かつての富商の家名は捨て、一介の冒険者として荒野を歩む青年は、深い山々に囲まれた静かな村に身を寄せていた。
彼は商家の嫡男として叩き込まれた「鑑定」の技術を使い、村人たちの生活道具や古びた装身具の価値を看て回っていた。
「……ありがとうございます。貴方の確かな『鑑定』のおかげで、亡き妻の形見を……ただの石ころとして手放さずに済みました」
「お気になさらず。かつて学んだ商人の知恵が、少しでもお役に立てたのなら光栄です」
青年は、力なく、けれど穏やかに微笑んだ。かつて商家の跡取りとして学んでいた頃の知識が、放浪の旅の中で唯一、食い繋ぐための武器となっていた。
「もう……行かれるのですか」
荷をまとめ、剣を手にする青年の背中に、男が問いかけた。その声音には、腕利きの武人特有の鋭さと、客人を案じる温かさが同居している。
「ええ。……これ以上、立ち止まっているわけにはいかないんです。彼女を……あの日、私の前から消えてしまった大切な人を、探さなくてはならないので」
青年の瞳の奥に宿る、消えることのない執念。それを見た武術家の男は、静かに頷き、それ以上は何も言わなかった。
「お兄さん、行っちゃうの?」
そこへ、一人の幼い少女が駆け寄ってきた。艶やかな黒髪を揺らし、好奇心いっぱいの瞳で青年を見上げる。彼女は青年の服の裾をぎゅっと掴むと、精一杯の大きな声で言った。
「お兄さん……絶対に、絶対に恋人さんを助けてあげてね! 私も、お父さんみたいに強くなって、困っている人を助けられるようになるから。だから、お兄さんも負けないで!」
「…………」
青年は、その眩しすぎるほど純粋な励ましに、一瞬だけ言葉を詰まらせた。そして、彼女の目線に合わせて腰を落とすと、その小さな頭を優しく撫でた。
「……ありがとう。約束するよ。必ず、連れ戻してみせる」
少女の弾けるような笑顔。それを傍らで見守る、慈愛に満ちた父親の姿。
青年は、かつて自分たちが手にするはずだった「当たり前の幸福」の形をそこに見た。
(いつか……。いつか、あの子も、こんな風に笑える場所に……)
青年は二人に別れを告げ、再び険しい山道を下り始めた。
背後で手を振る少女の無邪気な声が、風に乗って遠ざかっていく。
「……港町を離れて、もう三ヶ月か」
ため息と共に漏れた言葉が、冷え始めた夜気に溶けていく。
この三ヶ月、彼は各地の救護所や神殿を回り、声を失った歌姫の行方を探し続けてきた。けれど、返ってくるのは「よくある話だ」という冷淡な言葉か、あるいは首を振る沈黙だけ。
(まだ……手がかりすら掴めない。あの子は、どこに……)
彼は懐から、かつて彼女に贈ろうとしていた、いまはもう持ち主を失った指輪の小箱を取り出した。
それを握りしめると、彼女の震える指先の感触が、そしてあの日守れなかった後悔が、鋭い痛みとなって胸を突き刺す。
「…………」
青年は顔を上げ、地図の北東に記された一画を指でなぞった。
そこは、港町からは遠く離れた中規模な宿場町。
「……次は、『辺境の街』に行ってみよう」
冒険者が集い、付近は小鬼(ゴブリン)の被害が絶えないと聞くその街なら、何かしらの手がかりを掴めるかもしれない。
だが、その決意を嘲笑うかのように、突如背後の茂みがガサリと不気味に揺れた。
「…………ッ!?」
青年が反射的に腰の剣へ手をかけた瞬間、風に乗って漂ってきたのは、耐え難いほどの腐敗臭と、泥を煮詰めたような「悪意」の臭い。
「GORB!GORB!」
「――GAROU!!」
茂みから飛び出してきたのは、巣穴からあぶれ、獲物を求めて彷徨っていた三匹の「渡り」のゴブリン。
「……お前達か」
青年の声には、普段の温和さは欠片もなかった。
愛する人の夢を壊し、声を奪い、自分たちの人生を奈落へ突き落とした、憎むべき元凶。
三匹の小鬼は、青年の持つ貧相な荷物を値踏みするように眺めながら、錆びた短剣を構えてじりじりと距離を詰めてくる。
(……来る。……落ち着け)
青年は、腰の剣をゆっくりと引き抜いた。
それは名剣でも何でもない、旅立ちの前に護身用として手に入れた安物。
(商家で学んだ、形ばかりの護身用の剣術……。それが、この本物の怪物相手に、どれだけ通用するか……!)
「GRRR!!」
先頭の一匹が、泥土を蹴って青年の懐へと飛び込んできた。
青年は、商家の教育で叩き込まれた基本に忠実な構えで、それを迎え撃つ。
(弱い……!)
重い手応えと共に、安物の剣がゴブリンの肩口を割り、そのまま心臓へと達した。
絶命し、地面に転がる緑色の肉塊。
(個体としては、間違いなく僕より弱い。だけど……)
残る二匹は、仲間の死に怯むどころか、それを利用して青年の死角へと回り込もうとしていた。一匹が地面に這いつくばって脚を狙い、もう一匹が岩の上から頭部を狙って跳躍する。
(――っ、こいつら……!)
下段への刺突を躱した瞬間、腕に鋭い痛みが走る。岩から跳んできた小鬼が、錆びたナイフで青年の腕を浅く切り裂いたのだ。
「……っ、うああッ!!」
青年は痛みを堪え、跳んできた個体を空中で叩き斬った。残る一匹は、不利と悟るや否や、岩陰に隠れながら石を投げて牽制してくる。
(痺れる……。刃に毒が……!?)
切り傷の周りが熱を持ち、視界がわずかに歪み始めた。青年は震える手で、山村から調達した小瓶を抜き出し、中身を喉に流し込んだ。
(……念のため、毒消しを持っておいてよかった。)
「GORB!?」
毒が効かないことに驚愕したゴブリンが、一瞬だけ動きを止めた。青年はその隙を見逃さず、一気に距離を詰めて真っ直ぐに突きを放った。
ドスッ、という、嫌な手応え。
剣先が小鬼の喉を貫き、汚れた鮮血が青年の顔に飛び散った。
三匹の死骸が、山道に転がった。
そこにあるのは、英雄譚に語られるような栄光ある勝利ではなかった。ただ、鼻を突く悪臭と、手に残る不快な肉の感触。そして、何よりも耐え難い「生理的な嫌悪感」。
「…………はぁ、はぁ……」
青年は、返り血で汚れた自らの手を見つめ、ガタガタと震え出した。
(こんなに……あいつらは、恐ろしいのか……)
一匹なら勝てる。だが、奴らには言葉も、誇りも、慈悲もない。
ただ獲物を汚し、食い散らかすことだけを目的とした、純粋な悪意。
(こんな……こんな醜悪な、言葉も通じない獣に……。あの子は……)
かつて、潮風を浴びて美しく歌っていた彼女。
その身体を、この汚らわしい指先が這い回り、その尊厳を泥の中に踏みにじった。
その光景を想像した瞬間、青年は激しい嘔吐感に襲われ、その場に膝を突いた。
「……あ、ああ……っ、うあああああああああッ!!!」
彼女が、どれほどの恐怖の中でその声を奪われたのか。
自分達が「よくある話だ」と他人事のように聞いていた世界の裏側が、どれほど救いのない地獄だったのか。
(……ごめん。……ごめん。僕は、何も分かっていなかった……!)
青年は、震える膝を叩き、再び立ち上がった。
彼を突き動かしているのは、もはや富商の矜持でも、正義感でもなかった。
ただ、一人の少女を地獄に置き去りにしてしまったという、焼けるような後悔。
「……待ってて。……必ず……必ず、迎えに行くから……」
彼はもう、富商の嫡男でも、理想を追う夢想家でもない。
ただ一人、地獄に置き去りにされた少女を救い出すために、自らも泥の中を歩くことを決意した、一人の「冒険者」としての足取りで。
彼は、不吉な霧が立ち込める「辺境の街」の方角へと、再び歩み出した。