水の街、至高神の神殿。
差し出された港街からの詳細な調査報告書を読み解いた剣の乙女は、黄金の天秤の杖を握る手を小刻みに震わせていた。
「……何と、惨い。幸福の絶頂から奈落へと突き落とされた歌姫が、声だけでなく、魂まで怪物へと作り替えられてしまうなんて……」
彼女の目隠しの下から、深い悲痛の色が漏れ出す。報告書には、さらに悍ましい事実が記されていた。
「……そして、悲しみと怒りを奪われ、ただ不気味に笑うだけの器にされた娘たち。……魂そのものを解剖するようなこの手口……」
剣の乙女は、かつて死の迷宮で感じた、吐き気を催すほどの悪寒を思い出していた。
「『深淵なる拒絶の教団』……。間違いありません。彼らは、旧魔神王軍の生物兵器研究部門の残党たちですね」
「残党……。やはり、あの『死の迷宮』の生き残りですか」
「はい。三年前、魔神王が倒れた後……迷宮の最下層から忽然と姿を消し、その後の掃討戦でも全く足取りが掴めなかった者たち。……まさか、慈善団体を装って、南西の港町の裏側に潜伏していたなんて」
「港街の放棄された教団拠点で、奴らが遺した魔導音声記録装置が発見されました。……そこに、教団の首領とおぼしき男が、騎士団に向けた直接の『宣戦布告』を残していたのです」
騎士は、忌々しい記憶を振り払うように言葉を濁しながら続けた。
「自らを……『司祭』と名乗る男でした」
「……司祭。やはり彼でしたか。あの方……かつて光の盾と呼ばれ、後に『闇の盾』へと堕とされたあの聖騎士様を、絶望の底に突き落とした科学者ですね」
「大司教様、奴は一体……どのような男なのですか?」
騎士の問いに、剣の乙女は痛切な哀しみを湛えた面持ちで、静かに首を横に振った。
「私たちは三年前の戦いにおいて、直接あの男と対峙したわけではありません。あの男は魔神将のように前線で武勇を誇ることはなく、常に安全な影の奥深くに潜み、自らの実験結果をただ観測するだけの男でした」
彼女は、三年前の死の迷宮で自ら浄化した、哀しき魔人の姿を思い起こすように目を伏せた。
「しかし……彼の残した『作品』を見れば、その異常性は嫌というほど理解できました。……あの男は、絶望こそが、魂の到達すべき『真理』だと信じて疑わないのです」
「真理……ですか?」
「ええ。至高神への信仰も、仲間との絆も、命を懸けた正義でさえも……過酷な絶望と恥辱の前には剥がれ落ちる、ただの脆い『メッキ』に過ぎないと、あの男は考えています。人の心が最も残酷に壊れた瞬間こそが、魂が真の力を解き放つ『美しき境地』なのだと……」
「奴は何を企んでいるのですか? 魔神王が倒されて三年、いまだ各地で蠢く残党を束ね……主の仇討ちでも企てていると?」
「いいえ」
剣の乙女は、即座に、そして確信を込めて否定した。
「あの男には、魔神王への忠誠心など欠片もありはしません。……あの男にとって、魔神王の軍勢も、混沌の神々の意図さえも、己の異常な研究を進めるための『都合の良い環境』に過ぎなかったのですから」
「あの男が真に求めているのは、復讐でも世界の支配でもありません。……『光の側にある希望が、いかに無力で、いかに欺瞞に満ちているか』を証明すること。……それだけのために、あの子の歌声を奪い、いま再び、世界に悪夢を突きつけようとしているのです」
神殿を満たす、底知れぬ静寂。
騎士は、自分たちが相手にしているのが、武力や数で計れる魔物ではなく、人の善意そのものを毒餌に変える「純粋な悪意」であることを悟り、戦慄を禁じ得なかった。
(……おかしいです。あまりにも、不自然すぎる)
彼女の心に、冷たい氷の刃が突き立てられたような直感が走る。
(彼らほどの魔導技術があれば、素材にするのは腕利きの冒険者でも、屈強な騎士でもよかったはず。……それなのに、教団が実験の『素材』として執拗に狙っているのは、ゴブリンの犠牲になった無力な少女たちばかり)
なぜ、魔神王の残党が、あれほど強大な術式を操る者たちが、取るに足らないはずの最下級の魔物――ゴブリンの被害者に執着するのか。
その理由に思い至った瞬間、剣の乙女の血の気が一気に引いた。
(まさか……。彼らは、あの男は……私の過去に、気づいて……?)
自分が、かつて小鬼に蹂躙され、いまもなお、その幻影に怯え続けているという事実。
至高神の大司教として、英雄として隠し通してきたその最も脆い『傷跡』を、教団は正確に把握し、嘲笑うかのように「同じ傷を持つ少女たち」を兵器に仕立て上げているのではないか。
「…………ッ」
それは、自分に対する壮大な「当てつけ」であり、精神的な「拷問」。
かつて自分の研究を打ち砕いた聖女への、執念深く、陰湿な復讐の始まり。
「……大司教様? いかがなさいましたか、お顔の色が……」
「……いえ。……なんでもありません」
彼女は必死に呼吸を整え、いつもの穏やかで気品ある「大司教」の仮面を、自らの顔に張り直した。
弱音を吐いてはならない。怯えてはならない。
自分が震えれば、水の街の信仰が揺らぎ、人々の平穏が崩れてしまう。
「……王国軍の首脳陣へ伝えてください。教団の技術は、既存の兵法が通じる相手ではありません。……どうか、慎重に期するよう、と」
自らの恐怖と、世界を脅かす狂気。
剣の乙女の孤独な戦いが、司祭の悪意によって静かに真綿で首を絞められるように始まっていた。
――「光の教団」の拠点がもぬけの殻であり、司祭からの挑発的な宣戦布告を受け取った直後。
近衛騎士団の中隊長は、事態の深刻さと、教団の正体を街の有力者へ共有すべく、再び港街の豪商の邸宅へと足を運んでいた。
「――馬鹿なッ! そんな馬鹿な話があるか!!」
豪商は机を拳で激しく叩き、青筋を立てて唾を飛ばした。
「あの薄汚い、ゴブリンに穢された傷物の小娘が……魔神王の残党に拾われ、国を揺るがす呪いの力を得ただと!? 大司教も、貴様ら近衛騎士団も、揃いも揃って世迷言を口にするなッ!」
「お、落ち着いてください、旦那様……!」
老執事がおずおずと割って入ろうとするが、豪商の激情は収まらない。
その醜態を冷ややかに見つめながら、中隊長は一歩も引かずに告げた。
「残念ながら、事実です。教団の遺留品、魔導波の解析、そして大司教様の看破……すべての証拠が符合しています。恐らく教団は、彼女の『歌』を用いて南西の海運を完全に封鎖し、王国の国力を削ぐと同時に……自らの作り出した兵器の力を、他勢力へ誇示するつもりです」
「ふざけるなッ! 誰の責任だと思っているのだ!」
豪商は顔を真っ赤にして吠えた。自らの「婚約破棄」という非道な決断が、彼女を絶望の淵へ追い詰めたという事実から目を逸らすように、彼はその矛先を無理やり他者へと向けた。
「元はと言えばッ! あの大司教たち『六英雄』が、三年前の戦いでその科学者とやらを討ち漏らしたのが全ての原因ではないか! 英雄気取りの無能どもめ!」
豪商は、仁王立ちする中隊長の胸元へ太い指を突きつけた。
「それに貴様ら王国軍もだ! 一年前にあの街道のゴブリンどもを、楽団が襲われる前に残らず掃討してさえいれば、あの娘が傷物になることも、化け物に成り果てることもなかったはずだ! 税を貪り食っておきながら足元の害獣一匹始末できん無能どもが、いまさら私の前に来て偉そうに能書を垂れるなッ!!」
「…………」
そのあまりにも身勝手な怒号に、背後の若い騎士が剣の柄を強く握りしめた。だが、中隊長は微動だにせず、氷のように冷徹な眼差しで豪商を見据え返した。
「――海運商殿。最早、事態はそのような『誰が悪い』と責任のなすり合いをしている段階ではありません」
中隊長の声は低く、そして重い鉄の塊のように部屋の空気を圧し潰した。
「教団がこのまま研究を進めれば……四方世界は、あの娘の流した涙と同じ数だけの怪物に、食い尽くされることになるぞ」
「な……んだと?」
中隊長は一歩踏み込み、冷酷な現実を突きつけた。
「何しろ、この世界には……ゴブリンの犠牲になり、尊厳を奪われ、社会から見捨てられた娘など、山程いるのだからな」
「…………ッ!!」
豪商の喉が、引き攣ったように鳴った。
痛烈な一言。
自分たちが「よくある話」として切り捨て、見て見ぬ振りをしてきた無数の悲劇。
その一つ一つが、もし全て同じように怪異へと作り替えられたなら、世界に逃げ場などどこにも残されていないのだと、この強欲な商人ですら本能で悟らざるを得なかった。
「……我らは岬へ向かう。これ以上の問答は無用だ」
中隊長は背を向け、執務室を後にした。
残された豪商は、金貨の詰まった金庫の前で、訪れつつある破滅の足音にただ一人、ガタガタと震え続けるしかなかった。
――港街、海防要塞の大会議室。
塩の香りが染み付いた重厚な円卓には、深淵の岬を中心とした海図と、周囲の等高線が描かれた精密な作戦図が広げられていた。集ったのは、王都から派遣された近衛騎士団の幹部、王国海軍の将官、そしてギルドから招集された熟練の冒険者たち。
「――これより、深淵の岬における怪異制圧、並びに教団拠点の攻略作戦の軍議を開始する」
騎士団長が重々しく口火を切った。だが、その声に応じる空気は、決して楽観的なものではなかった。腕を組んだ海軍提督が、険しい眼差しで海図の先端を睨みつける。
「どう攻めるつもりだ、団長殿? 相手はあの南海の覇者、紅鮫海賊団五千を一夜にして海の藻屑に変えた怪物だぞ。我々が束になってかかったところで、同じように海の底へ引きずり込まれるのが関の山ではないか」
提督の懸念はもっともだった。正規軍ですら手を焼いていた大艦隊が、一隻の生存艇すら残さず消滅したのだ。並の魔物や軍勢相手の包囲殲滅論など、端から通用しない。
だが、円卓の一角に控えていた銀等級冒険者が、不敵な笑みを浮かべて短剣の柄を叩いた。
「……確かに、初見ならば全滅も頷ける。あの海賊どもは、何が起きたかも理解できずに同士討ちを始めたのだろうからな」
冒険者は身を乗り出し、岬の塔を指差した。
「だが、ネタは割れた。魔神王の残党だか何だか知らんが、敵の力の正体が判明している以上、対策の立てようはある」
「左様」
騎士団長が力強く頷き、一同を見渡した。
「調査隊の報告により、敵の主たる脅威はただ一つと判明している。……セイレーンと名付けられたあの怪物の武器は『歌』だ。歌声を媒体とし、聴く者の耳から精神を侵食し、狂乱と絶望をもたらす精神汚染呪詛」
騎士団長は自らの耳を指差し、極めて明快に、そして自信に満ちた声で結論を下した。
「――ならば、単純に『聞かなければいい』」
「聞かない……だと?」
「物理的な音波を介して精神を狂わせる術であるならば、その経路を塞げばよい。耳を鉛の詰め物と蝋で固め、防音の兜を被り、互いの合図を手旗と発煙筒に絞れば、あの歌などただの風のざわめきに過ぎん」
「成る程な。音を封じられた歌姫など、ただの無力な小娘だ」
銀等級の冒険者も頷く。
彼らにとって、それは理詰めで導き出された完璧な攻略法に見えていた。目眩ましの光には目隠しを、毒には解毒薬を、そして音による呪詛には耳を塞ぐ。冒険者と軍隊が幾千の魔物を屠ってきた、至極当たり前の「常識」。
だが――。
彼らはまだ知らなかった。
司祭が施した『反転術式』の深淵を。
セイレーンが放つ絶唱が、空気の震えなどという物理現象ではなく、骨を、神経を、そして魂そのものを直接揺さぶる「因果の共鳴」であるということを。