水の街、至高神の神殿。
香炉から立ち昇る白檀の香りが満ちる最奥の間に、港街から駆け通しで到着した近衛騎士団の伝令兵が、荒い息をつきながら片膝をついていた。
「……歌を媒介にした、精神汚染の呪い、ですか」
報告を聞き終えた剣の乙女は、黄金の天秤の杖を静かに床へ置き、目隠しの下でふぅと悲痛な吐息を漏らした。
「左様でございます、大司教様。……あの岬に近づいた者は皆、幻聴に狂わされて仲間同士で殺し合うか、海へ身を投げる。……魔神王の残党による新種の呪詛ではないかと、騎士団長は危惧しております」
伝令兵が懇願するように見上げる中、剣の乙女は、己の過去の記憶――三年前の地獄の戦場を思い起こしていた。
「……心当たりがあります」
静かな、けれど神殿の空気を凍らせるような大司教の言葉に、伝令兵が息を呑む。
「……三年前、魔神王との戦いの最中。彼の配下にいた、魂の理を弄ぶとある研究者が……一人の高潔な銀等級の聖騎士を混沌の戦士へと造り替えたことがありました」
「何と……!」
「当時、彼が戦場に放った試作品は、裏切られた怒りを漆黒の光弾に変えて放つ恐ろしい魔人でした。……私はその魂を浄化し、彼らの目論見を砕いたはずでしたが……。あの研究者は生きて逃げ延び、再び同じ術式を……いえ、より広域で陰湿な兵器を造り上げたのでしょう」
剣の乙女は、ぎゅっと自分の胸元を握りしめた。
あの男のやり方は、痛いほど理解できている。彼は無から有を生み出さない。必ず、高潔な魂を持つ「人間」を絶望の泥に沈め、その悲鳴を術式の核として利用する。
(……あの時、三ヶ月ほど前に南の海から感じた、あの途方もなく悲痛な「悲鳴」……。あれは、気の所為などではなかったのですね……!)
「……恐らく、今回の素体にされたのは……類稀な歌唱力を持った『歌人』です」
「歌人、ですか?」
「ええ。美しき声を持ち、人々に愛されながらも……人生の絶望の底に突き落とされた方。……美しさの裏に大きな影を持つ者ほど、あのような歪んだ異能の『核』として最高の適合率を示してしまう……」
「そうか……! 芸術の都であるあの港町なら、優れた才を誇る音楽家や歌手が数多くいる……!」
「ええ。その残党たちは、秘密裏に実験を行うための『最適な素体』を、あの街から拉致したのでしょう」
「分かりました! 直ちにあの港町で『行方不明になった、あるいは失踪した歌人や音楽家』を洗い出します。その者の身元が割れれば、攻略の糸口が見つかるかもしれません!」
伝令兵は一礼すると、再び早馬を飛ばすために神殿を駆け出していった。
静まり返った神殿。
剣の乙女は独り、窓の外の青空を見上げながら、祈るように両手を重ねた。
(どうか……これ以上、誰かの「夢」が、地獄の道具として踏みにじられませんように……)
――港街の調査隊本部、深夜。
中隊長は、積み上げられた過去数年分の行方不明者リストを指先で激しく叩いた。
「――三年前の魔神王戦役の終結から、四ヶ月前の紅鮫海賊団壊滅までの間に消息不明となった歌手や吟遊詩人をすべて洗い出せ!あれだけの広域精神汚染を引き起こす兵器だ!素体となる人間は、元から聴く者の魂を揺さぶるような、類まれなる『天賦の才』を持っていたはず。……条件に当てはまる者は、そう多くはないはずだ!」
中隊長の鋭い指示の下、調査隊の聖職者達や騎士団の書記官たちが埃まみれの古い住民台帳やギルドの未解決失踪事件のファイルを次々とめくっていく。
数刻後、一人の若い騎士が、一枚の色褪せた宣伝チラシと、被害者名簿を手に青ざめた顔で中隊長の元へ駆け寄った。
「隊長! ちょうど一年前の記録に、該当する案件があります!」
「……これは」
中隊長が絶句する。そこに記されていたのは、あまりにも痛ましい記録だった。
「……この楽団は、当時王都でも大きな話題になっていた。……数ヶ月前からチケットが完売し、我々も公演を心待ちにしていたほどだ。だが……。確か、巡業中にゴブリンの群れに襲撃され……」
「はい。護衛の冒険者は全滅。楽団員の大半も殺害され、唯一生き残ったのが……」
「……『潮風の歌姫』か」
「その名は、私も聞いたことがあります。美声で港街を活気づけ、次代の王都のスターとまで期待されていた少女……記録によれば彼女は街に戻りましたが、ショックで声を失う失語症を患い……。その後、療養先から忽然と姿を消しています。」
「……まだ確定したわけではないが」
中隊長は、資料の隅に描かれた、かつての彼女の肖像を見つめた。
一点の曇りもない笑顔を浮かべ、世界を幸せにするために歌うと誓っていた少女。
「あの『歌の怪物』と、彼女の才能、そして失踪時期。……可能性は最も高い。」
「隊長、さらにこの記録の裏書きですが……彼女は、この街最大の海運商の跡取り息子の婚約者だったはずです」
「その真相を確かめる必要がある。……海運商の屋敷へ行くぞ。奴が隠している『失踪の経緯』を吐き出させれば、あの岬に潜む怪物の正体も明らかになるはずだ」
中隊長は兜を被り、雨の降りしきる港街へと踏み出した。
――港街で最も豪奢な邸宅。金銀の装飾が施された応接室で、近衛騎士団中隊長は、正面に座る男の放つ傲慢な気配に、不快感を隠せずにいた。
「――何だ? 騎士殿。わざわざ直々に足を運んでくるとは。岬の怪異の正体でも分かったのかね? 我が家の商船の損害をどう補填してくれるのか、その話なら歓迎するが」
豪商は、高価な香木を焚きながら、品定めするような目で中隊長を見た。
「……お聞きしたいことがあり、参りました」
中隊長は、手元の調査資料を机に置く。
「行方不明となっている『潮風の歌姫』……。彼女は、貴殿のご子息の婚約者であらせられたと伺っております」
「…………」
「彼女がゴブリンの巣穴から救出された後、療養所から失踪した経緯について。当時の状況を詳しくお聞かせ願いたい」
豪商は、鼻で笑いながら、手元のワイングラスを揺らした。
「ふん。……あの傷物なら、とっくに婚約を破棄したよ。消息など知らん」
「……なっ!?」
中隊長の背後に控えていた騎士が、思わず絶句の声を上げた。
「何ということを……! 彼女は、貴殿のご子息と将来を誓い合い、街のために尽くしてきた娘ではないですか! 地獄から生還した直後の彼女に、あろうことか破談を突きつけたというのですか!?」
「当然だろう」
豪商の声は、北方の凍土よりも冷淡であった。
「我が一族は、この街の海運を支える名門だ。跡取りの妻となる者には、一点の曇りもない清廉さが求められる。ゴブリンに穢され、あまつさえ『歌』という唯一の価値まで失った女を、なぜ我が家が養い続けねばならんのだ?」
豪商は立ち上がり、窓の外、重苦しく凪いだ海を見下ろした。
「商売の世界ではな、価値のなくなった商品は廃棄するのが鉄則なのだよ。……あれはもう、ただの『壊れた道具』に過ぎなかった。息子には、もっと相応しい、汚れを知らぬ令嬢を宛がってやるのが親の慈悲というものだ」
「…………ッ!!」
騎士は怒りのあまり剣の柄に手をかけたが、中隊長が制止するように片手を挙げる。
「……ご子息は、今どちらに?」
「……あいつか」
豪商は邪魔なゴミでも払うように手を振った。
「あの馬鹿息子め。あんな汚物を探し出すとか何とか言って、一年前、この街を出て行ったきり戻らん。家を捨て、財産を捨て、浮浪者のような真似をしてまで、あの女を追うなど……我が血を引いていながら、救いようのない道楽者だよ」
「……ご協力、感謝いたします」
中隊長はそれ以上何も言わず、感情を排した冷たい礼を一つだけ残した。
踵を返し、執務室の重い扉を押し開ける。
部屋を後にする騎士たちの足音は、怒りとやり場のない悔恨を孕んで、豪邸の静寂に重く、硬く響き渡っていた。
――白亜の豪邸を辞去し、重い鉄の門を潜ったところで、若い騎士は堪えきれずに吐き捨てた。夜風に翻る白銀の外套が、彼の激しい怒りを映すように波打つ。
「……いくら辺境では『よくある話』とは言え、あの豪商の言い種はあんまりです! 自分の家の体面のために、心身を壊された娘をゴミのように放り出すなど……。あのような冷血漢がのうのうと富を貪っていること自体、至高神の正義に反する!」
「――怒りを鎮めろ」
前を行く中隊長が、低く、押し殺した声で制した。だが、その手袋をはめた拳もまた、柄を軋ませるほど強く握りしめられている。
「最早、これは『よくある話』で済まされる事態ではないのだ」
中隊長は足を止め、暗い夜の帳に包まれた港街を見下ろした。
遠く海の方角からは、不穏な風に乗って、微かな潮騒が届いてくる。
「もし、本当にあの歌の怪物の正体が、件の歌姫だとするならば……彼女が抱えている絶望の深さは、我らの想像を遥かに超えている。小鬼に尊厳を蹂躙され、愛した男の家からは『傷物』と罵られて追放されたのだぞ」
中隊長は、自らの首筋を撫でた。戦士としての本能が、最悪の悪寒を告げている。
「それが、大司教様のお話しされていた旧魔神王軍の術によって兵器化されているのだ。絶望の深さがそのまま殺戮の力へと変換されているとすれば、あの岬に渦巻いているのは、一介の魔物などではない」
「対処を誤れば、この港街が消えるだけでは済まんぞ。下手をすれば、三年前の魔神王戦役の時代に……この国全体が逆戻りだ」
「……あの岬が、第二の『死の迷宮』になるということですか」
騎士の問いに、中隊長は深く、深く頷いた。
「そうだ。放置すれば、歌は海を越え、風に乗り、やがて王都にまで死の狂気を届かせるだろう」
中隊長は兜の奥の瞳を鋭く光らせ、夜の街へと歩み出した。
「一刻も早く、あの怪物を操り、絶望を煽っている黒幕の尻尾を掴まねばならん。……娘を怪物に変えたのがゴブリンと人間の悪意だとしても、その引き金を引いた『悪魔』が必ずどこかに潜んでいるはずだ。……ギルドへ急ぐぞ。街の裏に巣食う不穏分子を、根こそぎ洗い出す!」
街の灯りがひとつ、またひとつと消えていく中、二人の騎士の足音が石畳に鋭く響き渡る。
彼らはまだ知らない。
自らが追う「黒幕」が、慈善団体の仮面を被り、すでに街の奥深くまで毒の根を張り巡らせていることを。
そして、その悪魔を討つための時間が、砂時計の砂のように残り僅かであることを。