『ゴブリンスレイヤー』外伝【幻声哀歌編】   作:いっかず

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第1話:黄金の旋律

南西の港街。王国最大の海運拠点を支えるその場所は、今日も潮の香りと、世界中から集まる物資、そして人々の活気に満ち溢れていた。

 

しかし、その活気は時に「熱」を帯びすぎることがある。

 

「――ふざけるな! その積み荷は俺たちの取り分だと言ったはずだぞ!」

「抜かせ! 契約書を書き換えたのはどっちの頭だ!」

 

桟橋の一角で、二つの船団の船乗りたちが真っ赤な顔をして睨み合っていた。手には魚を捌くための荒物小刀や、荷縛り用の太い鎖が握られている。酒の臭いと、照りつける太陽の熱が彼らの理性を焼き切ろうとしていた。

 

「やるか、この野郎!」

「上等だ、海に沈めてやる!」

 

一人が殴りかかり、怒号が爆発する――まさにその刹那だった。

 

喧騒のすべてを。

そして、荒くれ者たちの荒い呼吸さえも一瞬で飲み込むような、一筋の「旋律」が響き渡った。

 

『――――♪』

 

それは、言葉を伴わない柔らかなハミングだった。

だが、その一音だけで、荒れ狂っていた男たちの動きが、魔法にかけられたように止まった。

 

それは、風に乗って流れてくる鈴の音のように清らかで、けれど魂の奥底を直接震わせるような、圧倒的な透明感を持った歌声だった。

 

――凪を待つ、祈りの歌。

 

船乗りたちは、自分が今なぜ怒っていたのかさえ忘れたように、呆然とその声の主を探した。

桟橋の中央、積み上げられた木箱の上に、一人の少女が立っていた。

 

潮風に青い髪をなびかせ、白い簡素なドレスを纏った彼女は、目を閉じてただ静かに天を仰いで歌っていた。その姿は、荒々しい港の風景の中で、そこだけ一点の曇りもない「聖域」であるかのように輝いている。

 

「……あ、あの子は」

「……『潮風の歌姫』か」

 

誰かがぽつりと呟いた。

少女の歌声が広がるにつれ、殺気立っていた空気はみるみるうちに霧散していった。

殴り合おうとしていた男たちは、互いの顔を見て気まずそうに視線を逸らし、武器を懐に隠した。歌声には、人の心にこびりついた「不浄」を洗い流す、奇跡のような力が宿っていた。

 

歌が終わると、港には波の音だけが戻った。

数秒の静寂の後、爆発的な喝采と拍手が沸き起こる。

 

「最高だぞ、歌姫!」

「あんたの歌があれば、嵐の海だって怖かねえ!」

 

「ふふ、ありがとうございます。皆さん、お仕事頑張ってくださいね」

 

少女は、はにかんだような、けれど太陽のように眩しい笑顔で人々に会釈した。

彼女にとって歌とは、人を幸せにし、争いを止めるための「希望」そのものだった。

 

「……今日も素晴らしい歌だったよ」

 

人だかりを割って現れたのは、上質な絹の衣服を纏った凛々しい青年だった。

街一番の豪商の嫡男であり、彼女の婚約者。

 

「貴方……。お仕事の邪魔じゃなかった?」

「まさか。父上も君の歌を聴くと、帳簿をつける手が軽くなるって喜んでいるよ。」

 

見つめ合い、笑い合う二人。

その睦まじい光景は、誰の目から見ても「幸福」そのものだった。

 

「本当に、君の歌は魔法みたいだね」

 

婚約者の青年が、愛おしそうに彼女の横顔を見つめて呟いた。

 

「あんなに荒れていた船乗りたちが、君の声が響いた瞬間に自分たちが何を争っていたのかさえ忘れたような顔をしていた。……本物の奇跡より、ずっと心に届く魔法だよ」

 

「ふふ、魔法だなんて……大げさだわ」

 

歌姫は少し照れたように俯き、柔らかな髪を耳にかけました。

 

「私はただ、みんなの心が少しでも軽くなればいいなって思って歌っているだけ。……魔法使いさんのように火を出したり、神官さんのように傷を治したりはできないけれど。でも、もし私の歌が誰かの明日を照らす光になれるなら、それが私にとっての一番の幸せなの」

 

彼女の指先は、期待に微かに震えていた。その震えに気づいた青年が、優しく問いかける。

 

「楽団の皆はどうだい? 準備は進んでいるかな」

 

「ええ。皆、寝る間も惜しんで練習に励んでいるわ。……王都の大きな舞台の、最終選考会の結果……明後日、発表されるの。もし選ばれたら、私たちは王国で一番大きな劇場に招待されることになるわ」

 

歌姫は顔を上げ、水平線の向こうにあるはずの、まだ見ぬ王都へと想いを馳せた。

 

「合格したら、すぐに巡業の準備よ。……怖いけれど、楽しみなの。お父さんやお母さん、そして街の皆が送り出してくれるその期待に応えたいから」

 

「君なら大丈夫だ。……結果が出る明後日は、僕も一緒にギルドへ行こう。合格の報せを聞いたら、その足で最高のお祝いを予約しなきゃね」

 

青年は彼女の手をそっと握りしめた。

その手の温もりこそが、彼女にとっての「世界」そのものであった。

 

――港街、市長執務室。

 

窓の外には穏やかな海が広がり、室内には潮風と共に平和な空気が流れていた。市長と、冒険者ギルドの調査員たちが、一人の温和な笑みを浮かべた男と向き合っていた。

 

「――感謝いたします、市長。我ら『光の教団』の細々とした活動を、こうして公に認めていただけるとは」

 

白い法衣を纏った神父は、聖職者らしい謙虚な態度で深々と頭を下げる。その瞳には、一点の曇りもない慈悲が宿っているように見えた。

 

「礼には及ばんよ。魔神王との戦いが終わって二年……街は活気を取り戻したが、いまだに心の折れた民は多い。君たちのような者が手を差し伸べてくれるのは、街としても助かるのだ」

 

市長は満足げに頷くが、隣に控えていたギルド職員が、手元の書類に目を落としながら、どこか訝しげに問いかける。

 

「……無償で小鬼禍(ゴブリンハザード)の被害者に対する社会復帰の支援、さらにはカウンセリングまで行っているとか。……今の世の中、地母神の神殿ですら相応の寄進を求めるというのに。あまりに出来すぎた話ではないか?」

 

ギルド職員は、背後に控えていたもう一人の職員――至高神の「看破(センス・ライ)」の奇跡を持つ判定官へ目配せした。

 

「……どうだ?」

 

「……至高神の名にかけて。彼の言葉に『嘘』はありません。彼は心から、絶望の底にある者たちを救い出し、新たな役割を与えたいと……そう願っています」

 

「…………ほう。ならば、本物の聖者というわけか」

 

疑っていた職員も、奇跡による証明を受けてようやく表情を緩めた。

 

「失礼した。ギルドとしても、引退せざるを得なくなった冒険者のケアには手を焼いていたところだ。君たちのような志ある団体がいるのなら、ぜひ協力させてもらいたい」

 

「光栄です。……我らはただ、行き場を失った小鳥たちに、再び羽ばたくための空を与えたいだけなのですから」

 

神父は再び、優雅に一礼した。

 

――市長邸を後にした、教団の馬車の車内。

 

「ククク……、ハハハハハッ!!」

 

先ほどまでの聖者然とした表情は消え失せ、神父...教団幹部は膝を打って爆笑した。

 

「……『嘘はありません』だと? 確かに私は嘘など吐いていない。我らは絶望したゴミどもを拾い、兵器という名の『役割』を与え、死神の翼として『羽ばたかせて』やるのだからな!」

 

その刹那、幹部の手元の通信用の魔導水晶が不気味な光を放ち始めた。

 

「――首尾はどうかね? 南西の『宝石』に、毒は回っているかな」

 

「……成功です、閣下。市長もギルドの連中も、我々を地母神の遣いか何かのように信じ切っています。閣下から授かった『精神遮蔽』の術式の前では、そこらの神官が放つ『看破(センス・ライ)』など、赤子の手をひねるより容易いものでした」

 

幹部は口元を歪め、手元の名簿を指し示した。

 

「市長とギルドの正式なお墨付きを得ました。これで公然と、かつ組織的に『素材』を集める土壌が整いました。……ギルドからは早速、ゴブリン退治に失敗し、心身を損なった女冒険者の治療とカウンセリングの要望が数件届いております」

 

「クク……。ギルド自らが、我々に素材を差し出すか。無知とは実にもって甘美なものだ」

 

司祭は指先で拍動を刻むように机を叩いた。

 

「まずは冒険者から探ってみるとしよう。彼女たちは元より戦う術を知っている。その魂を反転させた時、どれほどの出力が出るか……興味深い。だが、忘れるな。私が求めているのは量産品の魔人ではない」

 

「分かっております、閣下。……『剣の乙女』を絶望させるための、至高の真珠ですね」

 

「そうだ。……その女冒険者たちの中に、比類なき高潔さと、神を呪うほどの深い傷を併せ持つ者がいるか、慎重に見極めたまえ。……もし足りぬというのであれば、より『美しい鳴き声』を持つ素材へ視点を広げればいい」

 

司祭の視線は、水晶の端に映り込んだ港街のポスター――「潮風の歌姫」の華やかな姿に一瞬だけ留まった。

 

「……救済を始めたまえ。誰にも気づかれぬよう、丁寧に、残酷に、彼女たちの心を『掃除』してあげるのだ」

 

「御意に。……全ては閣下の盤上のままに」

 

通信が途絶え、地下室に沈黙が戻る。

平和を謳歌する港街の住人たちは、自分たちが信頼した「救いの手」が、実は魂を解体するためのメスであることを、まだ一人として知らなかった。

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