紅鮫海賊団の五十隻に及ぶ大艦隊が水平線に姿を消してから、数時間。
港街を包んでいた絶望的な半鐘の音は止み、代わりに訪れたのは、耳が痛くなるほどの不気味な静寂であった。
翌朝。偵察に出た高速艇が持ち帰った報告に、街の有力者たちは港の作戦本部に集まり、驚愕の声を上げていた。
「……信じられん。まさに、至高神が授けてくださった奇跡だ」
市長は、震える手で報告書を握りしめ、天を仰いだ。上陸を覚悟し、死を待つばかりだった街にとって、それはあまりにも唐突な救いであった。
「一体何が起きたというのだ……。偵察の報告によれば、敵艦隊は岬の境界線を越えた直後、突如として統制を失い、同士討ちを始めたというではないか。挙句には全速力で岩礁に突っ込んで自壊……」
駐屯軍団長は、自慢の髭を震わせ、困惑を隠しきれなかった。
「……残念ながら、生存者が皆無なので皆目見当がつきません」
ギルド職員が、重苦しい表情で付け加える。
「海面に浮いているのは死体と船の残骸ばかり。調査に向かった冒険者たちも、何が起きたのか説明できずに困惑しています。……ただ、彼らが口を揃えて言うには、風に乗って『何か』が聞こえたような気がしたと……」
「ふん。理由など、どうでもよいではないか」
その喧騒を遮るように、豪商が傲慢な笑みを浮かべて机を叩いた。
「理由が天変地異だろうが、海賊どもの内紛だろうが、我らが助かったという事実に変わりはない! これでこの街の海運は安泰、我が家の商売も再び上向きだ。これこそが、日頃の私の寄進に対する神の報いというものよ!」
「…………」
軍団長と市長は、この無神経な老商人に冷ややかな視線を向けたが、何も言わなかった。街が救われた。その結果だけが、今の彼らにとっての全てだったからだ。
――燃え盛る紅鮫海賊団の残骸が、潮の流れに乗って深淵の岬から遠ざかっていく。海面には油と血が混じり合い、月光を不気味に反射していた。
「――少し、派手にやりすぎましたな。閣下」
塔の最上階、観測窓から眼下の惨状を見下ろしていた教団幹部が、苦笑混じりに呟いた。
「五千の兵、五十の艦隊が一夜にして消失したのだ。いかに隠蔽に長けた我らといえど、セイレーンの存在がこれほど早く世に露呈するのは時期尚早。ギルド本部や王都の騎士団が本腰を入れて調査に乗り出せば、面倒なことになりますぞ」
「クク……。案ずるな。何が起きたのかなど、あの無知な連中には分かりはしないさ」
司祭は、遠くで鳴り響く港街の「勝利の鐘」を、皮肉な表情で聴いていた。
「人間という生き物はね、自分たちの理解を超えた恐怖に直面した時、必ず自分たちに都合の良い『物語』を捏造して、その穴を埋めるものなのだよ。……ある者はこれを『神の奇跡』と呼び、ある者は『突発的な海流の乱れ』と記録するだろう」
司祭の瞳には、救いようのない人類への嘲笑が宿っていた。
「……彼らが自らの『無関心の代償』に気づくのは、もっと先のことだよ」
司祭は視線を海へ戻した。そこには、もはや波の音以外、生命の鼓動は一切感じられなかった。
「……さて。次の戦闘実験は如何いたしますか? 閣下」
幹部が、次の実験計画書を広げた。
「紅鮫海賊団……南海の覇者と恐れられた五千の兵力。これを超える規模の標的など、最早この南海には存在しませんぞ。次は王都へ直接、彼女の歌を届けさせますか?」
「いや。それではまだ芸がない」
司祭の指先が、海図のさらに南西……不気味な渦潮の絵が描かれた、真っ黒に塗り潰された海域を指し示した。
「……次の『舞台』は魔の海域だ。あそこに棲まう深淵の王に、彼女の歌を届けてあげようじゃないか」
「な……ッ!? 閣下、あそこは危険すぎます!」
教団幹部が顔色を変えて身を乗り出した。
「あそこは過去幾百年、周辺諸国の海軍や、伝説を求めた冒険者たちが挑み、誰一人生還していない『世界の果て』。伝説の怪物、クラーケンが支配する、神に見捨てられた死の海ですぞ!」
「ククク……。不可能、かね?」
司祭は、窓の外で不気味に輝く月を仰ぎ見た。
「二年前のあの『死の迷宮』も、我々はそう思っていたではないか。白金等級でもない冒険者の一党が最深部まで辿り着き、魔神王を討つことなど『不可能』だと考えていた。神々の振るうダイスも、全滅の出目しか指していなかったはずだ」
「それは…………」
「だが、あの六英雄は不可能を可能にした。至高神という名の目隠しをしたあの女――『剣の乙女』も、その一人として奇跡を演じてみせた」
司祭の瞳に、二年前のあの「光」への憎悪が宿る。
「あの不良品にできたことを、私の死神ができないはずがない。英雄が光を以て迷宮を平らげたというのなら、死神は絶望を以て魔の海を静寂に沈めてみせる。……それこそが、至高神の駒を完全に否定するための、唯一の証明になるのだよ」
「…………」
幹部は、司祭の狂気がもはや「戦略」の域を完全に超え、神々への個人的な復讐劇へと突入していることを悟った。
「さあ、抜錨の準備をせよ。……伝説の怪物に、彼女の声を聴かせてやるのだ。……神話が悲鳴を上げて崩れ去る、最高の独唱会を始めようじゃないか」
教団は、かつてない規模の移動実験を開始した。
一人の少女の喉に刻まれた呪いが、ついに只人の領域を超え、神々が遺した「世界の境界線」へと牙を剥こうとしていた。