた。
――数日後
地下演習場での日々は、セイレーンにとって終わりのない悪夢であった。来る日も来る日も、キャンバスが描き出す異形の魔物たちを、自らの「声」で自壊させ、塵へと変える作業。
(……来る日も、来る日も……。私はただ、命を壊すためだけに、この喉を震わせている……)
感覚は麻痺し、かつての美しい記憶さえも、返り血のような黒い魔力の波に塗り潰されそうになっていた時。司祭が、いつになく「朗報」を携えたような顔で彼女の前に現れた。
「――お疲れ様、私の歌姫。これまでの訓練で、君の歌はもはや地上のあらゆる獣を凌駕した。……さあ、いよいよ本番だ。次は、キャンバスが描く紛い物ではない、より多くの『本物の観客』たちが君を待っている」
司祭は暗い水平線を指差した。その視線の先、漆黒の波間に、無数の篝火を灯した艦隊が、まるで巨大な百足のようにうねりながら近づいてくるのが見える。
「紅鮫海賊団。……君も、その名を知っているだろう?」
(……っ!? あの、南海の悪魔たち……! まさか……)
セイレーンは目を見開いた。その名は、港街に住む者なら子供でも知っている、恐怖の象徴。南海を血で染め、海軍さえも恐れる最悪の略奪者集団。
「そう。彼らは、あの美しい港街を襲うつもりのようだ。夜明けと共に港へ突入し、街を火の海に変え、略奪の宴を始める……。そんな計画を立てているらしい」
(そんな……街の皆が……。それに、彼が危ない……!)
彼女の胸に、激しい焦燥と恐怖が走り抜ける。司祭は彼女の心の揺らぎを逃さず、背後からその細い肩を優しく、けれど重苦しく包み込んだ。
「大丈夫だ。怯えることはないよ、私の歌姫。……君がその調べを聴かせてあげれば、海賊たちは戦う意欲を失い、武器を捨てて大人しくなる。……君の声が、愛する人を守るための『盾』になるのだよ。……これは君にしかできない、故郷を守るための『聖戦』なのだ。」
(私が……みんなを、彼を助けられる……?)
「さあ、岬の突端へ向かおう。……愛する人々を、その手で救うのだ」
司祭の言葉は、最も残酷な形で彼女の善意を刺激した。
自分の「呪いの歌」が、大切な人を守るための「救いの歌」になれる。そのあまりにも甘い、あまりにも醜悪な錯覚。
(……助けなきゃ。……私が、やらなきゃ……!)
セイレーンは、自ら窓辺へと歩み寄った。
喉元の刻印が、彼女の正義感を糧にして、これまでにないほど強烈な魔力を帯びて発光する。
艦隊から聞こえる、海賊たちの下卑た笑い声と勝ち鬨。
それを飲み込むように、一人の少女の「悲鳴」が、死の歌となって夜の海へと解き放たれる。
司祭の実験は、ついに一人の少女の「慈悲」をも飲み込み、史上最大の海難事故を引き起こす準備を整えた。