「――囲まれた! 10人以上……ッ!!」
坑道の狭い空間に、抜剣の金属音が反響する。ゴブリンとの戦いとは違う。目の前の男たちからは、連携の取れた静かな圧迫感と、一切の情動を感じさせぬ「壁」のような殺気が放たれていた。
「クク……生け捕りが望ましいが。……抵抗するなら、手足の一本や二本、失った状態で運んでも構わんよ。素材の鮮度は、まだ十分だ」
神父の冷淡な声。その直後、一人の教団兵が踏み込んできた。
「遅いぞッ!!」
ガキィィィィン!!
かろうじて剣で受け流したが、そのあまりの重さと速さに、青年の手首が悲鳴を上げる。
(……くっ、強い!力も技もゴブリンとは比べものにならない……!)
青年は必死に剣を振るうが、相手は微動だにせずその刃を盾で受け流し、強烈な蹴りを青年の腹部に叩き込んだ。
「――がはっ……!?」
「クク、実戦経験はほぼ皆無だな。……貴族の遊びの剣術か? そんなもので、よくもまあのこのこと我らの聖域に踏み入ったものだ」
「剣の持ち方すらなっていない。……素材の質は良くても、中身はただの『お坊ちゃん』か」
兵士たちの嘲笑が反響する。青年は悟った。剣術でこの場を切り抜けることなど、逆立ちしても不可能だということを。
(……ダメだ。とても強行突破は無理だ。……でも、僕は、ここで終わるわけにはいかない……!)
圧倒的な実力差。
だが、その時、地面に押し付けられた顔のすぐそばで、ある「臭い」が彼の鼻腔を突いた。
それは、彼が商人として長年扱ってきた、ある特産品の芳香。そして――先ほどすれ違った『儀式』から戻った親子が纏っていた、教団特有の「魔力触媒」の焦げた臭いだった。
(……待てよ。この空気……乾燥した炭塵と、あの儀式で使っている揮発性の高い触媒の霧が混じっているのか……?)
商人の息子として、あらゆる物質の性質と価値を叩き込まれてきた彼の脳が、最悪の環境から「一つの解答」を弾き出した。
(…………これだ!!)
「……分かった。……降参だ。剣を捨てるから、助けてくれ……!」
青年は、折れかけた剣を足元に放り出した。その弱々しい姿に、油断した教団兵たちはさらに鼻を鳴らす。
「賢明な判断だ。……さあ、その手を上げろ」
兵士たちが一斉に踏み込んできた、その瞬間。
「…………今だッ!!」
青年は懐から、商売道具の隅に隠し持っていた「火打ち石」*を二つ、素早く取り出した。
「な……ッ!? 何をするつもりだ!」
教団兵達が目を見開くよりも速く、青年は全霊の力を込めて、目の前の空中で石を打ち合わせた。
――カチッ!!
小さな、けれど確かな火花が、高濃度の粉塵が舞う坑道の空気に触れた。
次の瞬間、閉鎖された空間そのものが真っ赤に、そして爆発的に膨れ上がった。
――――――――ドォォォォォォォォォォンッ!!!
『炭塵爆発』
爆風が教団兵たちを吹き飛ばし、坑道の天井が轟音と共に崩れ落ちる。
「なっ……が、あぁぁぁぁぁぁぁっ!!?」
「 消せ!早く――ッ!!」
悲鳴を上げる神父と兵士たち。青年は爆風を予見して地面に伏せ、咄嗟にマントで顔を覆っていた。
熱風が通り過ぎた直後、彼は視界を覆う黒煙の中に、わずかな「空白」を見つけ出した。
(…………今だッ!!)
青年は土煙の中を這い、出口へと続く一筋の光に向かって、走り出した。
「――ゴホッ、ガハッ! おのれ、癪な真似を……ッ!!」
「 逃がすな! 追えッ!!」
崩落する岩の音と、教団兵たちの怒号が入り混じる混沌の中、青年は這いずるように出口へと向かった。
「ハァ、ハァ……ッ! 出口は……あそこか!」
だが、坑道の入り口付近では、爆発の直接的な被害を免れた教団兵たちが、冷静に槍を構え直していた。
「――入り口を閉鎖しろ! 奴は袋のネズミだ! 逃がせば閣下への申し訳が立たんぞ!!」
逃げ道は完全に塞がれた。
背後からは、炎の中から這い出してくる追手の気配。前方には、鉄の規律で固められた封鎖線。
(……ここまで、なのか。……救いに行くどころか、僕自身が地獄の片棒を担ぐ『素材』に……!)
絶望が首筋を撫でた、その瞬間だった。
――パシュッ。
空気を微かに震わせる、あまりにも静かな音。
彼の目の前で、入り口を塞いでいた教団兵の一人が、声も上げずにその場に崩れ落ちた。
「なっ……何事だッ!?」
隣にいた兵士が驚愕して振り返った刹那、闇の中から「何か」が飛来した。
――ガッ!!
石礫か、あるいは投げナイフか。
正確に急所を撃ち抜かれた兵士が、人形の糸を切られたように次々と倒れていく。
そこに魔法の光も、戦士の勝ち鬨もなかった。ただ、無機質で圧倒的な「作業」としての殺害が、数秒の間に完了したのだ。
「……何が、起きたんだ……?」
あまりの出来事に足が止まる。
何が起きたのかは分からない。
誰が自分を助けたのかも分からない。
(……何が……。いや、今は考えるな。今がチャンスだッ!!)
理由を考えている暇はない。青年は倒れた教団兵の槍を飛び越え、雨が降り続く森の中へと飛び出した。
青年は倒れた兵士たちの間をすり抜け、坑道の外へと飛び出した。冷たい夜の空気が全身を包み込み、死の淵から生還したことを実感させる。
走り去る寸前、彼はふと背後の森の影を振り返った。
そこには、月明かりさえも届かない暗がりにボロボロのマントを羽織り、不気味に目を光らせる小さな老人の影が一瞬だけ見えた気がした。
(……誰だか知らないけれど……ありがとう。……貴方のおかげで、僕はまだ、あの子に会いに行ける)
青年は心の底から感謝を捧げると、一度も止まることなく夜の闇へと走り去っていった
――邪教団本拠地。青白く脈動する通信水晶を囲み、司祭と幹部たちが辺境からの報告を受けていた。
「報告は以上か。素人同然の若造一人を、十名以上の兵で囲んでおきながら、まんまと取り逃がすとは……。我が教団の練度も、随分と低下したものだな」
水晶の向こう側、本拠地に座す教団幹部の冷徹な声が、辺境の地下室に響き渡った。
「……面目次第もございません。よもや炭塵爆発などという捨て身の策を打つような知恵と度胸があるとは――」
『言い訳はいい。即座に回収班を放ち、その首を――』
『待ちたまえ』
その怒声を遮ったのは、深淵の底から響くような司祭の静かな声だった。
『……彼を助けた『第三者』がいたようだね』
それまで沈黙を守っていた司祭の、地を這うような重低音が割り込んだ。
「はっ……。仰る通りです。出口を封鎖しようとした兵士二名が、何者かによる狙撃を受けて無力化されました。魔力の反応はなく、極めて初歩的な、けれど正確無比な物理投擲によるものと推測されます」
『まさか、冒険者ギルドに感づかれたか? 王都の息がかかった高位の斥候でも潜んでいたのでは……!』
「いいえ。辺境の街の工作員からは、ギルドに動きがあったとの報告は一切入っておりません。そもそも、実家から勘当されたあの男に、それほどの護衛を雇う資金など残っていないはずです」
『……冒険者ではないね』
司祭の瞳が、水晶の奥で昏く光った。
『冒険者ならもっと『正義』を掲げて騒がしく動く。だが、その手口……あまりにも静かで、あまりにも冷徹だ。まるで、ただの『作業』として我らの兵を間引いたかのような……』
『閣下! 直ちに捜索部隊を編成し、あの若造を追わせます! 術式の機密が漏れる恐れが――』
『いや、彼のことはいい。あのようなボロボロの放浪者が、いまさら騎士団やギルドに何を報告したところで、誰も相手にはすまい。自ら地獄へ向かうというのなら、勝手にさせておきたまえ。……私が興味があるのは、彼を助けたその『何者か』だ』
司祭の瞳に、獲物を見つけた猛獣のような、狂気的な輝きが宿る。
『……もしかしたら。……三年前のあの『空白』が、ようやく我らの前にその端を現したのかもしれないな』
――北方の険しい山中、冷たい霧が岩肌を舐めるように流れる修行場。
少年は、吐く息を白く染めながら、安物の剣を無心に研石へ走らせていた。シュッ、シュッという規則的な音だけが、静寂の中に響く。
そこへ、背の高い草をかき分け、不敵な笑みを浮かべた圃人の老人が姿を現した。その身のこなしには一切の足音がなく、ただ背負った袋が微かに揺れる音だけが彼の帰還を告げていた。
「……何処に行ってたんですか、先生?」
少年は手を止めず、うつむいたまま問いかけた。師匠がふらりと姿を消すのはいつものことだが、今回は戻ってきた体に、微かに「焦げた魔力」と「不浄な術式」の臭いが染み付いていた。
「暇潰しだよ、暇潰し。……この退屈な世界で、ほんの少しだけ『面白い出目』を見つけたんでな」
「……何か、いたんですか。ゴブリン?」
「いや、もっと救いようのない『馬鹿』がいた。……恋人を救うだの何だのと喚き散らして、わざわざ自分から蜘蛛の巣に飛び込んでいくような、おめでたいガキだ」
少年は、研いでいた短剣の刃を指先でなぞった。
「……そんなの、ただの無謀だ。死ぬだけだ」
「カカッ! まったくだ、その通りよ」
圃人の老爺はいつものように意地の悪い、歪んだ謎かけを弟子に投げかける。
「じゃあ問題だ、『この世で最も重く、かつ最も軽いものは、一体何だ?』」
「……鉄。あるいは、命」
「カカッ、相変わらずの発想だな。だがハズレだ。正解は『他人のために流す涙』だ」
先生の瞳に、深い皮肉の光が宿る。
「あの日、お前を助けたいと願って小鬼の玩具になったお前の姉。今日、化け物にされた女を救いたいと走っていったあのガキ。……奴らの流す涙は、本人にとっては山よりも重い『決意』だがな……。神々や、あの蜘蛛のような連中から見れば、一吹きで消える塵に過ぎん」
老爺は少年の頭を杖でコンと叩いた。
「いいか。……重かろうが軽かろうが、そんなもんに振り回されるな。……涙で錆びた剣じゃ、ゴブリンの皮一枚も切れやしねぇんだからな。……わかったか?」
「……関係ない」
少年は再び、無心に刃を研ぎ始めた。
シュッ、シュッ、と。
硬質な音が静かな洞窟に規則正しく響き渡る。
「重くても、軽くても。……俺がやることは、変わらない」
「相変わらず可愛げのない小僧だ。まあいい。精々、自分が『掃除される側』にならないよう、そのなまくらを研いでおくんだな」
老爺は満足げに目を細め、少年の研いだ刃の輝きを見つめた。
愛のために死にに行く男。
復讐のために心を殺す少年。
どちらも同じ不浄の泥にまみれながら、片や光を求め、片や闇を磨く。
洞窟の外では、遥か西の岬から届く死の歌声が、嵐の前の静寂を震わせていた。