黒い魔力の波が荒れ狂い、キャンバスの描いた実験船は、今にも漆黒の海へと飲み込まれようとしていた。目の前にそびえ立つのは、生物という概念を置き去りにした巨大な「質量」。
「――ば、馬鹿な……。島が動いているのか!?」
教団研究員が、観測窓にへばりついて叫びあげる。クラーケンの巨躯が浮上するたびに、海面は数百メートル単位で盛り上がり、周囲の空間が歪んで見える。
「閣下、大渦潮(メイルストローム)が来ます! 逃げ場はありません、船体が耐えきれず崩壊しますぞ!!」
教団幹部の警告通り、海面には巨大な漏斗状の渦が発生し、実験船をその中心部――クラーケンの巨大な顎へと引き摺り込み始めた。
「――――――――ッ!!」
その絶望的な状況下で、セイレーンは自らの喉をかきむしるようにして、調べを紡ぐ。
これまでいかなる軍勢も、いかなる魔獣も一瞬で自壊させてきた死の旋律が、荒れ狂う海へと放たれた。しかし――。
「だ、駄目です! 止まりません!」
解析機を見つめる研究員が絶望の声を上げた。
「 精神耐性……いや、魂の格そのものが、今までの標的とは比較になりません! セイレーンの『声』が、あの巨体の深層意識にまで届いていない!!」
巨大な触手が空から振り下ろされ、船の防護結界が火花を散らして軋む。あと一撃。あと一度の打撃で、この「虚構の船」は塵となって消え、セイレーンもまた深海へ消えさるだろう。
(……あ、あぁ……。また……またなの……?)
渦に巻かれ、巨躯に押し潰されようとする瞬間。セイレーンの脳裏に、あの谷底で逃げ場を失った時の「無力さ」が蘇った。
どれだけ叫んでも、誰にも届かない。
どれだけ足掻いても、不浄に飲み込まれていく。
死が、すぐ目の前で大きな口を開けて笑っている
しかし。
「ククク……。何を慌てているのかね」
司祭だけがその光景を愉しげに眺めていた。彼は怯える部下たちを余所に、水晶の中の少女へ向けて、祝福するように腕を広げた。
「彼女の歌の『サビ』は、これからだよ。……恐怖が、彼女の喉を焼き切り……『死にたくない』という生存本能が、世界への『拒絶』に変わる瞬間……。そこからが、真の神話殺しの始まりなのだから」
その言葉と同時。
触手が振り下ろされ、船体が粉砕されるその寸前。
セイレーンの喉に刻まれた紋章が、世界を塗り潰すほどの漆黒の光を放った。
(……ああ……。沈め……。……全部……私と一緒に……暗闇へ……!)
彼女の喉から漏れ出たのは、もはや歌ですらなかった。
それは、「世界そのものを物理的に腐食させる、純粋な悲鳴」。
「――歌が……!」
観測室で教団幹部が息を呑んだ。魔水晶に映る波形は、もはや計測不能なノイズへと変わっていた。
「クラーケンの動きが、止まりました……ッ!!」
教団研究員が戦慄と共に叫ぶ。
つい先ほどまで暴れ狂っていた無数の触手が、あたかも時間が凍りついたかのように、海中で硬直した。伝説の怪物の巨大な瞳が、恐怖と困惑に染まり、自らの支配下にあったはずの海流が、逆に自らの肉体を締め付け始めたのだ。
「クク……。さあ、最終楽章だ」
司祭が恍惚と呟いた。
「脳が足りぬなら、細胞の一つ一つに教え込んでやれ。……お前は『不浄』であり、この世に在ってはならないゴミなのだと」
「――――――――――――ッ!!!」
セイレーンが、自らの命を燃やし尽くすかのような『絶唱』を放つ。
――――――――キィィィィィィィィィィィィィィッ!!!
高周波の振動が海水を媒介にして、クラーケンの巨躯へと突き刺さる。
それは、クラーケンの細胞一つ一つを強制的に「自死」させる絶望の調べ。
「……ギ、ガ……ア、アガガガガッ!!!」
クラーケンの断末魔が、海中から泡となって吹き上がった。
狂乱した深淵の王は、自らの意思を失い、自分の触手で自分自身の頭部を、何千もの吸盤で自らの皮膚を引き千切り始めた。
凄まじい怪力が自らに向けられ、山のような肉塊が、自らの手でミンチ状へと解体されていく地獄絵図。
自壊したクラーケンの巨躯が、自らが作り出した大渦潮の底へと、自らの重みで吸い込まれていく。
ズズズ……と海が鳴り、深海の王は、一人の少女の悲鳴に完敗したまま、永遠の深淵へと帰っていった。
――実験船、甲板。
「……はぁ、……っ、げほっ……!」
渦が消え、静寂を取り戻した海の上で、セイレーンは血の海に倒れ伏していた。
喉は焼け、意識は朦朧とする。
(……倒したの……? 私……あの怪物を……)
彼女の瞳に映るのは、自分が救ったはずの海ではなく、自分の歌声で自らを噛み砕いて消えた、神話の無残な残骸。
「……見事だ。実に見事だよ、セイレーン」
水晶球から、司祭の冷徹な、けれど満足げな声が響いた。
「合格だよ……君は今日、竜に匹敵する神話を殺した。……これで君を『傷物』と呼ぶ者はいない。……君は、神の玩具から、神を殺す刃へと昇華されたのだからね」
(……神……?)
(……違う。……こんなの、私が……求めていたものじゃない……!)
彼女の心の中で、かつて愛した人が贈ってくれた青い花の残像が、急速に色褪せていく。
強大になればなるほど、彼女の魂は「人間」から切り離され、ただ世界を拒絶するための冷たい氷へと変わっていく。
彼女の瞳から流れるのは、勝利の喜びではなく、二度と戻れない「歌姫」としての自分への葬送の涙であった