暗く、底の見えない波が邪教団の実験船の船腹を叩く。周囲は「魔の海域」特有の濃密な霧に包まれ、精霊たちの声さえも届かない死の静寂が支配していた。
その甲板に立つセイレーンは、霧の向こうから漂ってくる圧倒的な捕食者の気配に、呼吸を乱していた。手にした通信用の魔水晶が、禍々しい紫色の光を放ち、司祭の滑らかな声が響く。
『――聞こえるかね、私の歌姫。……いよいよだ。次は、君がかつて夢見ていた王都の舞台……あんな矮小な喝采など、比ではないほどの栄光を掴む時だ』
司祭は、霧の向こうに潜む「巨大な気配」を指し示した。
『恐れることはない。……君の喉には、世界の不条理を捩じ伏せる『真実』が宿っている。魔の海域の深淵に君臨する王……あの『クラーケン』を、その歌声で跪かせるのだ』
(……あの、伝説の怪物……。海軍も、冒険者も、誰も勝てなかったという……)
セイレーンの指先が、恐怖で震える。かつて港街の船乗りから聞いた、船を丸ごと握りつぶす深海の怪物。そんなものに、たった一人の少女が立ち向かうなど、狂気の沙汰としか思えなかった。
『……これを成し遂げれば、君はあの六英雄にすら匹敵する存在となる。……考えてもみたまえ。伝説の怪物を屠った英雄を、誰が蔑むことができる? 君をゴブリンに穢された『傷物』などと呼ぶ者は、この世界から一人もいなくなるのだよ』
「…………ッ!!」
司祭の言葉が、彼女の魂の最も脆い場所を貫いた。
『傷物』。
最愛の人の父親に投げつけられ、自分自身を呪う鎖となったその言葉。もし、自分が伝説の怪物を倒すほどの「神」に近い存在になれば。その圧倒的な輝きで、あの泥にまみれた記憶を焼き尽くすことができれば。
(……不浄じゃない……。……傷物なんかじゃ、なくなる……?)
『そうだ。君はもう、守られるだけの被害者ではない。……運命を蹂躙する側に立つ。さあ、喉を開きなさい。君の悲鳴を、神をも跪かせる『旋律』へと変えるのだ』
司祭の歪んだ肯定が、彼女の中に眠る「承認への渇望」を、どす黒い力へと変換していく。
セイレーンは、ゆっくりと海を見下ろした。
彼女は、自分を捨てた港街のためでも、利用する教団のためでもなく。
ただ「傷物」と呼ばれない自分を手に入れるためだけに、その不協和音を深淵の海へと解き放とうとしていた。
――邪教団本拠地、観測室。
「――報告。実験船がいよいよ『魔の海域』に侵入します」
教団研究員が、震える指で魔力計の針を追った。水晶に映る波の高さは尋常ではなく、まるで海そのものが侵入者を拒絶して吠えているかのようだった。
「……閣下。やはりこの実験は無謀ではありませんか?」
傍らに立つ教団幹部が、眉をひそめて窓の外を――その先に広がる死の海を睨みつけた。
「あの海域に生息する海獣の強さは、他の海の比ではありません。その頂点に君臨する伝説の怪物『クラーケン』……。あれはもはや生物というよりは、海そのものの怒りです。巨大な触手で軍艦をも一撃で沈める怪力に加え、海流を自在に操って巨大な『大渦潮(メイルストローム)』を引き起こす……。獲物を逃さず、底なしの深海へと引きずり込む死の化身ですぞ」
幹部の懸念は、軍事的な合理性に基づいたものであった。
「如何にセイレーンの『幻声』が無敵の精神汚染を誇ろうとも、海上では逃げ場がありません。キャンバスが描いたあの船は、あくまで魔力の残像……。もしクラーケンの触手によって船を沈められたら、彼女は歌う前に海の藻屑です。素材を無駄にするだけではないでしょうか」
「クク……。だからこそ、試す価値があるのだよ」
影の中から、司祭がゆっくりと歩み寄った。その瞳には、一人の少女の命への慈しみなど微塵もなく、ただ「理の崩壊」を待ち望む狂気だけが宿っていた。
「物理的な破壊、自然の暴威、そして回避不能な死の抱擁。……それら全ての『絶望』を前にした時、彼女の喉に刻んだ核が、どのような『不協和音』を産み落とすのか。……私はそれが見たいのだ」
司祭は水晶球を愛おしそうに撫でた。
「キャンバスの船が沈むのが先か。……それとも、彼女の悲鳴が海そのものを支配するのが先か。……さあ、神々の遊戯を始めようじゃないか。神話の怪物が、一人の少女の『拒絶』にひれ伏す瞬間をね」
「――っ、出ました! 進行方向に巨大な熱源反応!」
教団の観測拠点に、研究員の叫びが響いた。水晶球に映し出されたのは、海面を割って現れた、あまりにも巨大な「シーサーペント」。その鱗は鋼鉄のように鈍く光り、一薙ぎで小島を砕くほどの巨躯をくねらせる。
「な、何という大きさだ……! 港町付近に生息する個体の五倍……いや、それ以上か! あれ一頭で、王国の一個艦隊が壊滅するレベルの変異種ですぞ!」
甲板の上で、セイレーンは海面から突き出した巨躯を見上げ、恐怖に喉を震わせた。彼女は司祭に命じられた通り、その異形の喉を開き、自壊の旋律を紡ごうとする。
だが。
「……? 待て、様子がおかしいぞ」
研究員の呟きと同時に、シーサーペントの背後の海面から、太い柱のような「何か」が爆発的な勢いで飛び出した。
バキバキバキッ!!!
それは、シーサーペントを遥かに上回る太さの、吸盤を備えた巨大な触手だった。
数本の触手が、逃げ惑うシーサーペントの胴体を容赦なく締め上げ、その強固な鱗ごと骨を粉砕していく。
悲鳴を上げる間もなく、触手はシーサーペントを深海へと一気に引きずり込んだ。巨大な飛沫が上がり、海域に漂うのは、ただ絶望的な「捕食」の余韻だけだった。
「……大海蛇を、一瞬で? まさか……」
教団幹部が、冷や汗を流しながら呟く。
直後、海面が山のように盛り上がり、実験船の十倍はあろうかという巨大な「瞳」が、海中から彼女を見据えた。
――――――――ドパァァァァァァァァァァァンッッ!!!
山が海から生えてきたかのような、絶望的なまでの質量。
現れたのは、無数の触手の中心に、全てを飲み込む奈落のような巨大な単眼を据えた、深海の主。
波が静まり、代わりに巨大な渦潮が船を中心に回り始める。
数世紀にわたりこの海域を支配してきた絶対捕食者――クラーケン。
(……あ、あ……)
セイレーンは、目の前にそびえ立つ「肉の山」を前に、呼吸を忘れた。
それは、彼女がこれまでに掃除してきた魔獣や海賊とは次元が異なる、「死」そのものだった。
「……クク、ハハハハハッ!! 出たな、深淵の暴君よ!」
教団本拠地でそれを見ていた司祭が、狂喜の声を上げた。
「キャンバスの船は既に粉砕圏内。……さあ、どうする、私のセイレーン。神話の腕に抱かれて消えるか。それとも、その汚れた神話を……君の歌声で『掃除』してみせるか!!」
渦潮に呑まれ、船が悲鳴を上げて軋む。
逃げ場のない海の上。一人の少女の歌声が、深海の主が持つ「生存の理」に真っ向から挑もうとしていた。