港街、豪商の邸宅。
かつては富の象徴であった豪華な絨毯には、泥に汚れた伝令の足跡が幾つも残り、主人の焦燥感を物語っていた。
「――どうだ? 王都からの動きはあったか?まさか、まだ『ただの海難事故』などと抜かして静観しているわけではあるまいな!」
豪商は、窓の外で不気味に渦巻く岬の霧を睨みつけながら、背後の執事へ問いかけた。その手は、震えを隠すようにガタガタと椅子の肘掛けを叩いている。
「……至高神の神殿より高位聖職者の調査団、そしてその護衛として、近衛騎士団から一個中隊が派遣されました。既に、彼らは調査のために深淵の岬へと向かっております」
「ふん。あの冒険者上がりの若造も、ようやく事態の深刻さを理解したか。我が家の海運が死ねば、王都に流れる税も枯渇するというのに、腰が重すぎるわ」
豪商は、机の上に広げられた莫大な損失額を記した帳簿を叩きつけた。
「一刻も早くあの怪異の正体を突き止め、排除させろ。我が家の損失は、もはや計り知れんのだ。魔物だろうが呪いだろうが、王国の威信にかけて叩き潰せと伝えろ」
「……ただ、旦那様。一つ、気になる報告が上がっております」
執事の表情が、これまでにないほど暗く沈んだ
「調査団に同行している法術師によれば……岬から漂ってくる魔力の質が、これまでに類を見ないほどに『悲痛』であると……。それは冷酷な殺意というより、魂を削り取って流される『涙』に近い波形だそうです。何らかの、極めて強力な……この世のものとは思えぬ深い怨念が関与している可能性が高い、と」
「馬鹿馬鹿しい。死者の泣き言などが、商売の妨げになってたまるか。」
豪商は吐き捨てるように言い、ワインを一気に煽った。
「怨念だの、悲痛だの……そんなものは、食い詰めた詩人の書く三流劇の中だけで十分だ。現実の海を支配するのは、力と金よ。高位聖職者の奇跡があれば、そんな湿っぽい呪いなど一瞬で霧散するだろう」
「……はい」
執事は深く頭を下げ、部屋を去った。
豪商は再び窓の外を見た。そこには自分を恨む「何者か」の視線が、海霧に紛れて刺さっているような錯覚を拭い去ることができなかった。
――南西の港街を見下ろす高台に設営された、王国軍調査隊本部。
降りしきる雨と立ち込める濃霧が、眼下に広がる「深淵の岬」を不気味な巨大な影へと変えていた。テントの中では、魔法灯の青白い光に照らされた重職たちが、地図を囲んで深刻な議論を交わしていた。
「――この怪異、どう見る?」
近衛騎士団中隊長が、重々しく問いかけた。彼の視線の先には、不自然なほど静まり返った岬の影がある。
「……神代の遺物による大結界、もしくは魔神王級の呪詛が発動している可能性が高いかと。物理的な侵入を阻むのではなく、認識そのものを歪めるような、極めて高位の術式です」
法術士が、水晶球に映る乱れた魔力波形を指し示した。その声は、かつてない戦慄に震えている。
「しかし……解せません。これほど強力な魔力でありながら、そこに含まれている情動があまりにも『悲痛』なのです。既存のどの禁忌目録にも該当しない……まるで、世界そのものが咽び泣いているかのような、おぞましい魔導波です」
「理由など後回しで構わん! 早く解決の糸口を見つけろ!」
中隊長が机を叩いた。
「海運の完全封鎖により、王都の物価は以前とは比較にならぬほど高騰している!食糧、燃料、全てが不足し、御前会議では毎日、貴族たちの怒号と責任転嫁が飛び交っているのだ。陛下からも一刻も早い解決を厳命されている。……それなのに」
中隊長は、真っ白なままの偵察記録を睨みつけた。
「……遅すぎる。岬に向かった先遣調査隊が、誰一人として戻らんとは」
近衛騎士団の中隊長は、自身の剣の柄を強く握りしめ、霧に包まれた「深淵の岬」を睨みつけていた。派遣されたのは、百戦錬磨の精鋭たちだ。並の海獣や野盗に遅れを取るはずがない。
その時だった。
本部の重い木扉が、何かに激突するようにして激しく開いた。
「――っ、……は、はぁ……っ!!」
現れたのは、全身が血まみれになった調査隊の伝令兵だった。
だが、その姿に、本部の将校達は息を呑んだ。
伝令の鎧は無数の刃によって切り裂かれていたが、それは魔獣の爪痕ではなく、明らかに「王国軍の剣」による刃傷だった。さらに恐ろしいことに、彼の両耳からは赤黒い血が止めどなく流れ落ちている。
「しっかりしろ! 先遣隊はどうした! 海魔か? それとも未知の古代遺物か!」
中隊長が歩み寄り、血を吐く伝令の身体を抱き起して叫ぶ。
伝令兵は、焦点の合わない虚ろな瞳で空を彷徨わせながら、うわ言のように、けれど必死に唇を動かした。
「……ほ、報告……。怪異の、正体は……海魔でも、古代遺物でも……ありません……」
「何だと? では、何が調査隊を壊滅させたというのだ!」
伝令兵は、自らの喉をかきむしるように痙攣しながら、最期の言葉を絞り出した。
「……歌、です……。恐ろしい……狂気の……歌が……」
その言葉を最後に、伝令兵はガクリと首を落とし、二度と動かなくなった。彼の顔には、死の苦悶とは異なる、幻覚の中で何か恐ろしいものを見つめ続けたような異常な恐怖が張り付いていた。
「……歌を媒介にした呪いだと?」
中隊長は、事切れた伝令兵を静かに横たえ、信じられないものを見るように立ち上がった。
「馬鹿な。たかが歌一つで、歴戦の騎士たちが正気を失い、互いに殺し合ったとでも言うのか? そんな大規模な精神汚染、神話の時代ならいざ知らず……」
「……中隊長。あり得ない話ではありません」
傍らに控えていた法術士が、青ざめた顔で進言する。
「脳が内側から焼かれている……。これは通常の魔術による干渉ではありません。……魔神王は三年前、かの六英雄によって討たれましたが、その残党は未だ多数、各地に潜んでおります。……あの岬を占拠し、海運を封鎖しているのが、よもや奴らの仕業では? 魔神王直属の高位魔導師であれば、これほどの呪詛を広域に展開することも……」
「魔神王の残党か……。もしそうであれば、我々だけでは手に負えん事態だ」
目に見える刃ではなく、耳から魂を侵食する毒。そんな未知の脅威に対し、軍隊という物理的な組織はあまりにも脆い。
「……水の街に使いを送れ!」
中隊長の鋭い号令が、騒然とする本部に響き渡る。
「あそこには、至高神の最高位であられる大司教様――かつて魔神王の呪いと戦い抜いた、六英雄のお一人がおられる! このような呪詛の正体、大司教様なら何かご存知かもしれん。……一刻を争うぞ。王都へ報告を上げる前に、まずは大司教様の知恵を請うのだ!」
「はっ! 直ちに早馬を放ちます!」
夜の闇を裂き、一騎の早馬が水の街を目指して走り出した。
――深淵の岬、監視塔の最上階。
そこは、眼下で繰り広げられる地獄を特等席で観賞するための観測室となっていた。魔水晶に映し出されるのは、命からがら逃げ延び、港街の作戦本部へと転がり込んだ伝令兵の無惨な姿。
「――流石は精神耐性に秀でた近衛騎士団、といったところでしょうか。運良く伝令兵の一人が、致命傷を負いながらも港街に帰還したようですな」
教団幹部が、手元の記録板を叩きながら冷淡に告げた。その瞳には、一人の人間の生存に対する驚きなどなく、ただ「予定通りの結果」を噛みしめるような卑屈な悦びが宿っていた。
「クク……。それでいい。あえて見逃した甲斐があったというものだ」
司祭は、窓の外で不気味に渦巻く霧を見つめ、満足げに喉を鳴らした。
「これで王国軍の連中も、怪異の正体が『歌』であることを知っただろう。……正体不明の恐怖は、輪郭を得ることでより具体的な『絶望』へと変わる。……さて、彼らがその乏しい想像力で、どんな浅知恵を絞ってこの岬を攻略しようとするか……実に、見物だね」
司祭は、部屋の隅で虚空を見つめて佇む少女を振り返った
彼女の喉元は、目に見えるほどの速さで不自然に振動し、そこから放たれる魔力の波形が、塔の石壁をピリピリと震わせ続けていた。
(……やめて。……もう、やめて……ッ!)
セイレーンの心は、内側で血を吐くような叫びを上げていた。
自分の声が、罪のない人たちを狂わせ、殺し合わせている。その罪の重さに、彼女の精神はとっくに限界を迎えていた。
(誰か……殺して。お願いだから、私のこの喉を、今すぐ切り裂いて……!!)
しかし、彼女の願いが現実となることはない。
喉に刻まれた混沌の核――『枷』が、彼女の脳神経を強引に支配し、感情という名の不純物を削ぎ落として、純粋な殺戮の旋律を紡ぎ出させる。
意識は「止めて」と乞うているのに、肉体は「殺せ」と歌い続ける。
「おや、まだ泣いているのかね? 慈悲深いことだ。……だが、その涙もまた、歌に深みを与える最高の触媒になる。……歌いたまえ、セイレーン。お前の絶望が、王国の正義を泥に沈めるその瞬間まで」
司祭の冷たい指先が、彼女の濡れた頬をなぞった。
それに対しても、彼女は拒絶の身振り一つ取ることさえ許されず、ただ、より一層美しく、より一層悍ましい一節を海へと解き放った。
王都が知恵を絞り、次の「犠牲」を準備するまでの間。
岬からは、一人の少女の尊厳を磨り潰して奏でられる死の調べが、絶えることなく響き渡り続けていた。