南西の「魔の海域」で、一人の少女が神話の王を自滅に追い込み、その魂を漆黒の虚無へと染め上げていた、まさにその同時刻。
水の街、至高神の神殿。
静寂に包まれた大司教の私室で、剣の乙女は、冷たい汗を流しながら跳ね起きるようにして目を覚ました。
「……はぁっ、……はぁ……、はぁ……」
乱れた呼吸を整えようと、彼女は震える手で自らの細い首筋に触れた。目隠しの下にある、かつて光を失った瞳の奥には、今しがたまで見ていた「緑色の悪夢」が焼き付いて離れない。
「……また、あの洞窟。……魔神王を倒して、二年もの月日が流れたというのに……」
彼女は、自分を英雄として崇める世界に対し、耐えがたい虚しさを感じていた。自分は何も克服していない。ただ、傷口を白銀の法衣と大司教という地位で覆い隠しているだけの、臆病な少女のままだ。
その時。
「…………?」
彼女の鋭敏な感覚が、窓の外から流れてくる「空気の震え」を捉えた。
それは物理的な風ではない。
魂の深部を直接揺さぶるような、凄まじい「悲鳴」の残響。
彼女は、おぼつかない足取りで窓辺へ歩み寄り、南西の空――遥か彼方の魔の海域がある方角へと顔を向けた。
(気のせいかしら。……南の方で、何か……恐ろしいものが、産声を上げたような……)
それは、彼女がかつて戦場で浄化した「闇の盾」の気配に似ていた。
けれど、それよりも遥かに鋭く、より純粋で、救いようのない「拒絶」に満ちた波形。
(……誰かが、泣いている。……いえ、これは……世界そのものを拒んでいる声。……私と同じ、地獄の底から響いてくるような……)
剣の乙女の胸が、激しく疼いた。
彼女には、それが司祭による「次なる実験」の結実であることまでは分からなかった。だが、自分と同じ傷を抱え、自分とは違う道を選ばされた「誰か」が、いま決定的な一線を越えたことを、本能が告げていた。
「……至高神様。……もし、あの方角に迷える魂がいるのであれば。……どうか、その方を……。……私のような『嘘』ではない、本当の安らぎへ……」
彼女の祈りは、不吉な予感を孕んだ夜風にかき消された。
――伝説の海魔クラーケンの返り血を浴び、船体の一部がひしゃげた実験船が、夜の闇に紛れて深淵の岬の港へと帰還した。甲板では、体力を使い果たし、抜け殻のようになったセイレーンが、教団員に引きずられるようにして運ばれていった。
その様子を桟橋から見守っていた研究員たちは、手元の記録水晶を震える手で握りしめていた。
「……信じられん。数ヶ月前までは、ゴブリンの巣穴で玩具にされ、声すら失っていた町娘が……。たった一人でクラーケンを屠るなど」
教団研究員が、震える手で記録を書き留めながら呟きました。その声には、畏怖と、作り手としての歪んだ高揚が混じっている。
「計測された魔導波の出力は、既に歴代の白金等級の領域にすら達しています。……閣下、もはや疑う余地はありません」
教団幹部が、狂喜を隠さずに司祭へと詰め寄った。
「『混沌側の剣の乙女』を作り出すという、今回の実験目的は完全に達成されました。 これ以上の調整は不要かと。……直ちに彼女を王都に送り込みましょう!あの王宮の真上でこの哀歌を歌わせれば、一晩で王国の中枢は崩壊し、混沌の時代の幕開けとなりますぞ!」
幹部の言葉に、他の信徒たちからも賛同のざわめきが上がった。しかし、中心に立つ司祭だけは、微動だにせず、ただ運ばれていくセイレーンの細い背中を冷淡に見つめていた。
「……まだだ。まだ、最後の試験が残っている」
「試験、ですか? 伝説の海魔を倒してなお、何を確認すると言うのです?」
司祭はゆっくりと立ち上がり、天秤を模した指先を動かした。
「……あの女(剣の乙女)にはね、兵器として致命的な欠陥があるのだよ」
司祭の声が、地下室の冷気よりも鋭く響く。
「君たちも知っての通り、彼女は魔神を屠る力を持ちながら……未だに小鬼という名の『恐怖』に支配されている。光に縋り、誰かに救われることを夢見ている……。過去という泥濘から一歩も抜け出せていない『敗北者』なのだよ」
司祭の瞳に、獲物の弱点を冷徹に見据える光が宿る。
「セイレーンが奴を超越できるか、それを見極めねばならん。……幻術で世界を騙し、神話を殺せても……自分を壊した『恐怖』を前にして震えるようでは、私の求める死神には届かない」
司祭は部下達に向き直り、死の宣告のように告げた。
「……準備をしたまえ。…最後にして、最も卑小で、最も残酷な標的を用意する。……彼女が、自分を汚したあの『緑の不浄』を、塵として見下し、無感情に掃除できるかどうか。……それこそが、神が盤面から消える瞬間の、絶対的な条件となる」
司祭の口端が、三日月のように吊り上がった。
クラーケンを殺す力よりも、小鬼をゴミとして踏みつぶす「心」があるか。
それが、司祭がこの二年間にわたる実験の果てに求めた、唯一の「正解」であった。
一人の少女が、自らの魂を完全に捨て去り、「怪物」として固定されるための最後の儀式。
深淵の岬に、汚物と血の臭いが運び込まれようとしていた。