地下演習場での無惨な敗北の翌日。深淵の岬、監視塔の最下層。
豪華な装飾も、司祭の偽りの慈悲も届かない、冷たい石壁の独房。
セイレーンは引き裂かれた服のまま、湿った床に膝を突き、自らの喉を細い指でなぞっていた。
(……やはり。……やはり、あの人も。私のことを……『役立たず』だと思っているのね)
脳裏に焼き付いているのは、昨日の闘技場で見せつけられた司祭の冷徹な一瞥。それは慈父の眼差しなどではなく、期待通りの出目を出さなかった「壊れたダイス」を、ゴミ箱へ放り込む時のそれと同じであった。
(小鬼(ゴブリン)に……勝てなかったから。神話の怪物を沈める力を与えられても、結局、私はあの日から一歩も動けていなかった……)
彼女の喉に刻まれた混沌の核が、まるで彼女を嘲笑うように、チリチリと不快な熱を発する。
司祭が与えてくれた「力」。それは、彼女を不浄から救うための翼ではなく、彼女を「憎しみ」という名の底なし沼へ繋ぎ止めるための重りであった。
(……あいつらへの復讐なんか、どうでもいい。……憎んだところで、私の声は戻らない。……あの日、汚される前の私には……もう二度と、戻れないのだから……)
彼女は、泥のついた自らの両手を見つめた。
司祭は「世界を拒絶せよ」と言った。「自分を汚した全てを、その歌声で消し去れ」と。
けれど、憎しみを募らせれば募らせるほど、彼女の心はあの暗い洞窟の記憶に支配され、自分の魂が腐っていくのを感じるだけであった。
(私が欲しかったのは……。……そんなものじゃなかった)
暗い独房の隅、彼女の目に一筋の涙が浮かぶ。
術式に書き換えられる前の、彼女の本当の思考。
(……会いたい。……もう一度だけ、彼に……)
あの日、自分の「汚れ」など気にも留めず、震える肩を抱きしめてくれた、あの人。
「君は何も悪くない」と言ってくれた、あの温かな声。
絶縁状を渡された時、一度は「彼に捨てられた」と絶望したけれど。
司祭の冷たい救済に浸かれば浸かるほど、彼女の魂は逆説的に、あの青年の無垢な愛情を渇望していた。
(歌なんて、戻らなくてもよかった。……声が出ないまま、あの人の側で、ただ静かに生きていたかった……。……ねえ、貴方は今、どこにいるの……?)
届かぬ想いが、喉の奥で澱のように溜まっていく。
その瞳に宿ったのは、破壊の意志ではなく、ただ一人の人を想う、あまりにも人間らしく、あまりにも悲しい「愛」の残響であった。
――教団本拠地の円卓会議室では、薄暗い灯火の下、セイレーンの今後の処遇と教団の方針を巡る冷徹な議論が交わされていた。
「――しかし閣下。再考の余地はございませんか。セイレーンほどの稀代の才能と高潔な魂、そしてあれほど高純度の絶望を備えた素材は、もう二度と手に入らないかもしれませんぞ」
教団幹部が、苦渋の色を浮かべて司祭に進言した。
「反転術式を完全に定着させ、神話の怪物さえ屠る力を得たのは、彼女一人です。この上さらに『小鬼(ゴブリン)への恐怖を克服可能』などという条件まで加えるのは、素材の選別として非現実的では……」
「いや、必ずどこかにいるはずだ。……神々が盤面に光を置いたのなら、必ずその影として、救いようのない闇も用意されている。私はそれを引くだけだよ。……小鬼に震えるような『偽物』に、我が教団の未来を預けるつもりはない」
司祭は、窓の外に広がる深い闇を凝視したまま、断定的に答えた。
「……もう一つ懸念がございます。六英雄、特に大司教への復讐に燃える研究員や兵たちが、今回の決定に不満を募らせています」
教団幹部が、実験データの束を叩きながら進言した。
「クラーケンすら沈めたあれほどの『兵器』を、たかが小鬼(ゴブリン)相手には無力という理由だけで、再び蔵にしまい込むのは……教団のリソースの浪費ではないか、と。現場の連中は、今すぐにでもあの娘を王都へ放り込めと息巻いておりますぞ」
「クク……案ずるな。失敗作とはいえ、せっかく研ぎ澄ませた刃だ。相応の『余興』は考えてある」
「余興……ですか?」
司祭は、監視塔の窓から見える荒れ狂う海を指差した。
「セイレーンはこの『深淵の岬』の監視塔へ配置しろ。……枷の出力を最大にし、近づく船、近づく人間、近づく魔物……そのすべてを、あの哀歌で海へ沈め続けさせるのだ」
「番犬……、というわけですか」
「そうだ。そうなれば正義を掲げる連中……王国軍や冒険者が、次々とあの歌声を止めるためにやってくるだろう。……彼らは英雄気取りで、自ら『観客』としてこの岬に飛び込んでくる。……それを彼女に、一組ずつ丁寧に掃除させるのだよ」
教団幹部の瞳に、不気味な光が宿った。
「成る程……。他の混沌勢力に我が教団の名を知らしめるには、絶好のデモンストレーションになりますな。王国の海運を麻痺させ、英雄たちを一人ずつ『掃除』していく岬の死神……」
「そうだ。……セイレーンには、次なる『本命』が見つかるまでの時間を稼いでもらわねばならんからな。……彼女が王都の連中の注意を引き付けている間に、私はより純粋な、不純物のない『絶望』をじっくりと探すとしよう」
救済を信じて声を捧げた少女は、いま、世界を飢えさせるための「門番」へと落とされた。
自らの意志を奪われ、近づくもの全てを死へと誘う。
それが、救われたはずの歌姫に与えられた、世界で最も過酷な「役割」であった。