煙と硝煙の匂いが、夜の冷たい潮風に乗ってテラスへと吹き上げていた。
深淵の岬、監視塔の最上階。手すりにすがりつくようにして立ち尽くすセイレーンの瞳には、黒い海に漂う無数の残骸と、いまなお燻り続ける軍艦の炎が映っていた。
「あ……、あ……」
声の出ない喉が、激しく震える。
自分の意図とは無関係に、胸の奥から湧き上がったあの呪いの旋律。それが、何千人もの生きた人間を狂わせ、互いに喉を掻き切らせ、炎の底へと沈めてしまった。
(……私のせいで。……また、私の歌のせいで……)
街の人々を笑顔にしたかったはずの歌声。
それが、いまや海を巨大な墓場へと変える呪詛になっている。
この塔に自分がいる限り、明日も、明後日も、新たな船が沈み、新たな誰かの家族が波間に消えていく。
(……このままじゃ……この海は、永遠に……)
彼女は、震える足でテラスの手すりに足をかけた。
これ以上、誰かを殺したくない。
これ以上、あんな悍ましい死の合唱を響かせたくない。
自分が消えれば、この呪いは終わる。海に呑まれ、冷たい底へ沈んでしまえば、全てを清算できるはずだ――。
彼女は目を閉じ、暗い海へ向かって、自らの身を投げ出そうとした。
だが。
――ズキィィィィィィィィィンッッ!!!
「――――ッ!? が、あ……ッ!!」
心臓を直接握り潰されたかのような激痛が、全身の神経を駆け抜けた。
喉元の混沌の紋章が、焼けるような熱を帯びて激しく脈動する。
司祭が魂の深部に刻み込んだ【死神の枷】。
飛び出そうとした彼女の両足が、まるで石像になったかのようにピタリと硬直した。
前へ倒れようとする慣性すらも、血管を這い回る黒い魔力の糸によって強引に引き戻され、彼女の身体は冷たい石畳の上へと無様に崩れ落ちた。
「は……っ、げほっ……! ぁ……あ……」
激痛に胸をかきむしり、呼吸を乱しながら、彼女は自らの手を見つめた。
飛び降りることすら許されない。
自ら死を選び、呪いを終わらせることすら、司祭が施した術式によって「不利益な行動」として思考の段階で遮断される。
(……死ぬこと……すら、できないの……?)
絶望の涙が、石畳にぽたぽたと落ちていく。
生きている限り、人を殺す歌を奏でさせられる。
逃げ出すことも、贖罪のために命を捨てることすら許されない。
死すら奪われた檻の中で、一人の少女は、ただ膝を抱えて震えることしかできなかった。
壊滅した王国軍の無惨な結末を、司祭と幹部はワインを片手に冷ややかに見下ろしていた。
「――浅はかでしたな。耳を塞いだ程度で、セイレーンの『幻声の哀歌』を攻略できるなどと思い込むとは」
教団幹部が、砕け散った王国軍の軍旗を見下ろして嘲笑う。
「……人間とは、常に魂の痛みを物理の理屈で解決しようとする、哀れな生き物なのだよ」
司祭は、窓枠に肘をつき、楽しげに目を細めた。
「外側の音を塞げば塞ぐほど、自らの内側から湧き上がる絶望の不協和音は大きくなるというのにね。……さて、初手を完璧にすり潰された王国軍だが……次はどう出ると考えるかね?」
「順当に考えれば、ギルド本部に泣きついて金等級の冒険者を投入するか……あるいは、強襲を諦めて兵糧攻めに切り替えるか、でしょうな」
「もっとも、如何なる高位の冒険者であろうと、魂に触れるあの哀歌を防ぐ手立てなどありません。兵糧攻めにしてもこの塔には水も食料も半年分は優に備蓄してあります。補給線を断たれて先に干上がるのは、海運を失った港街の側です」
「……いや」
司祭は静かに首を横に振った。その瞳には、盤面の一歩先を見通す、濁った知性の光が灯っていた。
「もしかすれば……次は、正規の王国軍ではないかもしれないよ」
「……と、仰いますと?」
「各地から、奇特な『義勇兵』たちが集まっているらしい」
「……! 我らの術を掠め取ろうと目論む、裏社会の住人たちですか。あるいは……」
「これだけの戦果を白日の下に晒したのだ。一人の小娘が、一国の艦隊を歌声一つで海の藻屑に変えた……。その甘美な『果実』の噂を聞きつけて、欲に目の眩んだハイエナどもが、手柄や術式の横取りを狙って軍の周りに群がり始める頃合いだろう」
「教団の名を他勢力に知らしめるデモンストレーションのつもりでしたが……いささか、餌が上等すぎて余計なハエを引き寄せてしまったかもしれませんな」
「構わないさ。むしろ――」
司祭は、暗い海の底を見つめ、邪悪な笑みを深めた。
「――むしろ、歓迎だよ。死肉を漁る者たち、己の欲のために他人の絶望に群がる者たち……。彼らが持ち込む醜いエゴイズムこそが、あの子の魂をさらに深く、二度と戻れぬ深淵へと突き落とす、極上の『触媒』となるのだからね」
深淵の岬を望む海岸線、設営されたばかりの王国軍・前線天幕。
吹き込む潮風が、机上の海図を湿らせていた。幕舎内を支配しているのは、敗北の悔しさなどではない。何が起きたのかさえ正確に理解できていない者たちの、底知れぬ戦慄と虚脱感であった。
騎士団長は、自らの血に汚れた手袋を脱ぎ捨てることも忘れ、机上の駒を握りつぶすように震わせていた。
「我が騎士団の一個大隊……一千名。そして海路より進軍した南洋艦隊の主力艦二十隻。……その全てを喪失した」
「……提督は?」
「旗艦と共に海の底だ。遺体すら回収できておらん」
「耳を塞いでも無意味だったというのか……! 蝋を詰め、布を幾重にも巻き、物理的な音を遮断して突入したはずだ! なぜ、なぜ互いの首を切り落とすような同士討ちが起きたのだ!?」
「……どうやら奴の歌は『音』ではないらしい。魂を直接揺らす呪いそのものだ。肉の耳をいくら塞ごうが、魂に耳がある限り防げんのだよ」
将校たちの間に、戦慄と混乱が渦巻く。目に見える敵であれば、どれほど強大な魔獣であろうと剣と盾で抗いようがある。だが、姿も見せぬ相手が放つ「旋律」一つで、精鋭が一瞬にして狂乱し自害する光景は、彼らの軍人としての常識を根底から粉砕していた。
「……団長、強襲は諦め、兵糧攻めに切り替えましょう」
別の将校が、震える指で岬の陸路の根元を指差した。
「岬の周囲に三重の包囲陣を敷き、陸路を完全に封鎖する。水も食糧も尽きれば、塔の中に立て籠もる邪教徒どもとて、いずれ干からびて降伏するしか――」
「――無理だ。今や、制海権は完全に教団が握っている」
騎士団長は、将校の言葉を冷酷に遮った。その眼差しは、窓の外――白波が砕ける暗い海を、絶望と共に射抜いていた。
「海図を見ろ。沖合数里に至るまで、あの岬を中心とした海域全てが、奴の『死の歌』が支配する不可侵の海に変わったのだ。近づく船はことごとく幽霊船に変わり、海軍の生き残りですら、一隻たりとも封鎖線を維持することなどできん」
騎士団長は、力なく拳を机に落とした。
「海から物資が運び込まれれば、陸からの封鎖など何の意味も成さん。先に干からびるのは……この港街の、そして王都の経済の方だ」
誰も反論できなかった。
包囲しているはずの自分たちが、実際には広大な海を背にした怪物に、陸地ごと「包囲されている」という冷厳な事実。
「……怪異ではない。あれは、国を滅ぼすための戦略兵器だ」
制海権を奪われ、正面強襲も兵糧攻めも通用しない。手詰まりの空気が室内を重く押し潰す中、騎士団将校が口火を切った。
「……団長。王都の軍議では、金等級冒険者の一党を出撃させる案が本格的に検討されているとのことです」
「まだ早い」
騎士団長は即座に首を横に振った。
「金等級は国家の抑止力そのものだ。魔神王戦役の爪痕がいまだ癒えぬ今、彼らを投入し、万が一にも失うようなことがあれば、王国の防衛線そのものが瓦解する」
「し、しかし、このままでは……」
将校が言葉を詰まらせた、その時だった。
「――ククク。随分とお困りのようですな、騎士団長閣下」
低く、湿り気を帯びた粘つくような声が、天幕の奥から唐突に響いた。
冷たい風が吹き込み、篝火の炎が一瞬、不吉な紫色の影を落とす。
「なっ……何者だッ!?」
騎士団長が即座に腰の剣の柄に手をかけ、将校たちが抜剣する。
影の中から音もなく這い出てきたのは、ボロボロの灰色のローブを纏い、顔の半分を生気のない包帯で覆った異様な風体の男だった。男の身体からは、香油で誤魔化しきれない防腐液と死臭がかすかに漂っている。
「控えよ! ここを軍の作戦本部と知っての狼藉か!」
警戒を露わにする騎士たちに対し、男は骨張った両手を広げ、恭しげに薄笑いを浮かべてみせた。
「おっと、剣を引いていただきたい。……私は怪しい者ではありませんよ。あの岬の怪異に業を煮やした海運商殿に、大枚を積んで雇われたただの『傭兵』に過ぎません」
「……海運商が雇った傭兵だと? あの男、正規軍を差し置いて民間の術士に手を出したというのか……」
騎士団長は眉をひそめ、露骨な嫌悪感を隠さなかった。至高神を信奉する騎士にとって、死者の気配を纏う術士など不浄そのものである。
だが、男は意に介した様子もなく、嘲笑うように細い目を細めた。
「手段など、目的の前には些細な問題でしょう? 貴方方が二の足を踏んでおられるあの『歌う怪物』の始末……私にお任せあれ。私の兵であれば、いかに甘美な歌とて心を狂わされることはありませんからな……」
男は深々と頭を下げた。その包帯の奥で、濁った瞳が邪悪な歓喜に歪んでいる。
(……ククク。あの類稀なる広域精神汚染を操る娘の死体……手に入れて献上すれば、北の第四呪詛旅団長閣下も、さぞや大喜びなさるはずだ……)
すでに北の影は、王国の足元にまで伸びていた。
少女の悲鳴を利用し、その死骸さえも貪り食おうとするハイエナの如き悪意が、騎士団の足踏みを利用して深淵の岬へと手を伸ばそうとしていた。