『ゴブリンスレイヤー』外伝【幻声哀歌編】   作:いっかず

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第26話:空白の生存者

山道での死闘を越え、さらに数日。

青年の目の前には、ようやく広大な平野と、その中心に佇む活気ある街の輪郭が見え始めていた。街道の脇にはのどかな放牧地が広がり、夕暮れの柔らかな光が牛たちの背を赤く染めていた。

 

疲れ果て、杖代わりの剣を引きずるように歩いていた青年は、柵の近くで作業をしていた一人の男に声をかけた。

 

「……すみません。……辺境の街は、どちらでしょうか」

 

作業の手を止め、男――牧場主がゆっくりと顔を上げた。

 

「ああ、この道を真っ直ぐだ。もう目と鼻の先だよ」

 

牧場主は青年のボロボロの身なりと、腰に下げた剣に視線を落とした。

 

「……あんた、冒険者か? 随分とひどい有り様じゃないか。街道で野盗にでも襲われたか」

 

「いえ……ゴブリンです。……お恥ずかしい」

 

青年が自嘲気味に応えた、その時であった。

 

「――おじさーん! 牛たちの準備、終わったよ!」

 

家の方から、明るい声が響いた。駆け寄ってきたのは、まだあどけなさの残る一人の少女だ。彼女は籠を抱え、こちらに気づくと屈託のない――あまりにも出来すぎた笑顔を向けた。

 

「あら、お客さん? 旅の人、顔色がすごく悪いよ。熱でもあるんじゃない?」

 

少女は、青年の目の前まで来ると、心配そうに顔を覗き込んできた。その声は快活で、振る舞いは親切そのものであった。

 

(……え?)

 

青年は一瞬、言葉を失った。

商人として人の顔を視て生きてきた彼には、分かってしまったのだ。

 

目の前の少女の笑顔は、筋肉の動きだけで作られた「仮面」であることに。

彼女の明るい声は、内側の空洞で反響しているだけの、空虚な響きであることに。

なにより、その瞳の奥には、数ヶ月前に救い出された直後の歌姫と同じ――「何も見ていない、真っ黒な絶望」が沈んでいた。

 

「……大丈夫。少し、寝不足なだけだよ。……心配してくれてありがとう、お嬢さん」

 

「そう? ならいいけど……。無理しちゃダメだよ。あ、これ、冷たいお水。飲む?」

 

少女は「空元気」を振りまきながら、青年に水筒を差し出しました。彼女は、そうやって明るく振る舞うことで、叔父を安心させ、自分自身の心が壊れている事実から目を逸らそうとしているようであった。

 

叔父はそんな姪の背中を、悲しげな、けれどどうすることもできない眼差しで見つめていた。

 

(……この子も、何かを失ったんだ)

 

青年は手渡された水の冷たさを感じながら、確信した。

この街の静けさの裏側には、彼女のような「空っぽの器」が数えきれないほど存在している。

 

「……助かりました。街へ行きます」

 

青年は牧場を後にした。

背後で「気をつけてねー!」と元気に手を振る少女の影が、朝日に長く伸びていた。

 

――牧場の空虚な空気から逃れるように街の門を潜ると、そこには不自然なほどの活気があふれていた。

冒険者ギルド。鉄と汗、そして安い酒の匂いが混じり合うその場所は、死の歌声が響く岬とは対極にある「生の喧騒」に満ちていた。

 

「――よぉ、今日の稼ぎはどうだった?」

「金貨十枚さ。あのトロールは手強かったが、何とか首を獲ったよ。お陰で今夜は贅沢ができるぜ」

 

談話室のあちこちで交わされる、戦果と報酬の会話。彼らにとって世界は「強敵を倒して名声を得る場」であり、そこに弱者の悲鳴が入り込む余地はなかった。

 

青年は、その熱気に当惑しながら受付カウンターへと歩み寄った。

 

「……いらっしゃいませ。依頼の受注ですか? 」

 

ギルドの女性職員が、事務的な、けれど丁寧な笑顔で問いかけた。青年は震える手で、懐から一枚の似顔絵を取り出した。それは彼が描き写した、かつての歌姫の姿。

 

「いえ……お聞きしたいことがあって。……この女性、あるいは彼女に似た方を見かけたことはありませんか? 小鬼(ゴブリン)の被害に遭った後、行方がわからなくなっているんです」

 

女性職員は、差し出された似顔絵をじっと見つめたが、すぐに悲しげに目を伏せ、首を横に振った。

 

「いいえ……。申し訳ありません。心当たりはありませんね」

 

「そうですか……。もし、わずかな情報でもあれば……」

 

「…………」

受付嬢は言い淀み、青年のボロボロになった旅装を見て、絞り出すように言葉を繋いだ。

 

「申し訳ありません、本当にお力になりたいのですが……。この辺境では、ゴブリンの被害に遭って失踪したり、自ら姿を消してしまう女性は……あまりにも、数が多いのです。 その一人一人の行方を追うことは物理的に不可能なのです」

 

「数、が……多すぎる?」

 

「はい。神殿に運ばれても、多くの女性は心を閉ざしたまま夜中に逃げ出したり、そのまま……。ギルドに寄せられる『捜索願い』だけでも、掲示板が埋まるほどですから」

 

女性職員の言葉は、悪意のない残酷な「事実」であった。

彼が探している「最愛の彼女」も、この街においては、統計の中の一つの数字に過ぎない。

 

「……そうですか。お忙しいところ、すみませんでした」

 

青年は力なく似顔絵を仕舞った。数ヶ月にわたる放浪の果て、ようやく辿り着いた希望がまた一つ、指の間から滑り落ちていく。

 

「……ただ、もしかしたら」

 

職員が声を潜め、周囲を気にしながら身を乗り出した。

 

「彼らなら、何かご存知かもしれません。最近、街で熱心に活動されている『光の教団』という方々です」

 

その名を聞いた瞬間、青年の脳裏に、港街の神殿の回廊で声をかけてきた、あの不自然なほど穏やかな神父の姿が鮮烈に蘇った。

 

「! あの慈善団体ですか。……この街でも活動を?」

 

「ええ。今は神殿やギルドの救護所ではベッドも人手も足りず、心に深い傷を負った被害者の方々はどうしても後回しになりがちなのです。……ですが彼らは、そうした方々を無償で受け入れ、寄り添ってくださっている」

 

職員は、デスクの隅に置かれた手書きの地図を青年に差し出した。

 

「第二街区に、彼らが運営する私設の救護所があります。 ギルドとしても、彼らの献身的なサポートには助けられている面がありましてね。……もしお探しの方がどこかの施設に身を寄せているとしたら、あそこが一番可能性が高いでしょう」

 

「第二街区……ですね。ありがとうございます」

 

「……お気をつけて。あそこは、あまり治安が良い場所ではありませんから」

 

職員の警告は、既に遠ざかる青年の背中には届かなかった。

 

――辺境の街。第二街区

教団の「仮設救護所」には、絶望の混じった沈黙と、時折響く力ない嗚咽が満ちていた。ゴブリンに故郷を焼かれ、家族を奪われ、それでも「平和になった」と謳歌する社会から取り残された者たち。

 

「……ゴブリンに、村を焼かれたんです。家も、畑も、全部……」

「目の前で、両親が……あいつらに嬲り殺された。助けたかった、でも、身体が動かなくて……っ」

「娘が……救い出された後、あんな身体じゃ生きていけないって……。首を吊って……。地母神様、なぜ、なぜあの子を見捨てたのですか……!!」

 

「……可哀想に。もう大丈夫ですよ。貴方方の痛みは、私達の神がよく分かっています」

 

祭壇の前に立つ教団の巡回神父は、穏やかな、けれど芯まで冷え切るような声で説法を始めた。

 

「皆さん。この四方世界は、あまりにも醜い欺瞞に満ちています。三年前、あの六英雄によって魔神王が討たれたことで、世界に真の平和が戻ったと……誰もがそう喧伝している」

 

神父は、最前列で震える一人の男の手を優しく取った。

 

「ですが、どうでしょう。皆さんの故郷は焼かれ、愛する人は奪われた。……国は、ドラゴンや魔神王といった『大いなる滅び』に比べれば、ゴブリンなど取るに足りない雑魚だと切り捨てている。……彼らにとって、皆さんが味わった地獄は、公式の記録に留める価値さえない『日常の端事』なのです」

 

地下室に、抑えきれない啜り泣きの音が響きわたる。

 

「……記録にすら残されず、ただ忘れ去られていく皆さんの苦痛。地母神の慈悲を説く者たちでさえ、皆さんの瞳に宿る闇から目を逸らしている。……これが、彼らの言う『平和』の正体です」

 

神父は両腕を広げ、信徒たちを包み込むように声を張り上げた。

 

「しかし、案ずることはありません。救いは、等しく全ての人にもたらされます。……光が見捨てたのなら、闇が皆さんの叫びを汲み上げましょう。……皆さんの憎しみを、絶望を、世界の不条理を粉砕するための『力』へと昇華させてくれる存在……」

 

神父の瞳に、狂信的な光が宿る。

 

「……我らを導く『死神』。……その降臨の日は、もうすぐそこまで来ています。彼女が解き放たれた時、この欺瞞の平和を享受する者たちも、小鬼も、等しく裁きの衝撃に震えることになる。……その時こそ、皆さんは本当の意味で『救われる』のです」

 

「……死神様……」

「救ってください……私たちを……」

 

「……さあ、奥の聖堂へ。そこには、貴方たちの憎しみを、悲しみを、真の平穏へと変えるための『儀式』が待っています」

 

犠牲者たちは、その言葉を最後の希望として、ふらふらと暗い廊下の奥へと消えていった。

 

神父は祭壇に置かれた巨大な通信水晶に手をかざす。水晶の中には、深淵の岬の本拠地に座す司祭と、教団の幹部たちの影が映し出されている。

 

『――首尾はどうかね。辺境の地の収穫は』

 

「はっ。例の『聖歌隊』の素材集めは順調です。神殿やギルドの救護所から溢れた端材を、次々と『処理場』へ送り込んでおります。」

 

神父は手元の名簿を指先でなぞりながら、淡々と答えた。

 

「ですが……次なる『死神』の核となる、反転に適した有望な素材は、未だ発見に至っておりません。この街に集まるのは、ゴブリンに壊されただけの、使い捨ての壊れた人形ばかりです」

 

『クク……。焦る必要はない。世界が汚れ続ける限り、素材は向こうからやってくる』

 

「……ただ、閣下。過去の記録を洗っていたところ、興味深い事象を見つけました」

 

巡回神父は、汚れた一枚の羊皮紙を取り出した。それは三年前、「よくある小鬼禍」として処理された一地方の村の壊滅記録だった。

 

「三年前、この街から少し離れた場所にある、とある村がゴブリンの襲撃を受け、完全に壊滅しました。……生存者は無し、と公式記録にはありますが。一人だけ、襲撃の最中にたまたま街外れの叔父の牧場へ逃れていた娘がおりました」

 

『……ふん。たまたま留守にしていた幸運な娘か。直接その目で地獄を見ていないのであれば、絶望の純度は低い。拒絶の神にはなれん。聖歌隊の薄っぺらな素材にするのが関の山だろう』

 

幹部の冷淡な切り捨て。しかし、神父の瞳には、狂信的な好奇心が宿っていた。

 

「いいえ。……実は、その記録には『不自然な空白』があるのです。……当時の調査員が残した走り書きによれば、未確定ではありますが、襲撃された村から……もう一人、生き延びた者がいた可能性が」

 

水晶の向こうで、司祭が微かに身を乗り出した。

 

『ほう……?」

 

「村の住人が全員、肉塊か孕み袋に変えられたその中心で。……ただ独り、小鬼どもの悪意をその身に浴びながら、夜明けまで息を潜めていた者がいたとしたら……」

 

神父の言葉に、司祭は沈黙した。

もしそれが事実なら。その者が抱いた絶望は、司祭が追い求めてきた「真珠」をも凌駕する、究極の呪いとなり得る。

 

「……その生存者の行方を探りますか?」

 

『……面白い。探りなさい。……もしその『空白』が実在するならば。それは私の死神の、最高の『鏡』になるかもしれないのだからな』

 

通信が途絶え、地下室に再び重苦しい静寂が戻った。

 

三年前。

村を焼かれ、床下で姉が蹂躙されるのを、ただ「無」となって見つめ続けていた少年。

教団の魔手が、その足跡に向けて音もなく伸びようとしていた。

 

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