南西の港街。かつてのどかな潮風に包まれていた街は今、逃げ惑う人々の怒号と、絶え間なく鳴り響く非常事態の鐘の音に支配されていた。
「――海軍の哨戒部隊は何をやっていたのだッ!! 奴らの給料がどこから出ていると思っている!!あれほどの艦隊が近づくまで、なぜ一報も届かなかった!?」
豪商の館、その広々とした執務室で、豪商は窓の外に広がる水平線の「影」を指差し、発狂せんばかりに叫んでいた。五十隻に及ぶ紅鮫海賊団の艦隊。それはもはや海賊という規模を超え、一つの都市を滅ぼすための「軍勢」として、港の喉元に迫っていた。
「……紅鮫たちが先手を打ったのです。奴等は海軍の哨戒ルートを完璧に把握し、魔導師を使って霧を発生させ、海流の隙間を縫って潜り込んできました。哨戒艦隊は、接敵することさえできぬまま背後を取られ、奇襲を受けて壊滅したと……!」
「ええい、役立たず共め!!」
「旦那様、直ちに避難を! 街の駐屯軍と冒険者たちが全速で海岸線に集結し、迎撃態勢を整えていますが……相手は数多の死線を潜り抜けた五千の海の悪魔。あのような急造の防衛線が、いつまで持つか……! 数刻もあれば、この街は火の海ですぞ!!」
「…………」
豪商は、水平線を埋め尽くす「死」の数に圧倒され、椅子に崩れ落ちた。どんなに金を積んでも、どんなに権力を振りかざしても、抗いようのない暴力が今まさに自分の首を刈りに来ている。
その時、ふと彼の脳裏に、数ヶ月前に家を飛び出したあの一途な息子の顔が浮かぶ。
「……フン。皮肉なものだな」
豪商は、自嘲気味に口元を歪めた。
「……あの馬鹿息子が、あの傷物の女を探しに街を離れていたのは……不幸中の幸いだったかもしれんな。ここにいれば、家格も誇りもなく、ただの肉切れとして海賊共に食い散らかされていただけだ……」
その言葉には、冷酷な家長としての損得勘定と、心の奥底に僅かに残っていた、歪んだ親心が混じり合っていた。
月光が海面を銀色に染め、水平線の彼方には「紅鮫海賊団」の五十隻もの帆影が、死の宣告のように刻一刻と近づいていた。
街の冒険者たちが死を覚悟して剣を抜き、子供たちが泣き叫ぶ。
港街の人々が絶望に打ち震え、死を覚悟していたその時。
街から数キロ離れた「深淵の岬」の頂上では、一人の少女が海風に吹かれながら、その唇をそっと開いていた。
(……助けなきゃ。……あそこに、彼がいる。……あそこに、私の大好きな場所がある……!)
吹き荒れる夜風に髪をなびかせ、セイレーンは断崖の縁に立っていた。彼女の細い肩は小刻みに震えていたが、その瞳には、絶望の淵で見出した唯一の「役割」を遂行せんとする、悲壮な決意が宿っている。
「……クク、実に健気な娘ですな」
背後の暗がりで、教団幹部が冷淡な笑みを漏らす。
「自分をゴミのように捨て、汚物だと罵ったあの街。そして、自分を見捨てた婚約者の家……。そんな薄情な連中を救うために、たった一人で五千の海賊に立ち向かおうというのですから。皮肉な愛もあったものです」
「……その『高潔さ』こそが、彼女を真の死神たらしめるのだよ」
司祭は、陶酔した眼差しで少女の喉元に刻まれた「核」の脈動を見つめていた。
「絶望の淵に突き落とされながらも、光を、愛を信じようとする。……その高すぎる熱量が術式を加速させ、既存の魔導の理を超越した『奇跡の拒絶』を生む。……皮肉だと思わないかね? 彼女が人を愛せば愛するほど、その声はより確実に人を死へと誘うのだから」
セイレーンがゆっくりと、空を掴むように手を伸ばす。
彼女にとって、これから行うのは「殺戮」ではなく、愛する人々を守るための「祈り」であった。
「さあ、独唱の始まりだ。……歌いたまえ、私のセイレーン。……君のその汚れなき愛が、世界を絶望の海へ沈めるための、最初の呪いとなるのだから」
――南海の闇を切り裂き、五十隻の黒い帆が港街へと迫る。その中心に鎮座する巨大な旗艦の甲板では、略奪を目前に控えた「海の悪魔」たちが、血に飢えた獣のような笑みを浮かべていた。
「ヒャッハハハッ! 見ろ。港町の連中、完全に後手に回っていやがる。今さら警鐘を鳴らしたところで、俺たちの衝角が届く方が早ぇぞ」
船長が、望遠鏡を片手に鼻で笑う。レンズの向こうでは、逃げ惑う民衆の松明の光が、まるで小さな虫が這い回るように無様に揺れていた。
「当然ですぜ、船長。海軍の主力は、俺たちが仕掛けた別動隊の陽動にまんまと引っかかり、今頃は沖合数里まで引き離されてます」
隣で海図を広げる参謀長が、完璧な計略の成功を確信して薄笑いを浮かべる。彼らにとって、これからの時間は「戦い」ではない。ただ一方的に富を奪い、女を浚い、街を火の海に変えるだけの「収穫」の時間だ。
「今、あの街を守るまともな盾は一枚もありゃしねえ。あとに残ってるのは、震えて眠る金持ちどもと、錆びた剣を握った冒険者だけです。……今夜は最高の収穫祭になりますぜ」
「――よく聞け、野郎どもッ!!」
甲板の最上段、重厚な椅子に腰掛けた総督が、愛剣である大振りの曲刀をゆっくりと引き抜いた。その鋭い刃が、月光を浴びて冷たく光る。
「獲物は目の前だ! あの街の金も、酒も、女も……すべては俺達『紅鮫』の所有物となる!奪い尽くし、焼き尽くし、逆らう者は一人残らず魚の餌にしろ。神の慈悲を乞う暇さえ与えるな!」
総督は、暗い海の向こうにある獲物――自分たちの蹂躙を待つばかりの港街を指し示し、咆哮した。
「 全速前進! 南海の王が誰であるか、その身に刻んでやれッ!!」
「「「オォォォォォォォォッ!!!」」」
五千の海賊たちが一斉に武器を叩き合わせ、夜の海を震わせる勝ち鬨を上げる。
この航海は「勝利」が約束された、ただの残酷な遊戯に過ぎなかった。
しかし。
彼らが「深淵の岬」の真下を通り抜けた、その瞬間。
ざわり、と。
海風に混じって、この世のものとは思えないほどに透き通った、一筋の「調べ」が、彼らの耳を、脳を、そして魂を優しく撫でた。
「……なんだ、この歌は?」
総督が眉をひそめ、曲刀を握る手に力を込める。その歌声はあまりに美しく、あまりに哀しい調べ。一瞬、自分が戦場にいることさえ忘れそうになったその時、隣にいた参謀長が、引き攣った顔で叫び声を上げた。
「総督! 右から海軍が! 王国の第3艦隊です! 奴ら、陽動に気づいて回り込んでいやがったんだ!!」
彼の目には、右舷を併走していたはずの味方の第二戦隊が、王国海軍の海軍旗を翻す戦列艦の姿に映っていた。
「おのれ、出し抜きおったか! 略奪を邪魔させるか! 舵を切れ! 衝角でそのまま沈めてしまえッ!!」
「「「オォォォォォォォォッ!!!」」」
総督の命令一下、巨大な鮫の牙を模した衝角を持つ海賊船が加速し、隣を走っていた味方の船の横腹へと真っ向から激突した。
――ドゴォォォォォォォォォォンッ!!!
木材が砕け散る凄まじい音。だが聞こえてくるのは敵の絶望ではなく、見知った部下たちの悲鳴だった。
しかし、歌声に支配された総督には、それが王国海軍の断末魔にしか聞こえない。
「ヒャッハハハ! ざまあ見ろ! ……おい、次だ! 左の艦も海軍だ、焼き払えッ!!」
狂乱は連鎖した。
五十隻の艦隊は、互いを「王国海軍」あるいはと誤認し、至近距離から艦載砲を撃ち合い、衝角を突き立て、凄まじい勢いで共倒れを始めた。
「船長! 船に、魔物が乗り込んでますぜ! 鱗に覆われた、見たこともねえ化け物共だ!!」
操舵輪を握る航海長が、自らの足元を見て絶叫した。
彼の目には自艦の船員達や救助を求めて隣の船から飛び移ってきた仲間が全身を鱗に覆われた悍ましい海魔の姿に映っていたのだ。
「助けてくれ! 喰われる! 喰われるぞぉ!!」
「やめろ! 俺は魔物じゃねえ!」
「うるさい、この化け物めッ! 死ね、死ねぇッ!!」
海賊たちは、戦友を魔物として認識し、狂ったように剣を振るった。
ある者は味方を斬り伏せ、ある者は幻影の恐怖に耐えかねて自ら海へ身を投じる。
その中心、旗艦の甲板では、総督が、血走った眼で虚空を睨みながら高笑いを上げていた。彼の目には、もはや現実の海など映っていない。
「……ハハ……ハハハハッ!! 見ろ、黄金の財宝が降り注いでいるぞ! すべて俺のものだ! 誰にも……誰にも渡さんぞッ!!」
総督は、味方の返り血で真っ赤に染まった松明を手に取ると、千鳥足で船倉へと向かった。そこに眠るのは、港町を焼き払うために積み込まれた大量の黒色火薬。
「皆殺しだ! 誰も、俺の宝には触れさせんぞォォォ!!」
狂乱の叫びと共に、総督は点火された松明を無数の火薬樽の中へと投げ落とした。
――――――――ドォォォォォォォォォォォォォォォォッッッ!!!
夜の闇を一瞬で昼間に変えるほどの巨大な火柱が、漆黒の海から立ち昇った。
海賊団の誇りであった旗艦は、数千の発破用火薬と共に木っ端微塵に弾け飛び、巨大な火柱となって南海の空を焦がした。爆風に煽られ、周囲の船も次々と誘爆し、海面は燃え盛る油と死体で埋め尽くされていった。
「ひっ、ひぃぃ……! 逃げろ! この海は呪われているッ!!」
旗艦の爆発を間近で目撃し、辛うじて正気を繋ぎ止めていた数隻の快速艦が、死に物狂いで面舵を切った。
彼らの背後からは、なおも絶え間なく、魂を毟り取るような「美しき歌声」が追いかけてくる。
「あっちだ! あっちに、美しい青い海が広がっている! 陸だ、俺たちの故郷が見えるぞッ!!」
逃走を図る海賊たちの目には、前方に広がる「深淵の岬」の鋭い岩礁地帯が、月光に照らされた穏やかで広大な「黄金の海原」に見えていた。
「全速前進ッ!楽園へ帰るんだ!!」
帆を限界まで張り、波を蹴立てて進む快速艦。
だが、彼らが飛び込んだのは安息の地ではなく、無慈悲な自然の牙だった。
――――ガガガガギィィィィィィィィィィィンッッ!!!
木材が絶叫を上げ、船底が真っ二つに裂ける。
穏やかな海原に見えていた場所は、干潮時に牙を剥く、鋭利な岩の森であった。
快速艦は、自慢の速度をそのまま破壊エネルギーに変え、岩礁に叩きつけられて粉々に砕け散った。
悲鳴を上げる暇もなく、海に投げ出された海賊たちは、暗い潮流の中へと吸い込まれていった。
――深淵の岬。邪教団監視塔、バルコニー。
「(……終わった……。皆、眠りについたのね……)」
セイレーンは、血の混じった唾液を吐き捨て、力なく手すりに縋り付いた。
彼女の視界。
炎上する艦隊は「祝祭の篝火」に見え、沈みゆく海賊たちの悲鳴は「安らかな寝息」として処理されていた。
(……これで……街は守られた。……良かった……本当に、良かった……)
彼女の頬を伝うのは、勝利の喜びではなく、魂を削り取られた者の虚脱の涙。
「……凄まじいですな。南海の覇者、五千の兵力を擁した紅鮫海賊団。その全てが……たった一刻で海の藻屑となりました」
教団幹部の声には、恐怖を通り越した「信じがたい現実」への困惑が混じっていた。
「クク……。これこそが『真実』だよ」
司祭は、崩れ落ちたセイレーンの、血の気の引いた頬を優しく撫でた。
「五千の『悪意』が集まっても、たった一人の純粋な『絶望の共鳴』には、一分の勝機もなかった。……あの大司教が守ろうとしている平和など、この歌声一つで塵に帰る砂の城に過ぎないのだよ」
司祭の瞳には、燃える海さえも「最高の前座」としてしか映っていなかった。
「……お疲れ様、私のセイレーン。……君の愛が、一国の脅威を掃除してくれた。……さあ、次の舞台へ行こう。……君が、神の光を完全に消し去るその日まで」
海に響いていた不協和音が、ふっと止まった。
後に残されたのは、ただ波の音と、主を失った無数の海賊旗が波間に漂う、静寂という名の墓場だけだった。