『ゴブリンスレイヤー』外伝【幻声哀歌編】   作:いっかず

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第39話:第二次深淵の岬攻略作戦

深淵の岬、黒雲が垂れ込める監視塔のテラス。

眼下の海岸線――第一次攻略作戦で戦列艦が炎上した岩礁地帯を望み、教団幹部は観測用の遠視魔導具を覗き込みながら、眉をひそめた。

海霧を裂いて現れたのは、白銀の甲冑を纏った騎士でも、きらびやかな旗を掲げた軍勢でもなかった。

 

「――あれは、アンデッドの軍勢……!?」

 

進軍してくるのは、傷口を雑に縫合され、濁った眼窩に青白い燐光を宿した数百の動く屍。それも、普通の農民や兵士の死骸ではない。身の丈を超える巨躯、鋭い牙と鉤爪を残した、西方の獣人や山岳部族の屈強な骸の群れであった。

 

「……妙ですな。至高神の正義と秩序を掲げる王国軍や冒険者ギルドが、公然と禁忌たる死霊術を用いるなど……」

 

「クク……。なりふり構っていられなくなったのだろうが、それにしても、これだけの数を使役するとなると並の術師ではないね」

 

司祭は欄干に片手を置き、興味深そうに死者たちの整然たる行軍を見つめた。

「意志も呼吸もない数千の筋繊維を、これほど乱れなく統制し、生前の剛力を損なわずに歩かせる……。王国内の野良の術者ごときに、これほどの芸当ができるはずがない」

 

「まさか……。あの『屍肉喰らい共』が?」

幹部がハッと息を呑み、北の空を見上げた。

 

「北方軍第二師団・第四呪詛旅団……! ですが、奴らは今、西の異民族との戦いに主力を貼り付けられているはず。軍令を無視して、このような南の果てまで手を伸ばすなど有り得ますまい。」

 

「有り得るさ」

司祭は冷ややかに笑い、首を横に振る。

 

「第四呪詛旅団長という男はね……。自らの研究欲と、稀少な『死体』への執着のためなら、軍律も、戦友の命も、平然とドブに捨てられる男だよ」

 

「奴は西の前線で調達した素材を横流しし、王国軍の窮地に『義勇兵』と偽って潜り込んだのだろう。王国軍を隠れ蓑にして、あわよくば我がセイレーンの素体を奪い去る腹づもりだ。……実に浅ましく、実にあの男らしい」

 

「……いかがなさいますか、閣下。死霊には生者の心がない。セイレーンの精神汚染が通じぬ相手ですぞ」

 

「案ずるな」

司祭は塔の奥、不安そうに身を縮めるセイレーンへと視線を流した。

 

「死霊術とは所詮、術者と死体を繋ぐ『魔力の糸』に過ぎん。……心なき人形が、セイレーンの調べに耐えられるかどうか……。北のハイエナに、身の程を教えてやるがいい」

 

(……亡くなった人の、軍隊……)

彼女の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。

生者の放つ熱も、生気も、息遣いすらもない。ただ、強制的に動かされている肉の軋みと、魂を縛り上げる黒い魔力の鎖の音だけが、海風に乗って届いてくる。

 

(試験の時の、ゴーレムとは違う……)

彼女の脳裏に、かつて地下演習場でキャンバスが描き出した、あの無機質な岩の人形がよぎる。

あれは、初めから命など宿っていなかった土くれ。だから、存在の核を拒絶し、砂へと還すことができた。

けれど、眼下にいる者たちは違う。

生きていたのだ。

家族を愛し、故郷を守るために戦い、そして傷つき、誰にも看取られずに冷たい異郷の地で死んでいった戦士たち。

その骸が、死してなお安らぎを奪われ、誰かの身勝手な欲望のために、泥濘を歩かされている。

 

(……可哀想に。……とても、痛かったでしょうね。……とても、寒かったでしょうね……)

彼女の喉に刻まれた混沌の核が、不気味に疼き始める。

通常教団の術式は、彼女に「侵入者を狂わせ、引き裂け」と命じている。

しかし、彼女の魂の底から溢れ出してきたのは、敵への殺意ではなく、死者たちへのあまりにも深く、あまりにも純粋な「憐憫」

傷ついた者を、癒やしたい。

泣いている者を、眠らせてあげたい。

あの日、王都の舞台で人々に届けようとしていた、あの歌姫としての最初の願い。

 

彼女は、そっと目を閉じた。

音の出ない唇を、震わせる。

放たれたのは、脳を焼く狂乱の調べではなく、母が幼子を胸に抱いて囁くような、静謐な子守唄。

 

『――――――♪』

 

大気が、海が、澄み渡る白銀の共鳴で満たされていく。

彼女は心の中で、死せる戦士たちの魂へ向けて、たった一言の祈りを手向けた。

 

(……おやすみなさい)

 

(もう、戦わなくていいのよ。……重い武器を捨てて、冷たい呪いから解き放たれて……。どうか、暖かい故郷の空へ……お帰りなさい……)

 

――深淵の岬、黒ずんだ岩礁地帯。

潮風に乗って立ち込める防腐液と死臭の中、死霊術師が骨張った杖を天へと突き上げ、濁った笑声を上げた。

 

「――さあ行け! 西方蛮族共!!」

 

術者の合図と共に、濁った燐光を眼窩に宿した数百の動く屍――かつて西の戦線で命を落とした異民族の戦士たちが、地鳴りのような足音を立てて前進を開始した。生きている兵士のような躊躇も、恐怖も、疲労もなく。ただ命令のままに肉を動かす、死の軍勢。

 

「教団の防壁を叩き潰し、あのセイレーンの死体を我が元へ持ち帰るのだッ!」

 

死霊術師が狂気じみた命令を叫んだ、その刹那。

断崖の頂、監視塔のテラスから、海霧を払うようにして、あの「旋律」が漂ってきた。

 

『――――――♪』

だが、第一次作戦の時に海軍を狂乱へ叩き落とした、あの耳を劈く不協和音ではなかった。

風に乗って届いたのは、どこまでも清らかで、哀しく、傷ついた魂を優しく撫でるような……あまりにも美しい調べ。

 

「ククク……無駄だ!死者には精神を侵食する歌など一切届かん! 鼓膜も脳も死に絶えた骸に、精神汚染が通用するはずが――」

男の嘲りが、突如として凍りついた。

 

「…………な?」

突進していた数百のアンデッドが、塔の目前で、まるで目に見えない糸を断ち切られた操り人形のように、ピタリと一斉に足を止めたのだ。

振り上げられた戦斧が、力なく下ろされる。

敵を引き裂こうとしていた獣人の鋭い爪が、だらりと垂れ下がる。

眼窩で燃え盛っていた死霊術の青黒い燐光が、静かに、柔らかな白銀の光へと変わっていく。

 

「ば、馬鹿な!? 私の術式が……死霊を繋ぎ止めていた魔力の支配糸が、全てほどけていく……!? なぜだ、なぜ死者が歌を聴いておるのだッ!?」

死霊術師が取り乱して杖を振るうが、死者たちはもはや彼の命令など微塵も受け付けない。

彼らにとって、その歌声は「精神を狂わせる呪い」ではない。

異郷の地で命を奪われ、呪いによって泥から引きずり出された戦士たちの無念を、魂の底から包み込み、安らかな眠りへと誘う――絶対の『鎮魂』。

 

後方で戦況を見守っていた騎士団の陣列からも、息を呑む声が漏れた。

「……これは……鎮魂歌か……?」

騎士団長が、兜の奥で呆然と呟いた。

 

先の作戦で1000名の部下の命を奪った死の歌。それが今、この荒涼とした戦場を、まるで神聖な大聖堂の静寂へと塗り替えている。

 

「あのような歌……神殿のミサでも、聴いたことがありません……」

若い騎士団将校は胸の前で知らず知らずのうちに祈りを捧げていた。

 

神官たちが何日も祈りを捧げてようやく成仏させる強力なアンデッドたちが、ただ一筋の調べを浴びただけで、安らかな笑みを浮かべて灰へと還っていく。

 

「あれが……あれが本当に、国を滅ぼす『怪物』の歌声だというのか……?」

将校の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

それは恐怖ではなく、歌声の奥底に秘められた、少女のあまりにも深すぎる「悲哀」に魂を打たれた涙であった。

 

――屈強な異民族の死霊たちが、安らかな光の粒子となって次々と砂へと崩れ落ちていく。数千の死者を操り、岬を踏み荒らすはずだった死の軍勢は、武器を交えることすらなく、ただ静かに消滅していった。

 

塔のテラスでその光景を冷徹に見下ろしていた教団幹部が、手元の魔水晶の数値を確かめ、戦慄と感嘆の混じった声を漏らした。

 

「――驚嘆すべきデータですな。通常の『幻声の哀歌』とは異なり、あの調べは周囲の生者には全くの無害……。精神汚染の毒気すら帯びていません」

幹部は、遠くで呆然と立ち尽くす王国軍の騎士たちを一瞥し、言葉を紡ぐ。

 

「しかし……死霊(アンデッド)に対しては、至高神や地母神の高位聖職者が放つ『神聖魔術』、あるいは最高位の浄化奇跡と同等……いえ、それ以上の昇華作用をもたらしている。死者を縛る怨念と術式の糸を、魂の深部から直接ほどいてみせましたぞ」

 

「ククク……。何も、心を狂わせ、同士討ちをさせるだけが歌ではないのだよ」

司祭は手すりに寄りかかり、満足そうに紫煙を燻らせた。

 

「あの娘の本質はね、どこまでも清らかな『歌姫』なのだ。人々を癒やし、笑顔にし、安らぎを与えたいと願っていた……その高潔な祈りそのものだ。混沌の術式で反転させようとも、魂の芯にあるその『善性』までは完全に消し去ることはできん」

司祭の瞳に、獲物の構造を隅々まで解剖し尽くした科学者の昏い光が宿る。

 

「北の死霊術師は浅はかだったね。『死者には心も脳もないから歌は効かん』などと高を括っていたようだが……。死霊とは、現世への未練と術者の魔力で無理やり繋ぎ止められた、最も苦痛に満ちた存在だ。そこに彼女の『安息の旋律』が触れればどうなるか……考えるまでもなかろう」

司祭は、涙を流しながら、呆然と海を見つめるセイレーンの背中を冷ややかに指差した。

 

「彼女はただ、苦しんでいる死者たちを『救って』あげただけだ。……皮肉なものだと思わないかね? 悪意に満ちた死霊の軍勢を、彼女の最も純粋な『慈悲』が灰へと還してしまったのだから」

 

「……左様で。死霊術師にとっては、これ以上ない天敵であったというわけですな」

 

「さあ、これで北のハイエナの野望も灰燼に帰した。……残された王国軍が、次は何の泥を掴んでくれるか……楽しみに待つとしようじゃないか」

死霊が還り、再び岬を包んだ深い静寂。

自らの歌が持つ「癒やし」の力さえも、ただの防衛兵器として利用されたことを知らぬまま、セイレーンは血の味のする唾を飲み込み、冷たい風に震えていた。

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