潮風が心地よく吹き抜ける港街。
街の広場、噴水のほとりで、歌姫が瞳を輝かせて一通の封書を抱きしめていた。
「――ねえ、聞いて!最終選考会が通ったわ! ついに、王都での初公演が決まったのよ!」
歌姫は、弾むような声で隣に立つ青年に告げた。その歌声は、ただ喋っているだけでさえ旋律のように美しく、通りすがりの人々が思わず足を止めて微笑むほどの魅力に満ちていた。
「本当かい!? おめでとう! 君の努力が報われたんだね。……いや、君の歌声なら当然の結果かな」
商家の嫡男である婚約者は、自分のことのように喜び、彼女の細い手を優しく握った。
「王都の大きな劇場で、君が歌うんだね。……ああ、想像するだけで胸が熱くなるよ。僕も必ず聴きに行く。最前列の席を予約して、君の晴れ姿を目に焼き付けるからね」
「ふふ、ありがとう。貴方がいてくれるなら、私、どんなに緊張しても最高の歌を歌える気がするわ」
歌姫は少し照れたように微笑み、それから遠く、王都がある北の空を優しく見つめた。
「……ねえ。私、今回の公演で、たくさんの人を笑顔にしたい……ようやく平和になったんだもの。ずっと怖い思いをして、戦いに疲れてしまった人たちを……私の歌で、少しでも幸せにしてあげたい。それが、地母神様からこの声を授かった私の、一番の役割だと思うから」
「……君は本当に優しいね。その歌声なら、きっとどんなに傷ついた心も癒やせるはずだよ」
青年の言葉に、彼女は最高に幸せな微笑みを返した。
「ええ。頑張るわ。……王都での公演が終わったら、二人で……」
歌姫は、そこまで言って少し顔を赤らめ、はにかむように言葉を濁した。その瞳には、自分の歌が国中に届く喜びと、それ以上に、愛する人の隣で歩むこれからの人生への期待が溢れていた。
「ああ、分かっているよ」
婚約者は、彼女の細い指をそっと握りしめ、優しく微笑みかけた。
「結婚式は、この港が見渡せる一番高い丘の大聖堂で挙げよう。君のドレスは王都で一番のシルクを、花飾りはこの辺境で一番美しい白蓮を取り寄せる。街中の皆に、僕の自慢の花嫁を見てもらうんだ」
「……そんなに贅沢しなくてもいいわ。私は、貴方が隣にいてくれるだけで……」
「ダメだよ。君はこの街の宝物なんだから。……王都での成功は、僕たちの新しい門出の合図だ。世界で一番幸せな花嫁にするって、地母神様にかけて約束するよ」
青年が懐から取り出したのは、夕陽を反射してきらりと輝く、小さな、けれど意匠の凝った指輪であった。
「……綺麗。……信じられない。私、本当に幸せ者ね……」
彼女は涙ぐみながら、青年の胸に顔を埋めた。
王都での公演。
その後の結婚式。
温かな家庭。
二人の間には、疑いようのない「光」だけが満ちていた。
――邪教団本拠地の最深部。肉の焼ける嫌な臭いと、冷たい魔力の残滓が漂う実験室にて、司祭は失敗作の山を冷淡に眺めていた。
「――実験の進捗はどうかね?」
司祭の問いに、教団研究員が震える手で報告書を差し出した。
「……芳しくありません。そこらの黒曜、白磁等級の女冒険者では、反転術式の負荷に耐えられず、理性を失った『出来損ないの魔人』に成り下がるのが関の山です。閣下の求める『概念を上書きする衝撃』を産むには、魂の器が小さすぎます」
「失礼ながら、閣下」
教団幹部が、影の中から慎重に言葉を重ねる。
「武術や魔術において金等級を狙えるほどの天賦の才を持ちながら、よりによって最弱の魔物たるゴブリンに敗北して絶望した女冒険者……。そんな矛盾した条件を備えた素材など、そうそう見つかるものではありません。あの大司教は、神々の遊戯が生んだ例外中の例外なのです」
「クク……。ならば、冒険者という枠組みに拘ることはなかろう」
司祭は、実験槽のガラスに映る自分の顔を歪ませた。
「冒険者は『戦う覚悟』を少なからず持っている。だが、私が求めているのは、より純粋で、より鋭い『拒絶』なのだ。平和の中で高潔に生き、世界に愛されていた者が、一瞬で奈落に突き落とされる……。その落差こそが、最高の爆薬となる」
「……芸術方面の素材も探らせておりますが、『キャンバス』以降は、まだ適合しそうな者は見つかっておりません」
研究員が焦燥を滲ませて答える。すると、幹部が思い出したように名簿をめくった。
「ですが有望な素材候補は、すでに数名リストアップしております。……最も有力なのは、やはり『潮風の歌姫』と呼ばれているあの娘かと。彼女の魂の輝き、そして周囲からの期待の高さ。反転させた際の出力は、計算上では闇の盾さえ凌駕します」
「……あの娘か」
司祭の口元に、ねっとりとした愉悦が浮かぶ。
「彼女の歌なら、以前潜入した時に一度だけ聞いたことがあるよ。……まさに天使の如く、聴く者の心を洗うような無垢な響きだった。あのような『光』が、絶望の泥に沈んで濁り、世界を呪う不協和音へと変わる瞬間……。クク、想像するだけで胸が躍るな」
「その歌姫ですが、先日行われた王都の公演に向けた最終選考会に通過。近々、楽団と共に港街を出発するとのことです。……しかし、彼女が都合よくゴブリンに襲われ、かつ『適切に壊される』かどうかは……あくまで神々が振るうダイス次第。運任せにございます」
「――ならば、閣下」
研究員が身を乗り出し、冷徹な提案を口にした。
「いっそ、我が教団でゴブリンを飼い慣らし、計画的に彼女の馬車を襲わせてはいかがでしょう? それならば確実に、彼女を我々の望む地獄へと叩き落とせますが」
研究員が効率を求めた「近道」を提案した。だが、その言葉が終わる前に、司祭から放たれた冷気が室内の温度を数度下げた。
「――駄目だ。それでは意味がない」
司祭は、不快そうに杖を床に突いた。
「魔神王や、我らのような上位の知性体の支配下にある小鬼……それはもはや『軍隊』であり、『兵器』だ。そんなものに襲われても、被害者の心に刻まれるのは『強大な敵への恐怖』に過ぎない。それでは『死神』の核にはならんのだよ」
司祭の瞳に、病的な審美眼が宿る。
「私が求めているのは、知性も秩序もなく、ただ卑屈に、執念深く、弱者を辱めることのみに特化した……あの泥のような野生の悪意なのだ。何の理由もなく、何の因果もなく、ただの『油断』と『不運』であらゆる尊厳を奪われる。神に祈っても届かず、ただ獣の哄笑だけが響く暗闇……」
司祭は、調整槽の中で死んでいった実験体を見つめ、残酷な真理を口にした。
「人の手で演出された悲劇など、ただの『事件』だ。だが、野生のゴブリンに踏みにじられるのは、この世界の『理不尽な構造』そのものなのだよ。……世界そのものを拒絶する死神を造るには、世界が生み出した純粋な不浄による、純粋な絶望が必要なのだ」
「…………」
研究員たちは、司祭の徹底した「絶望へのこだわり」に、改めて戦慄した。
「観測を続けたまえ。神が、あるいは世界が、勝手に高潔な魂を壊すその瞬間を。……熟した絶望を収穫することこそが、我ら『深淵なる拒絶の教団』の唯一の役割なのだからな」