『ゴブリンスレイヤー』外伝【幻声哀歌編】   作:いっかず

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第38話:悪魔の契約

近衛騎士団の中隊長が一歩前へ踏み出し、抜き身の短剣の切っ先を男の喉元へ突きつけた。その鋭い眼光は、男の指先に刻まれた黒ずんだ紋章を射抜いていた。

「……控えろ。……貴様、死霊術師(ネクロマンサー)だな」

 

張り詰めた空気が天幕を裂く。

死霊術は命への冒涜であり、王国法でも死罪に値する絶対の禁忌。衛兵たちの顔に、更なる戦慄と嫌悪が走る。

だが、その切っ先を向けられてもなお、男の口元は歪んだ笑みを崩さなかった。

そ

「おや、流石は近衛の騎士殿、目ざとい。……ですがね、背に腹は変えられぬはずだ」

 

男は、嘲弄を込めて血濡れの報告書を顎でしゃくった。

「あの娘の歌は、生者の脳を……魂の隙間を直接揺るがし、自滅へと誘う呪い。生身の兵士がどれほど耳を塞ごうと、心臓が動き、恐怖を感じる『生者』である限り、あの死の旋律からは逃れられません」

 

男の指先から、黒い魔力の燐光が揺らめいた。

「ですが……私の術ならば話は別だ。心臓も動かず、脳も持たず、恐怖も絶望も感じぬ『死者』の軍勢に、精神を狂わせる歌などただの風の音に過ぎぬ。……毒を以て毒を制す。これ以上の妙策はないと思いますがねぇ?」

 

「…………ッ!!」

 

正義が砕かれた天幕に、禁忌の甘言が染み渡っていく。

騎士団長の手が、微かに震えていた。

 

「……確かに、既に生命活動が停止しているアンデッドならば、生者の精神を侵す死の歌も通じぬかもしれん」

 

「だが、貴様のような闇の住人が『善意』でこの国のために立ち上がっただと? 戯言を抜かすな」

 

騎士団長は、卓上の海図に両手をつき、冷え切った眼光で目の前の怪人を射抜いた。

「狙いは、あの怪物……セイレーンの死体だな」

 

「ククク……」

死霊術師は、痛いところを突かれたというよりも、むしろ話が早くて助かると言わんばかりに下卑た笑い声を漏らした。その態度に、騎士団将校が剣を抜き放ち、怒号を上げる。

 

「ふざけるなッ! 貴様にあの怪物の死体を渡せば、それをアンデッドとして再利用する気だろう! それでは教団を倒したとしても、今度は貴様ら死霊術師がその力を手にするということではないか! 何の解決にもならん!」

 

「悪い取引ではありますまい?」

死霊術師は、向けられた刃を気にも留めず、芝居がかった手振りで答えた。

 

「我々が欲しいのは、あくまで良質な『器』のみ。あの忌まわしい歌声で海運を封鎖し、王国を敵に回してまで居座り続けるような、教団のような真似をする気は毛頭ありませんよ。……それに、あの司祭のような新参の狂人がこれ以上勢力を拡大するのは、我々にとっても少々『不都合』でしてね。共通の敵を排除できるなら、互いに利益があるはずだ」

 

「詭弁を……! 団長、このような悪魔の取引に応じてはなりませぬ!」

 

「…………」

騎士団長は目を閉じ、脳裏に浮かべた。

第一次作戦で灰燼に帰した二十隻の軍艦。

水底へと沈んでいった千名の部下たちの顔。

王都からの容赦ない叱責。

正義と名誉だけでは、あの岬には一歩も近づけない。

悪魔の手を借りてでも、毒を以て毒を制さねば、この街も、王国軍の威信も完全に死に絶える――その焦燥が、団長の理性を塗り潰していった。

 

「……いいだろう」

団長が目を開いた。その瞳には、もはや高潔な騎士の光はなく、泥を啜る覚悟を決めた冷たい濁りが宿っていた。

 

「第二次攻略作戦の先鋒を、貴様に任せる」

 

「団長ッ!!」

将校が悲鳴のような制止の声を上げるが、団長は冷酷に手を振り、死霊術師へ向けて二本の指を立てた。

 

「――ただし、二つ条件がある」

 

「ほう? 何なりと」

 

「一つ。我ら王国軍の戦死者の遺体は、絶対に貴様の術に使わせん。……名誉ある騎士の骸を、貴様の泥人形にすることだけは断じて許さん」

 

「ええ。骨の折れるお仕事は、森の獣や野盗の死骸で十分に足りますよ」

 

「そして二つ。……セイレーンを仕留めた暁には、その遺体の『喉』は我らに引き渡せ」

団長の声が、凍りつくような殺気を帯びる。

 

「教団の術式を宿した声帯を、完全に焼き尽くし、灰に変える。……あの死の歌は、二度とこの世に響かせてはならんのだ」

 

死霊術師の口端が、三日月のように吊り上がった。

「ええ。構いませんよ」

 

「では、吉報をお待ちください。3日後の朝には、岬は静かになっていることでしょう」

死霊術師は深く、恭しく一礼すると、再び音もなく夜の闇へと溶けていった。

 

「……団長。……我らは、王国騎士としての誇りを捨てるのですか」

将校が膝から崩れ落ち、剣を杖にして顔を伏せる。

騎士団長は答えなかった。ただ、血の滲むような力で拳を握りしめ、自分たちが正義の道を外れた事実を噛み締めていた。

 

騎士団の天幕を辞した死霊術師は、月光の届かぬ暗がりで、死者の頭蓋骨を削り出した魔導通信器に濁った魔力を注ぎ込んでいた。

緑色の燐光が灯り、頭蓋骨の口から、ねっとりとした不快な声が漏れ出す。

北方軍第二師団・第四呪詛旅団長である。

『――私だ。南の進捗はどうなっている、工作員よ』

 

「……ククク。旅団長。騎士団との交渉は、全てこちらの筋書き通りにまとまりましたぞ」

死霊術師は、骨張った指先で通信器を撫でながら、卑屈な笑みを浮かべた。

 

「海軍と騎士の主力部隊を失い、完全に手詰まりとなった奴らは、藁にもすがる思いで我らの甘言に飛びつきました。……第二次攻略作戦の先鋒は、この私に一任される手筈にございます」

 

『ふん。それは結構なことだが……』

頭蓋骨の奥から、旅団長の冷え切った、不機嫌そうな声が返ってきた。

 

『……貴様はつくづく交渉が下手だな。……騎士団長との約束で、あの歌姫の「喉」を連中に引き渡すなどと、よくもまあ呑気に承諾したものだ。あの娘の価値は、人を狂わせるあの死の歌声にある。一番肝心な喉を回収できなくては、何の意味もないではないか』

 

旅団長の語気には、成果物を損なわれたことへの苛立ちが滲んでいた。

しかし、現地の死霊術師は動じることなく、暗闇の中で喉を鳴らして笑った。

 

「ククク……ご安心ください、旅団長。あの騎士どもは、歌というものを『喉』で鳴らすものだと信じ込んでいる単細胞に過ぎません」

死霊術師は、自らのこめかみを骨の指先でコツコツと叩いた。

 

「司祭の手法はすでに調査済みです。あの術式の本質は、声帯などという表面的な肉片にはありません。……脳、脊髄、そして魂の記憶に直結する『神経中枢』……。それさえ無傷で回収できれば、何の問題もないのです」

 

『…………ほう』

 

「神経中枢さえ我が手に収まれば、別の死体に移植するもよし、死霊の触媒として埋め込むもよし。……あの死の旋律は、幾千、幾万のアンデッドの口から、より凶悪な合唱として幾度でも再現できますよ」

頭蓋骨の奥で、旅団長が心底満足そうに息を吐き出す気配が伝わってきた。

 

『……なるほど。相変わらず、死体の扱いに関しては悪知恵が回るな。良いだろう、その言葉を信じる』

 

「はっ。……ただ、一つ懸念が。騎士団の手前、王国軍の戦死者の死体は使えませんので、塔へ突入させるための代わりの『素材』が必要となりますが……」

 

『心配するな』

旅団長の冷酷な断言が、紫の光を揺らした。

 

『西の前線から調達した死体を手配してある。頑丈な山岳部族や巨体を持つ獣人の骸だ。生前の剛力をそのまま残した動く屍が、間もなくそちらに届く手筈になっている』

 

「ククク……重畳にございます。これで、騎士団の目を欺きつつ、安全にあの娘を解体できますな」

 

『しくじるなよ。……回収したセイレーンの素体は、直ちに北へ運べ。司令部には内密だ。……あれを手に入れれば、我が第四呪詛旅団は北方軍の頂点に立てるのだからな』

 

「御意に」

 

水晶の光が途絶え、死霊術師は暗闇の中で深く息を吸い込んだ。

騎士団の誇りも、死者の尊厳も、すべては自らの栄達のための踏み台。

男が満足げに洞穴を後にし、夜露に濡れる岩陰へと踏み出した、まさにその瞬間――

 

何の音も、風の揺らぎすらもなく、男の頸動脈のすぐ真横に「刃」の冷たさが現出した。

 

「…………っ!?」

 

死霊術師の身体が凍りつく。

 

気配も、熱も、殺意すらも感じなかった。まるで、最初からそこに在った闇そのものが、鋭利な鋼となって己の首に触れているかのような錯覚。

 

影の中から、感情の削ぎ落とされた静かな声が降ってきた。

 

「――王国の事件には、不干渉のはずだが」

 

死霊術師は冷や汗を流しながら、恐る恐る視線だけを横へ向けた。闇と同化し、実体があるのかすら疑わしい漆黒の外套。第四師団が誇る至高の影――。

 

「……これはこれは、冥王様。相変わらず足音もお立てにならない」

 

刃は退かない。薄皮一枚を切り裂く寸前の冷徹さを保ったまま、冥王は問い詰める。

 

「第四師団の密偵網を介さず、第二師団の死霊術師が単独で王国の街に潜り込み、あまつさえ正規軍の作戦に首を突っ込むとはな。……軍の規律を忘れたか」

 

「くく……ご安心下さい。私はあくまで、王国の危機に駆けつけたただの『義勇兵』……海運商の金に釣られた野良の傭兵に過ぎませんよ。北方軍の関与など、誰にも悟らせはしません」

 

死霊術師は包帯の奥で濁った瞳を細め、弁明するように両手を広げてみせた。

 

「旅団長直々の特別任務です。……現在進行している『西の蛮族共との戦』において、我が軍は未だ消耗戦を強いられている。あの岬にいる歌姫……あれほどの広域殲滅を操る素体を回収し、アンデッドとして戦線に投入できれば、西の戦など一瞬で片が付きますからな」

 

「…………詭弁を」

 

冥王の声が、一段と冷たさを増した。

 

「第四呪詛旅団長が、己の研究欲のために稀少な『死体』を横取りしたいだけなのは明白。貴様らの浅ましい死体漁りは、影から見ていても反吐が出る」

 

「何とでも。手段はどうあれ、我が軍に利をもたらすならば司令部とて文句は言いますまい」

 

「…………」

冥王の気配が、一瞬にして周囲の熱を奪うほどに研ぎ澄まされた。

死霊術師の首筋に、冷や汗が一筋滴り落ちる。

 

「……勝手にしろ」

冥王は短剣を収め、再び闇の帳へとその輪郭を溶け込ませていった。

 

「だが、貴様らの不始末で北に災禍を招くような真似をすれば……その時は、私が貴様の首を刈る」

冷たい風が吹き抜け、路地の闇がゆらりと揺れた。

 

「せいぜい……その自慢の死体袋を、自分の棺桶にせぬことだな」

 

気配が完全に消滅した。

 

死霊術師は首筋をなで、冷たく滲んだ脂汗を拭うと、忌々しげに路地の闇へ唾を吐いた。

 

「ふん……。気取り腐った影野郎め。今に見ろ、あの歌姫の死体を手に入れ、貴様ら第四師団すらも平伏する最強のアンデッドを造り上げてやるわ」

 

男は再びフードを深く被り、岬へ向けて歩み出した。

北の同胞すらも軽蔑する禁忌の業。

それを引っ提げ、男は死の歌声が待つ深淵の岬へと、死体獲りの歩みを進めていくのだった。

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