地下演習場、最深部。
冷たい石壁に囲まれた舞台の上、セイレーンは血の気の引いた顔で中央に立たされていた。神話の怪物クラーケンを自滅させた絶大な「死の旋律」をその喉に宿しながら、彼女の指先は小刻みに震えている。
「――標的の詳細は?」
教団幹部が、観覧席から眼下の様子を冷淡に確認していた。
「……どこにでもいる十数匹のゴブリンの群れです。ロードやチャンピオンはおろか、シャーマンやホブの一匹すら混ざっておりません。近隣の農村を荒らしていただけの、矮小な雑魚どもですよ」
教団研究員が、手元の記録板を蔑むように一瞥して答える。彼らにとって、これまでの試験相手に比べれば、今回の標的は「試験」と呼ぶことすらおこがましい存在であった。
「万一の時は、我々が小鬼を即座に始末しますが……結果は目に見えておりますな。クラーケンすら沈めたあの『幻声の哀歌』を、小鬼如きの下等な脳が耐えられるわけがない」
教団警備兵が、クロスボウを肩に担ぎ、退屈そうに鼻で笑う。
「……データによれば、あの大司教(剣の乙女)は、小鬼を前にすると身動きすら取れなくなるほどの恐慌状態に陥るらしい。閣下は、セイレーンにその『壁』を越えさせたいのだ」
教団幹部の言葉に、研究員が信じがたいといった表情で首を横に振る。
「……閣下を疑うわけではありませんが、未だに信じられませんな。魔神王を討ち、死の迷宮を潜り抜けた六英雄が、そのような臆病者だとは。小鬼など、英雄の剣はおろか、村人の農具ですら一撃でしょうに」
「クク……。だからこそ、理屈ではないのだよ。恐怖とはね」
背後の闇から、司祭が静かに姿を現した。その視線は、檻の向こうで不浄な臭いを放ち始めた十数匹の小鬼と、それを見て呼吸を乱し始めたセイレーンに注がれている。
「さあ、見せておくれ。私の歌姫。……神話を殺したその喉で、お前を壊したその『ゴミ』を掃除してみせるがいい。……大司教を、その存在の根底から否定するためにね」
鉄格子が、不吉な音を立てて開き始めた。
檻から溢れ出したのは、下卑た笑い声と、泥に塗れた不浄の気配。地下闘技場の湿った空気に、卑屈な笑い声が反響する。
「――GORB!! GORB!!」
鉄格子から解き放たれたゴブリンたちが、獲物を見つけた獣の如く、下卑た鳴き声を上げて一斉に駆け出した。その汚濁に満ちた足音、鼻を突く饐えた悪臭、そして何よりも、あの日の暗闇で自分を追い詰めた「緑色の指」が、セイレーンの視界を埋め尽くしていく。
(……あ、……あぁ……、……嫌……)
彼女の喉に刻まれた反転術式の核は、最大級の危機を察知して激しく脈動し、脳髄を焼くような熱を放っていた。本来なら、この瞬間、空間を震わせる「死の旋律」が放たれ、小鬼など一瞬で自壊するはずだった。
しかし
「――どうしたッ! 何故歌わない!? 術式の数値は正常だ、出力を上げろッ!!何故、あんな雑魚一匹すら自壊させられないんだッ!!」
観覧席で記録を取っていた教団研究員が、観測用の魔水晶を叩きながら金切声を上げた。
「何をやっているのだ、セイレーン!!」
教団幹部もまた、苛立ちを露わに身を乗り出す。
「クラーケンすら葬り去ったお前の歌だぞ! 相手は今までお前が倒してきたどの魔物の足元にも及ばん雑魚どもではないか! 喉を震わせろ! そのゴミどもを今すぐ消し飛ばせ!!」
だが、セイレーンの耳に彼らの怒号は届かない。
いま、彼女の脳内に響いているのは、かつて親友が死に、楽長が殺された、あの日の洞窟の「哄笑」だけであった。数ヶ月前、自分の人生を、夢を、仲間を、全てを奪い去ったあの「恐怖の根源」が、いま再び目の前で笑っている。
(……あ、……あぁ……っ……!!)
喉の刻印が熱く焼ける。けれど、そこから溢れ出すのは死の旋律ではなく、せり上がる吐き気と、魂を凍りつかせる絶望だった。
神話をも屠る死神の異能は、あまりにも矮小で純粋な「恐怖の根源」を前にして、完全に機能不全に陥っていた。
「GARRR!!」
恐怖に硬直したセイレーンを、先頭の小鬼が嘲笑いながら押し倒した。
冷たい石床に叩きつけられる衝撃。続いて、数匹の小鬼が群がり、彼女の華奢な四肢を汚れた手で押さえつける。
ビリッ、と。
混沌の魔力を帯びた衣装を、愉悦混じりに引き裂き始めた。
剥き出しにされる白い肌。
そこに伸びる、爪の間に泥の詰まった緑色の指。
「……馬鹿な。……信じられん」
教団員達は我を忘れてその光景を眺めていた。
世界を滅ぼし得る「歌」を持つ者が、最下等の魔物を前に、抵抗一つできずに震え、陵辱を受けようとしている。
(……嫌。……やめて。……誰か、……誰か……!!)
「――っ、そこまでだ! 射殺せ!!」
観覧席に控えていた警備兵たちが、慌ててクロスボウを構え、引き金を引いた。
――シュッ!! ズドドドッ!!
クロスボウから放たれた数本の太矢が、セイレーンに跨っていた小鬼たちの頭部や胸を正確に貫いた。小鬼たちは短い悲鳴を上げて転がり、舞台の上には汚れた鮮血と、半狂乱のまま震え続ける少女だけが残された。
「…………」
観覧席の中央。
司祭は、一言も発することなく、ただ冷めた瞳でその無惨な光景を見下ろしていた。
「……やはり。……あの女の『再現』がお前の限界だったな」
司祭は、手元の記録板をゴミのように床へ放り捨てた。その声には怒りすらなく、ただ深い失望だけが宿っていた。
「神話を屠る異能を得ても、お前は結局、あの『不良品』と同じ……小鬼一匹に震えて泣き叫ぶだけの、臆病な小娘のままだったというわけだ。……私の求めていた『真実』は、ここには無かった」
司祭は背を向け、暗い通路へと歩み出した。
「――閣下、お待ちください! 確かに……確かに彼女は小鬼に対しては無力です。ですが、それ以外の相手であれば、彼女の『幻声』は依然として無敵の権能を誇ります!」
幹部は、未だに高い魔力残光を示す計器を指し示し、必死に弁護を続ける。
「『秩序』を掲げる王国軍や冒険者ギルドの連中に、小鬼を飼い慣らすなどという真似ができるはずがありません! 仮に万が一、奴らが小鬼を戦場に連れてこようとも、我等には開発中の『例の新兵器』があります!王都を滅ぼし、至高神の権威を失墜させるという我らの大業において、何の支障もありませんぞ!」
その必死の進言に、司祭は足を止め、ゆっくりと首だけで振り返った。
その瞳に宿っているのは、戦略的な「損得」ではなく、底なしの暗い「執着」であった。
「……君は、一つ大きな勘違いをしているよ」
司祭の声は、凪いだ海のように静かで、それゆえに恐ろしかった。
「私が求めているのは、国を奪うための『便利な兵器』ではないのだよ」
「……え?」
「私が求めているのは、あの女を、その存在の根底から否定するための『真実』なのだ。……かつての英雄が、いまだに小鬼の影に震え、嘘の光を纏って生き長らえているという醜態。……それを、完全なる絶望の体現者である私の死神によって、粉々に砕いてやる必要がある」
司祭は、絶望に顔を歪めるセイレーンを一瞥した。
「ゴブリンに怯える者同士が戦って、一体何が証明されるのかね? 片方は光で傷を隠し、片方は闇で力を誇るが、結局のところ、二人とも足元を這い回る雑魚一匹に魂を縛られている……。そんな『敗北者同士』の泥仕合など、私の盤面には必要ないのだよ」
司祭は自らの右腕を高く掲げ、虚空を握りつぶすように拳を固めた。
「必要なのは、恐怖を完全に『支配』した者だ。……あの大司教が一生越えられなかった壁を、ゴミのように踏みつぶして進む者。それこそが、神が選んだ聖女を殺すにふさわしい、私が選んだ死神なのだから」
「…………ッ!!」
幹部は、そのあまりにも個人的で、あまりにも狂った司祭の美学に、言葉を失った。
「セイレーンは、所詮は『模造品』に過ぎなかった。……あの大司教の弱さを、鏡のように映し出しただけのね。……もういい、連れて行きたまえ。私の盤面には、もっと純粋な『絶望』が必要なのだ」
助けを求めるように手を伸ばしたセイレーンの指先は、誰の温もりにも触れることなく、冷たい闇の中に沈んでいった。