――深淵の岬、監視塔の最上階。
吹き荒れる潮風の中、バルコニーから海と陸を見下ろす教団の幹部たちは、遠く水平線と街道を埋め尽くす「王国の威容」を冷ややかな眼差しで観測していた。
「――早速、我らの『宣戦布告』に対して、過剰なまでのお返事が来たようですな」
教団幹部が、望遠鏡を下ろし、口元に卑劣な笑みを浮かべた。
「南洋艦隊は、既に岬まで数海里の距離まで迫っております。さらに、近衛騎士団の1個大隊が陸路から進軍中。……陸と海から、この塔を挟み撃ちにする作戦ですな」
「……クク。皮肉なものですな」
傍らで術式の安定度を測っていた教団研究員が、鼻で笑いながら言葉を繋いだ。
「あの娘を壊し、その未来を奪ったゴブリンの群れは、記録する価値もない『端の事』として放置しておきながら。……その被害者である彼女が、自分たちの利益を脅かす『怪物』となった途端、殺すためには惜しげもなく軍を動かす。これが彼らの言う『正義』の正体ですか」
「相変わらず、『大いなる滅び』への対応だけは迅速だね。至高神の愚民どもは」
司祭は、塔の欄干に手をかけ、迫りくる艦隊を愛おしそうに見つめました。
「彼らは、目の前の巨大な敵と戦っているつもりなのだろうが……。その実、自分たちが過去に切り捨てた『小さな悲鳴』の集積に飲み込まれに来るのだよ。……これほど滑稽で、これほど美しい因果応報が他にあるかね?」
司祭はグラスを置き、塔の奥、冷たい石床で一人震えている少女――セイレーンへと視線を向けた。
「……さあ。彼らもわざわざ王都から、長い時間をかけてこんな地の果てまでやってきたのだ。長旅でさぞ疲れたことだろう」
司祭の瞳に、残酷な指揮者の光が宿る。
「是非、彼女の『歌』で……彼らを極上の悪夢の中へ、癒やしてあげたまえ」
司祭が指を鳴らすと、セイレーンの歌声に混沌の魔力が上乗せされ、岬一帯の空気が不気味に震え始めた。
潮騒と濃密な海霧が立ち込める荒涼とした岩場に、王国の紋章を掲げた騎士団の軍靴が踏み入ろうとしていた。
しかし、その進軍には、通常の軍隊にあるはずの号令も、士気を鼓舞する軍楽も、進退を告げる角笛の音も一切存在しなかった。
バサッ、バサッ……。
霧の向こうで、色鮮やかな軍旗を握る旗手が、大きく旗を左右に振る。
声を出す代わりに、手旗信号と身振りだけで隊列を制御する、異様極まりない行軍。
(……クソ! 無音の戦いって、これほど不自由なものなのか……!)
兜の顎紐を締め、長剣を抜いた一人の騎士が、耳を塞ぐ重苦しい感覚に内心で悪態をついた。
耳の穴には隙間なく蝋が詰め込まれ、兜の内側には防音の布が幾重にも巻かれている。聴覚を奪われた世界は、まるで冷たい水底を甲冑を着たまま歩いているかのように、平衡感覚すら狂わせていく。
(……けど、こうしなきゃいけないんだ。あの『死の歌』を耳にした瞬間、どんな屈強な戦士も狂気に呑まれて海へ飛び込むっていうんだから……!)
音のない恐怖に怯えながら、互いの肩が触れ合う距離を保とうとする歩兵たち。だが、足音すら聞こえない状況下では、足並みを揃えることすら困難を極めていた。
「…………」
馬上で手旗を見つめる騎士団長が、苦々しく眉をひそめた。声を出せぬため、隣の副官へ手招きし、耳元の布をわずかに浮かせ、押し殺したような囁き声で言葉を交わす。
「……やはり、行軍が乱れているな。これでは、伏兵がいた場合に即座の陣形転換がとれんぞ」
「……仕方ありません、団長」
騎士団将校もまた、小声で応えながら霧の先を油断なく睨みつけた。
「角笛も伝令の声も封じられた状態です。旗手の視界が霧で遮られれば、それだけで前衛と後衛が分断されかねない。……ですが、あの怪物の歌を直接浴びる危険に比べれば、この不自由さなど安い代償です」
「そうだな。……目指すは岬の監視塔だ。耳を塞ぎ、視界だけに頼り、一気に距離を詰めて叩き潰す!」
団長の合図で、再び旗手が鋭く旗を翻した。
無音の鉄の波が、ゆっくりと、しかし確実に、死の旋律が待つ岬の深奥へと進み出る。
――深淵の岬を望む海上。
波しぶきを切り裂いて進むのは、王国海軍が誇る重装ガレオン船を中心とした精鋭艦隊であった。甲板に整列する水兵たちと魔導師たちの顔には、一様に緊迫感が張り付いている。
船首楼に立つ海軍提督は、望遠鏡越しに霧煙る岬の監視塔を鋭く見据えていた。
(……信号旗を用意させろ。風を読み、タイミングを違えるな)
提督は心の中で冷静に秒読みを刻む。陸路からは近衛騎士団の精鋭部隊が、岬の防衛線を突破すべく進軍を開始しているはずだった。
(陸の騎士団の突入に合わせて、一斉に艦砲射撃を叩き込む。……挟撃だ)
提督の思考は、至極まっとうな軍事ドクトリンに基づいていた。
敵が「歌」を操る未知の怪異であるならば、その射程外から粉砕すればよい。
(防音に加え、この海上の遠距離からの砲撃ならば、いかに凶悪な呪詛とて届く道理がない……。音など届かぬ彼方から、塔ごと吹き飛ばしてしまえば終わる話だ)
水兵たちの耳には、あらかじめ防音用の蝋が詰められ、さらに魔導による気流防壁の準備も進められていた。物理的な備えは完璧であると、提督は信じて疑わなかった。
(……全艦、弩砲(バリスタ)の射撃準備を整えさせろ。)
ギチギチと、甲板に固定された巨大な攻城兵器が弦を引き絞る重い音が軋む。
(魔導師は詠唱の準備を。着弾と同時に、火炎と雷撃の集中砲火で更地に変える……)
準備は整った。
信号弾が上がれば、一瞬にして岬は炎の海に呑まれるはずだった。
だが――。
ふと、風が止んだ。
荒れ狂っていたはずの波が、まるで鏡のように平坦になめされ、甲板の上の空気が、不気味なほどに重く沈み込んでいく。
(……何だ? この異様な静けさは……)
提督が眉をひそめた、その瞬間。
耳を塞いでいるはずの彼の脳髄に、水底から直接染み出してくるような、あまりにも甘美で、あまりにも哀しい「吐息」が触れた。
天上の歌姫が奏でる、死の第一楽章が、静かに幕を開けようとしていた。
――「やったぞ! 突入成功だッ!!」
立ち込める海霧の中、石造りの門を蹴破った騎士が歓喜の声を上げた。
目の前には、逃げ惑う黒衣の邪教徒たち。
「やはり耳を塞ぎさえすれば、あの化け物の歌など恐るるに足らん!」
「死ね! 邪教徒共ッ!!」
騎士たちは剣を振り乱し、次々と敵を斬り伏せていった。刃が肉を断ち、血飛沫が舞う。完全な沈黙の中で行われた奇襲、誰もが「勝利」を確信し、昂揚感に酔いしれていた。
――だが。
彼らは気づいていなかった。
自分たちが切り裂いているものが、黒衣の教徒などではなく、同じ王国の白銀の甲冑を纏った戦友の喉笛であることに。
互いに武器を突き立て合い、血みどろになりながら、満面の笑みで「敵を倒した」と叫び合っている狂気の現実に。
耳を塞いだところで無意味だった。
セイレーンの放つ『幻声の哀歌』は、鼓膜ではなく、頭蓋骨を、そして魂そのものを直接震わせる。防音の蝋などすり抜け、彼らの脳内に「都合のいい幻覚」を強制的に見せつけていたのだ。
――後方の騎士団司令部。
高台から望遠鏡で岬の状況を観測していた将校たちの顔から、血の気が一瞬で引いていった。
「ほ、報告ッ!!」
伝令兵が、転がるようにして天幕へ駆け込んでくる。
「馬鹿な……ッ! 兵は皆、防音の処置を施していたはずだ! 耳を完全に塞いでいたのだぞ! なぜ、なぜ同士討ちを始めている!?」
騎士団将校が、望遠鏡を取り落として絶叫した。
レンズの向こうで繰り広げられていたのは、英雄的な突入などではなかった。前衛の兵士たちが互いの首を刎ね合い、あるいは笑いながら自ら断崖絶壁を駆け下り、海へと身を投げていく地獄絵図。
「退却だ! 早く退却の狼煙を上げろッ!!」
騎士団長が青ざめた顔で怒鳴りつける。だが、膝をついた伝令兵は、絶望に震えながら首を横に振るしかなかった。
「無理です! 最早、収拾がつきません!!」
伝令兵の悲鳴が、雨音を切り裂いた。
「狼煙など見えておりません! 奴らは……兵士たちは皆、幻の勝利に酔いしれ、互いを敵と誤認したまま……全滅するまで止まりませんッ!!」
遠く、深淵の岬から、風に乗って響くはずのない「音」が届いてくる。
耳を塞いでいるはずの将校たちの脳髄に直接、美しく、冷たい少女の泣き声のような旋律が、ねっとりと侵入してくる。
物理的な遮断など、魂の絶望の前には紙屑同然。
第一次攻略作戦は、敵の姿を一度も捉えることすら叶わず、自らの血で自らを滅ぼすという最悪の結末を迎えていた。
陸上で騎士団が自らの血に沈んでいたその時。深淵の岬を海上から包囲し、支援砲撃を試みていた王国海軍の艦隊もまた、逃れようのない破滅の炎に包まれていた。
炎上する海軍旗艦、司令甲板。
黒煙と火の粉が吹き荒れる中、甲板は敵の攻撃ではなく、狂乱した乗組員たちの返り血で真っ赤に染まっていた。
「……提督、最早ここまでです。……脱出しましょう」
煤に汚れた船長が、崩れ落ちそうな足取りで指揮官に歩み寄った。
しかし、舵を握りしめたまま呆然と燃え盛る艦隊を見つめる海軍提督は、震える手で首を横に振るばかりであった。
「船を……この船を救わねば……! 国王陛下より下賜された、王国の誇りたる大艦隊なのだぞ……! ここで失えば、海軍の威信は……!!」
「現実を見てください!!」
船長は提督の胸ぐらを掴み、狂気渦巻く甲板を指差して悲痛な怒号を上げた。
「船員は皆、幻の歌に狂って互いを斬り合っています! ここで指揮は取れません!!」
甲板の上では、消火活動に当たるはずの水兵たちが、虚ろな笑みを浮かべながら抜刀し、「魔物がいる」「敵が乗り込んできた」とうわ言を叫びながら、互いの腹を刺し違えていた。海へ逃れようと飛び込んだ者たちも、重い装備に引かれて暗い波間へと沈んでいく。
耳を塞いでも、船底の鉄板を伝い、骨を伝って響き渡る、あの美しくも悍ましい旋律。
『――――――♪』
水平線の向こう、闇にそびえ立つ深淵の岬から、セイレーンの歌声が潮騒に乗って海面を滑り、全ての理性を焼き尽くしていく。
陸を歩む騎士も、海を統べる巨艦も。
人間が積み上げてきた文明の利器のすべてが、一人の少女の「悲痛な拒絶」の前には、ただ自らを焼き尽くす薪に過ぎなかった。