南海の覇者・紅鮫海賊団が忽然と姿を消した3ヶ月後のこと。
南西の海域は、かつてないほどの穏やかな凪に包まれていた。
「――全速前進! この風を逃すなッ!」
真っ白な帆を広げ、波を切って進む一隻の大型商船。甲板では、久しぶりの「安全な航海」に、船乗りたちが明るい声を掛け合っていた。
「ははっ、信じられねえな。あの凶悪な紅鮫たちはいなくなったし、航路を塞いでいた海獣共もどこかへ消えたらしい。まさに神風だぜ」
一人の船乗りが、水平線を眺めながら満足げに笑う。
「ああ、全くだ。これで安心して商売ができる。港に戻ったら、交易神様に感謝の酒を捧げなきゃな」
「おいおい、酒を飲む前にこの荷物を降ろすのが先だぞ。……にしても、本当に静かだ。海が死んでるみたいに穏やか――」
その時。
一人の若い船乗りが、ふと動きを止め、首を傾げた。
「……? おい、おっさん。……何か聞こえないか」
「あん? 波の音だろ。……いや、違うな。風の音か?」
ベテランの船乗りも足を止め、耳を澄ませる。
ざざぁ……という潮騒の隙間から、それは聞こえてきた。
遠く、霧に隠れた「深淵の岬」の方角から、絹糸のように細く、けれどあまりにも鮮明に。
『――――――――♪』
「……歌だ。誰か、歌ってるのか?」
「こんな沖合でか? 馬鹿を言え……。だが、なんて綺麗な声だ……」
船乗りたちの瞳から、次第に険しさが消えていく。
警戒心も、家族への想いも、積み荷への責任感も。
そのあまりにも透明で、あまりにも哀しい旋律に触れた瞬間、彼らの意識は、「死の安らぎ」へと塗り替えられていった。
「ああ……。あそこに、……あそこに、ずっと探していた楽園がある」
「……母さん? そうか、そこにいたんだね……」
舵を握っていた操舵手が、うっとりとした表情で、船を岬の岩礁地帯へと向けた。
「全速前進だ。……早く、あの声のところへ行かなきゃ……」
静かな海。
真っ白な帆を張った商船は、誰一人悲鳴を上げることなく、恍惚とした微笑みを浮かべた男たちを乗せて、霧の奥に潜む「死神」の元へと吸い込まれていった。
――南西の港街。その経済を牛耳る豪商の執務室は、重苦しい空気に包まれていた。
壁に掛けられた海図には、港からやや離れた「深淵の岬」周辺に、赤い印がいくつも打たれている。
「――一体、何が起きているというのだ!」
豪商――かつて、息子の婚約者であった歌姫を「傷物」として無慈悲に追い出した男は、苛立ちに任せてマホガニーの机を強く叩いた。
「ここ一週間で、岬を通行した商船が立て続けに十隻も沈んだだと!? 岩礁に衝突して砕け散るか、でなければ船員が一人残らず消え失せた幽霊船となって漂着する……。嵐も起きていないというのに、どういうことだ!」
海運は彼の権力と財力の源泉である。その動脈が正体不明の理由で寸断されつつある事態に、老商人の顔には濃い焦燥が浮かんでいた。
「……申し訳ございません、旦那様」
控えていた老齢の執事が、冷や汗を拭いながら重々しく頭を下げた。
「生存者が一人もおらず、詳細が全く掴めないのです。漂着した幽霊船の甲板には、争った形跡と……なぜか、船員同士が武器を向け合い、互いに殺し合ったような無惨な血痕だけが残されておりました」
「な……ッ!?」
豪商の顔から血の気が引く。その凄惨な報告は、彼の記憶にある「ある事件」を鮮烈に呼び起こしたからだ。
「……三ヶ月前と同じではないか! あの南海の覇者と恐れられた『紅鮫海賊団』の大艦隊が、一晩で海の藻屑となった、あの怪現象と! まさか……新種の海魔でも棲み着いたのか? それとも、何かの強力な呪いか!?」
豪商は椅子の肘掛けを強く握りしめた。
「ええい、ぐずぐずするな! 直ちに冒険者ギルドへ調査の依頼を出せ! 報奨金は倍だ、いや三倍出せ! 早くあの岬の安全を確保させろッ!!」
豪商の命令に、執事はさらに顔を青ざめさせ、言葉を濁した。
「そ、それが……。既にギルドの方でも異変を察知し、銅等級の一党が二組、独自に調査へ向かいましたが……」
「どうした? 報告はあったのか?」
「……未だ、誰一人として帰ってきておりません。岬の境界線を越えた直後、消息を絶ったとのことです」
「なんだと……!?」
豪商は息を呑み、椅子に崩れ落ちた。
銅級といえば、地方のギルドにおいて中核を担うベテランたちだ。それが二組も、逃げ帰ることすらできずに全滅したという事実は、相手がただの海魔や野盗の類ではないことを物語っていた。
「……王都に使いを出せ。直ちにだ」
豪商は震える手で羽根ペンを握り、早口で指示を飛ばした。
「このままでは、我が家の……いや、王国の海運に深刻な影響が生じる! 王都の騎士団か、高位の神官、あるいは金等級の冒険者の派遣を要請しろ。……この港街の危機だ。何としても、あの岬の怪異の正体を突き止めろ!」
「はっ! 直ちに手配いたします!」
執事が部屋を飛び出していく。
一人残された豪商は、窓の外、どんよりと曇った水平線の向こう――「深淵の岬」の方角を忌々しげに睨みつけた。
彼はまだ知らない。
港町を揺るがすその『怪異』の正体が、自分が世間体を気にして泥に突き落とした、あの美しく清らかだった少女の成れの果てであることを。
彼女の流した絶望の涙が、海を呪いで満たし、彼が最も愛する「富と名誉」をこれから容赦なく削り取っていくことを。
因果応報の歯車が、狂った歌声と共に回り始めていた。
――「深淵の岬」の監視塔。月明かりさえも不気味に屈折させる濃霧の中、司祭と幹部は、眼下に広がる漆黒の海を見下ろしていた。そこには、数時間前に到着したはずの調査艇が、波間に揺れる無残な残骸となって浮いている。
「――報告いたします。セイレーンの歌により、航路は完全に封鎖されました。もはや一隻の小舟たりとも、この岬を越えることは叶いません」
教団幹部が、手元の魔水晶に記録された映像を確認し、冷淡な嘲笑を漏らした。
「昨夜、ギルドが秘密裏に派遣した調査用の冒険者一党も、岬の境界線に触れた途端に発狂。全員が互いを敵と誤認し、互いの喉を掻き切り合って全滅しました。……クク、銅等級如きでは、かませ犬にすらなりませんな」
幹部は、岩場に転がる冒険者たちの死体を双眼鏡で眺め、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「精神の器が小さすぎて、歌を数節聴かせただけで自壊してしまう。デモンストレーションとしては、いささか『質』が低すぎますぞ、閣下」
「クク……。案ずるな。本番はこれからだよ」
司祭は、塔の最上階から遠く輝く港街の灯を見つめた。
「流石に港町の連中も、この『不気味な静寂』に気づき始めている。……富に目が眩んだ豪商も、名誉を重んじる騎士共も。自分たちの生命線が、目に見えぬ旋律によって断たれたと知った時、彼らはどのような顔をするかな?」
司祭の指先が、セイレーンの喉に刻まれた術式の核をなぞる。
「さあ、はじめようか。セイレーン。……お前を捨て、お前を汚物と呼んだ者たちが、救いを求めてこの海に沈む……。南海を恐怖に沈める演奏会の、幕開けだ」
司祭が指を鳴らした瞬間、彼女の喉に刻まれた核が不気味に共鳴し、再び海を渡る「死の旋律」が放たれた。
それは、誰も勝つことができず、誰も救われない、一方的な断罪の始まり。
港街の平和な日常が、音を立てて崩れ去るための合図であった。