「……儀式、ですか?」
青年の問いに、神父は深く、慈愛に満ちた(ように見える)頷きを返した。その手には、先ほどまで青年が大切に持っていた歌姫の似顔絵が握られている。
「ええ。彼女はいま、我らが聖域にて、神聖なる務めに励んでおいでです。失われた声を取り戻すだけでなく、世界を浄化する特別な力を授かってね。ですが、今の貴方のままでは、あの子に近づくことさえ叶わない」
神父は、青年の泥に汚れた手を、自らの白く滑らかな手でそっと包み込みました
「若き御人。……貴方もこの地で『儀式』を受けてはいかがかな? 」
「僕も……儀式を……?」
「左様。そうすれば、貴方は彼女と同じ『理を歩むことができる。汚れなき愛を、不浄を排す刃へと変えるのです。……さあ、主の招きに応じなさい」
神父の瞳が、至近距離で青年の目を捉えた。
その瞬間。
かつて商人として、幾多の嘘と真実を天秤にかけてきた青年の直感が、背筋を突き抜けるような戦慄を呼び起こした。
(……あ)
青年は、神父の瞳の奥を覗き込む。
そこにあるのは、地母神を信じる者の温かな光ではない。
それは、感情を無理やり濾過し、狂信という名の冷たい泥で塗り固めた、底なしの「虚無」。
(……この目。……知っている。……あの港町で、慈善活動をしていた神父の目と同じだ)
それは、慈悲の光ではない。
獲物を値踏みし、最も美味しい部分――「絶望」を引き出そうとする、冷酷な捕食者の目。
「……そうですか。儀式を受ければ、彼女に会えるのですね」
青年はあえて、自分の疑念を心の奥底へと押し込んだ。
この街のギルドも、神殿も、既にこの不気味な教団の「仮面」に騙されている。ここで拒絶すれば、彼女への唯一の手がかりを失うことになる。
「……分かりました。受けましょう。彼女に会えるなら、僕はなんだってします」
「クク……賢明なご判断です。さあ、こちらへ。……真の祭壇は、不浄な者たちの邪念が届かぬよう、街から離れた静かな場所に用意してあります」
――辺境の街から数里。かつて鉱石を掘り尽くされ、地図からも忘れ去られた廃坑道。その入り口は蔦に覆われ、湿った冷気が闇の奥から這い出してきていた。
「……貴方の儀式は、この山の奥に設けた祭壇で行います。魂の汚れを落とす、神聖な場所ですよ」
(……やっぱり、おかしい)
青年は背後から神父の法衣を見つめ、確信を深めていた。救済の場だというのに、ここには薬の匂いも、祈りの静寂もない。漂っているのは、鼻を突くような生臭さと、古びた魔力が腐敗したような異臭だけ。
その時、坑道の奥から足音が響いた。現れたのは、一人の初老の農夫と、その傍らに寄り添う十代半ばの少女。
「ああ……ありがとうございます、神父様! まさか、もう一度娘が笑っているのを見られるなんて……。夢のようです!」
農夫は神父の前に跪き、何度も何度も感謝の言葉を繰り返した。
「よかったですね。地母神様の慈悲が、彼女に届いたのです。……さあ、もう彼女はゴブリンのことは全て忘れています。あの日見た悪夢に、再び心を苛まれることはありませんよ」
神父は少女の頭を優しく撫でました。少女はそれに応えるように、ニコリと微笑み返した。
「……トラウマを、なくすことができるのですか?」
思わず問いかけた青年に、神父は誇らしげに目を細めて答えた。
「ええ。我が教団の秘術です。被害者の魂から、苦痛の原因となる記憶だけを……不浄な汚れとして抽出するのです。そうすれば、彼女たちはあの日以前の、清らかな心を取り戻せる。……救済だと思いませんか?」
「記憶を……抽出する……?」
青年は絶句した。
そんな奇跡、王都の高位聖職者でも、賢者の魔法でも聞いたことがない。もしそれが可能だとしても、記憶とは人生そのもの。それを勝手に抜き取って、本当に「同じ人間」でいられるのか。
(……待て。あの子の様子……何かが、決定的に狂っている)
青年は、父親の横で微笑み続ける少女を凝視した。
彼女は笑っている。けれど、その瞳には光がない。
父親がどれほど泣いて喜んでいても、彼女はただ、「幸せであること」を義務付けられた機械のように、一定の角度で口角を上げ続けているだけ。
そこには喜びも、驚きも、そして人間らしい「影」も、一切存在していなかった。
(……怒りも悲しみも無い……。ただ、笑っているだけの……空っぽの器だ。……あんなの、僕の知っている「人間」じゃない!!)
青年は戦慄した。
教団が「救済」と呼んでいるものの正体。それは、被害者から人間性を剥ぎ取り、その絶望を「素材」として回収した後に残る、ただの廃棄物の山。
「……さあ、貴方の番ですよ、若き御人。……祭壇は、すぐそこです」
廃坑道の最奥、そこには地母神の慈悲を嘲笑うかのような、どす黒い魔力を湛えた石の祭壇が鎮座していた。壁には無数の幾何学模様が刻まれ、その一つ一つが犠牲者たちの怨念を吸い上げるかのように不気味に脈動している。
「……貴方に受けていただく儀式は、先ほどの彼女とは違います」
巡回神父は、祭壇の前に立ち、カントラの火を消した。
その整った顔立ちにはもはや隠そうともしない「選別者」の笑みを浮かんでいた。
「貴方の魂には、強い芯がある。……その婚約者に対する狂おしいほどの愛、そして、彼女から全てを奪ったゴブリンに対する烈火の如き怒り。……それらを『反転』させ、貴方の肉体に直接的な力として定着させるのです」
「…………」
「そうすれば、貴方は彼女を害する全てを粉砕する『盾』となれる。……愛する者を守るために、人間を超えた守護者へと転生する。……これこそが、貴方が求めていた究極の形ではありませんか?」
「…………そうか」
青年は、重い沈黙を破った。
その声には、もはや惑いも、神父への期待もなかった。
「ようやく分かったよ。……あの日。港街の診療所で、彼女が言葉を失ったことを告げられ、僕が途方に暮れていたあの時。……貴方たちが『慈善団体』の顔をして声をかけてきたのは……最初から、弱った彼女を『回収』するつもりだったんだな」
「おや、鋭いですね」
神父は、褒め称えるように両手を広げた。
「ええ、その通り。我々は彼女を『最高級の素材』としてマークしていた。絶望が発酵し、彼女が自ら死を選ぶその瞬間をね。……君の愛が、彼女の絶望を深めるための良い『重し』になってくれたことに感謝しますよ」
「 あの日、姿を消した彼女を……歌姫をどうした!! どこへやったんだ!!」
青年が叫び、腰の剣を引き抜こうとした。しかし、神父は動じず、ただ冷ややかに微笑んだ。
「彼女は今、我らの聖域で『完成』の時を待っていますよ。……もし彼女に再会し、その手を取りたいと願うのなら。……君も我々の『仲間』になりなさい。共に混沌の理を歩む魔人として、彼女を永遠に護り続けるのだ。……悪い話ではないでしょう?」
「…………」
青年は、暗い坑道の奥を見つめた。
その先へ行けば、彼女に会えるかもしれない。
けれど、その代償は「自分自身」を、彼女が愛してくれた「人間としての自分」を捨てること。
「……断る」
青年の声は、震えてはいなかった。
「……彼女が僕を好きになってくれたのは、僕が僕だったからだ。……化け物になってまであの子の隣に立つことなんて、彼女は望まない。……僕は僕のまま、お前達の不浄な檻をブチ破って、あの子を連れ戻す!!」
「……クク。残念だよ。実に残念だ」
神父が指を鳴らした瞬間、坑道の壁がうねり、影の中から教団の警備兵たちが姿を現した。
「……素材の意思など、最初から関係ないのだよ。……力ずくでも、連れて行かせてもらおうか。君たちの地獄の結婚式場へね」