辺境の街の外れ、夕闇に沈む牧場。
牛飼娘は、家畜を囲いに戻した後、一人で柵に寄りかかって遠い地平線を見つめていた。この時間、空が不気味な茜色に染まるたび、彼女の心には三年前の「あの夜」の熱風が蘇る。
「……あの日から、もう三年も経つのに」
彼女の呟きは、誰に届くこともなく夜風に吸い込まれていく。
街の人々は復興の活気に沸き、あの日焼かれた村のことなど、もはや誰も口にしない。けれど、彼女の中の時計は、あの灰色の朝から一歩も進んでいなかった。
「……彼とは。……喧嘩したまま、お別れになっちゃったな」
脳裏に浮かぶのは、意地っ張りだった幼馴染の少年の顔。
あの日、些細なことで言い争いをしたまま、彼女は街へ出かけた。戻ったときには、家も、家族も、彼がいたはずの日常も、すべてが赤黒い炎の中に消えていた。
(……ごめんね。……最後にあんなこと、言わなきゃよかった……)
彼女が胸を締め付けられるような後悔に震えていた、その時。
牧場の端にある林の影から、二つの冷ややかな視線が彼女を射抜いていた。
「……閣下が興味を示された、例の村の『生き残り』。その可能性を洗っているが、収穫は薄いな」
一人の兵士が、感情を排した声で相方に囁いたた。
「手がかりは、やはりあの娘だ。調査記録によれば、彼女と最も親しかった少年の遺体だけは、当時どれだけ探しても見つからなかったらしい」
「とはいえ、襲撃時に牧場にいて不在だった彼女からでは、詳細など分からん。あの夜、村の中心部で何が起きたのか……。肝心の『目撃者』がいなければ、絶望の純度を測ることもできん」
「そもそも、その少年とやらが本当に生きているかどうかも怪しいものだ。ゴブリンどもに食い散らかされ、骨も残らなかったと考えるのが妥当だろう」
「……だが、閣下からの直々の命令だ。監視は継続する」
もう一人の兵士が、懐の魔導水晶に現在の座標を記録した。
「閣下は仰っていた。……『地獄の中心で、夜明けまで沈黙を守り抜いた魂があるならば、それはセイレーンを凌駕する至高の素材となるだろう』と。……あの娘が待ち続けているその『空白』が姿を現すその時まで、我らは影に徹するのみだ」
彼らが探しているのは、牛飼娘のような「悲しむ者」ではなかった。
絶望の底の、そのさらに奥で、人間性を捨てて「殺戮の化身」へと変生しようとしている、名もなき少年の足跡。
教団の魔手は、牛飼娘という「餌」をじっと見つめながら、運命のダイスが「再会」の目を示すのを待っていた。
――辺境の街、第二街区。ここはギルドや大通りの活気から遠く離れ、ゴブリンに故郷を追われた避難民や、酒に溺れた食い詰め者たちが淀みのように溜まる場所であった。
湿った路地の奥、青年はギルドの職員から聞いた情報を頼りに、その「救い」の在処を探していました。
「……すみません。このあたりに『光の教団』が運営している救護所があると聞いたのですが」
青年が通りがかりの男に声をかけます。しかし、返ってきたのは温かな案内ではなかった。
「――よう、兄ちゃん。見ない顔だな」
壁に背を預けていた冒険者崩れの男が、下卑た笑みを浮かべて立ち上がった。その後ろから、同じように薄汚れた装備を纏った男たちが二、三人、青年の退路を塞ぐように現れる。
「こんな掃き溜めに何の用だ? 綺麗な身なりをしやがって。……ここはよぉ、余所者が勝手に歩いていい場所じゃねえんだわ」
「……光の教団の救護所だ。場所を教えてほしいだけだ」
青年は平静を装いながら、腰の剣の柄に手をかけた。男たちの瞳に宿る、ねっとりとした欲の色。それは先日、山道で自分を襲ったあのゴブリン達の瞳と、あまりにも似通っていたからだ。
「ああ、あの胡散臭ぇ連中のところか。教えてやってもいいがよぉ……。ここから先は『通行料』が必要なんだ。……無事に通りたきゃ、その荷物と、懐にあるもん全部置いていきな」
男が錆びた長剣を抜き、青年の喉元に突きつける。
「……あいにく、持ち合わせはない」
青年の声が、冷たく響いた。かつての「富商の御曹司」であった頃の気弱さは、もはやそこにはない。
「……どけ。僕は、急いでいるんだ」
「ああん? 何だと、この野郎……ッ!」
「――おやめなさい。主の導きを求める者を、無体に扱うものではありませんよ」
路地の奥、教団の紋章が刻まれた建物の影から、一人の男が音もなく闇の中から歩み出した。
現れたのは、汚れ一つない純白の法衣を纏った巡回神父。
「ちっ……あんたか」
冒険者崩れの男たちは、神父の姿を見た瞬間、先ほどまでの威勢を失い、怯えるように後退りした。彼らは経験で理解していたのだ。目の前の男が放つ、底知れぬ「虚無」の恐ろしさを。
「……ただの冗談ですよ。ほら、行くぞ!」
路地裏の冒険者崩れたちが、神父の放つ異様な威圧感に毒気を抜かれたように立ち去っていく。静寂が戻った第二街区の片隅で、神父は慈悲深い微笑を湛えたまま、青年に向き直った。
「……すみませんね。我々のような後ろ盾のない小さな団体では、治安の行き届いた表通りに拠点を構えることすら叶わないのですよ」
「……いいえ。助かりました。ありがとうございます」
青年は剣を収めたが、全身の産毛が逆立つような感覚は消えなかった。神父の法衣から漂う、鼻を突くほどの清浄な香。それが逆に、何かおぞましい死臭を隠しているかのように感じられたのだ。
「貴方のその瞳……貴方もまたゴブリンに大切な方を奪われたのではありませんか?」
神父の問いは、青年の心の最も柔らかい部分を正確に射抜いた。青年は意を決し、懐から一枚の似顔絵を取り出した。それは、声を失う前の、太陽のように笑っていた彼女の姿。
「……僕の婚約者です。貴方たちの救護所に、あの子が……この歌姫がいませんか? 」
似顔絵を見た瞬間、神父の瞳の奥で、氷のように冷たい光が走ったのを青年は見逃さなかった。しかし、神父はすぐに穏やかな表情に戻り、静かに告げた。
「……少し、お待ちを。奥の記録を確認してまいりましょう。もしかすると、我々の保護リストにそれらしき娘がいるかもしれません」
神父は青年に背を向け、路地の奥にある廃教会の影へと入っていった。
――廃教会の裏手。
神父は周囲に誰もいないことを確認すると、懐から黒い布に包まれた魔導水晶を取り出し、起動させた。
「――報告します。辺境の街支部に、予想外の来客がありました。……セイレーンの元婚約者です」
『……ほう。あの港街の豪商の息子か。身分を捨てて辺境の街まで探しに来るとは、ご苦労なことだ』
水晶の向こう側から、教団の本拠地にいる教団幹部の冷笑が響く。
「如何いたしますか? 既に彼は、教団が彼女を保護している可能性に気づき始めています」
『……一途な愛、そしてゴブリンへの静かな、けれど逃げ場のない怒り。……魂の質は悪くないな。セイレーン程の力は期待できんが反転させればあのキャンバスくらいの「駒」にはなるかもしれん』
「……素材として回収しますか?」
『ああ。愛する彼女と同じ地獄を歩ませてやろう。……一人は呪いの歌を歌い、一人は影から彼女を守る。怪物同士、永遠に岬の塔で睦み合うのも一興だろう。』
「了解しました。……では、我が支部で『反転の儀式』を執り行います。……彼女と同じ『汚れ』を、その魂に刻んでやりましょう」
神父は水晶を閉じ、再び「聖職者の仮面」を被る。
似顔絵を手に部屋へ戻る神父の足音は、青年には福音の鐘の音のように聞こえていた。
一人は、歌声を呪いに。
一人は、守るための剣を殺戮の牙に。
司祭の描く「地獄の連作」に、また新たな一頁が書き加えられようとしていた。