南西海域へと続く、切り立った断崖の街道。
潮風は湿り気を帯び、空はどんよりとした鉛色の雲に覆われていた。
その道を、一人の若き冒険者が歩いていた。
装備は使い古され、足取りは重い。だがその瞳に宿る光だけは、消えぬ執念のように強く、前方の霞む水平線を見据えていた。
道の向こうから、金属の軋む音と共に、一団の影が近づいてくる。
それは、王国の紋章を鎧に刻んだ騎士たちの成れの果てだった。
白銀の甲冑は泥にまみれ、剣は折れ、何人かは仲間に肩を貸りて引き摺るように歩いている。その全員が、耳から乾いた血の跡を流し、虚空を怯えた目で見つめていた。
「……おい、兄ちゃん。冒険者か?」
先頭を歩いていた、右腕を吊った騎士が足を止めた。
その声は、戦場を生き抜いた者の勇猛さなど欠片もなく、ただ深い絶望に震えている。
「悪いことは言わん……引き返せ。この先の『深淵の岬』、あの塔には近づくな」
冒険者は足を止めず、静かに騎士を見つめ返した。
「……何があるんですか」
「怪物だ。……奇跡も魔法も何一つ意味をなさない怪物がいる」
騎士は、忌まわしい記憶を振り払うように頭を振った。
「美しい歌で……人を惑わすんだ。まるで天上の調べのような、あまりにも清らかな声でな。……だが、それを聴いたが最後、兵士たちは笑いながら互いの喉を掻き切り、自ら崖から身を投げていく。あの歌を聴いて、正気で帰れた者は一人もいない……」
騎士の手が、震えながら冒険者の肩を掴んだ。
「ありゃあ、至高神様が作り損ねた『絶望の化身』だ。……命が惜しければ、今すぐ北に逃げろ。あそこには、救いなんてどこにも無いんだぞ」
周囲にいた他の騎士たちも、歌の残響に怯えるように顔を伏せ、祈りの言葉を呟いている。
冒険者は、肩に置かれた騎士の手を静かに、けれど拒絶するように解いた。
そして、潮騒の向こう側から微かに聞こえてくる、風とも悲鳴ともつかない「旋律」に耳を澄ませる。
「……ありがとうございます、騎士様」
彼は、一歩、また一歩と、騎士たちが逃げ出してきた死地の方角へと歩み出す。
「それでも……行かなきゃならないんだ。あそこには、僕が置いてきた『心』があるから」
「狂ったか! 貴様、死にに行くというのか!」
騎士の叫びを背に、冒険者の背中は深い霧の中へと消えていった。
カチャリ、と。
彼の懐で、主を失ったはずの「婚約指輪」が、冷たい音を立てた。
―――魔神王が討たれて二年の月日が流れた。世界が偽りの安寧に酔いしれる中、深淵なる拒絶の教団の最深部では、最悪の「真実」が暴かれようとしていた。
「――成る程。そういうことか」
薄暗い祭壇の前で、司祭は届けられた極秘の調査報告書を指でなぞった。その口元には、毒々しい愉悦が浮かんでいる。
「二年前、魔神王を討ったあの六英雄の一人……至高神の女司教。奴の目の光を奪い、その魂に消えない恐怖を刻んだ相手が……まさか、あの矮小なるゴブリン共であったとはね」
「ククク、傑作ですな」
傍らに控える教団幹部が、肩を揺らして嘲笑した。
「これは決定的な弱点ですぞ、閣下。王国最高戦力の一角、至高神の愛し子が、草むらに潜む害獣一匹に震え上がる。戦場に数匹のゴブリンを解き放つだけで、彼女の『光』は容易く無力化できるというわけだ」
「いえ、戦うまでもありません」
別の幹部が、卑屈な笑みを浮かべて進言する。
「彼女の過去を、事実を、民衆の間に流布すればよいのです。穢された英雄など、潔癖な王都の連中が真っ先に失脚させるでしょう。わざわざ手を汚す必要も――」
「――やめたまえ」
司祭の冷徹な一喝が、大聖堂の空気を凍らせた。
「そんな安っぽい方法で奴の欺瞞を暴いて、何になる。噂話や政治工作……そんなものは、愚かな只人のやる遊びだ。忘れたかね? 我々は研究者だ。真理を求める魔導科学の徒なのだよ」
司祭は立ち上がり、実験室の奥にある、まだ空のままの円柱槽を見つめた。
「試製零号、『闇の盾』の実験は、高潔な魂の反転という成果を得た。……ならば、次の実験は決まりだ。私はね、あの女と同じ傷を持ちながら、彼女が逃げ出した深淵を『力』へと変えた、我ら混沌の側の英雄を造り上げたいのだよ」
司祭の瞳に、狂信的な審美眼が宿る。
「恐怖を光で覆い隠した『偽物の聖女』ではない。恐怖を衝撃へと昇華させ、世界そのものを拒絶する『本物の絶望』……。あの大司教を、その存在の根底から否定するための、鏡合わせの死神をね」
「……左様で。……しかし閣下、ゴブリンに壊された娘など、この辺境には掃いて捨てるほどおりますぞ。そこらの村娘や、女冒険者であれば、素材の供給に困ることはありませんがあの大司教を凌ぐ『怪物』に仕上がるとは思えません。」
「クク……。勿論だ。ただの女では駄目なのだよ」
司祭は、祭壇に置かれた白紙のカルテを愛おしそうになぞった。
「武術や魔術、あるいは芸術……。その道で稀代の才能を持ち、何より誰からも愛される『高潔な魂』を持った者でなければならない。光に近ければ近いほど、それを闇へ叩き落とした時に生まれる『拒絶』の衝撃は巨大になる。……あの大司教という偶像を粉砕するには、それと同等、あるいはそれ以上の輝きを放つ素材が必要なのだ」
「…………なるほど。高く積み上げられた塔ほど、崩れた時の響きは大きい、と」
教団幹部は司祭の意図を察し、その瞳に冷酷な計算の色を宿しす。
「ならば、近隣の港町を探ってみましょう。あそこは王国有数の海運の要所にして、美しき芸術の都。各地から腕利きの女冒険者や、将来を嘱望された芸能の卵たちが集まります」
幹部は、懐から港街の簡易地図を取り出し、机の上に広げた。
「光り輝く宝石のような魂ならば、あそこには事欠きません。……王都での華やかな舞台を夢見ているような、無垢で高潔な獲物を我ら収集部門が選別いたしましょう。閣下の『反転術式』を施すに相応しい、至高の一輪を」
「ああ、期待しているよ」
司祭は、暗闇の中で醜く口端を吊り上げた。
「神に愛された聖女が、絶望の末に産み落とされた自分の鏡と対面する時……。彼女がどのような顔をして、その『光』を失うか……。クク、想像するだけで胸が躍るじゃないか」
司祭の冷たい笑い声が、地下聖堂の闇に溶けていった。
教団の魔手は、平和を謳歌する南西の港街へと、静かに、確実に伸ばされようとしていた。
運命のダイスは、まだ振られていない。
だが、その盤面の上には、一人の少女の「悲鳴」を予約する死神の指先が置かれていた。