戦場となった岩礁から離れた、薄暗い断崖の裂け目。
死霊術師は、冷や汗で全身をびっしょりと濡らしながら、岩壁に背を預けて荒い息を吐き出していた。手にした髑髏の杖は、魔力を使い果たして鈍く濁っている。
「――馬鹿な! 何故だ……何故、混沌の術式によって造られた怪物が、あのような聖女紛いの奇跡を放てるのだ……!?」
自らが誇らしげに率いた西方蛮族のアンデッドたちは、一兵残らず灰となり、ただの砂となって海へと消え去った。
作戦は完全な破綻。それも、騎士団や王国軍に敗れたのではなく、「自分の浅知恵による自滅」という最悪の結末。
「ま、まずいぞ……。俺は表向き、軍籍を離れた『ただの義勇兵』としてここに潜り込んでいるのだ……!」
男の脳裏に、遥か北方に座すあの冷酷極まりない上官――第四呪詛旅団長の顔がよぎった。
「任務に失敗した以上、あの旅団長が俺を庇うはずがない……! 躊躇なく蜥蜴の尻尾切りとして、俺の存在ごと闇に葬るに決まっている……!!」
失敗した者に与えられるのは、死霊術師たちの実験台という名の、死よりも悍ましい末路。
極限の恐怖が、男の保身のタガを完全に外した。
「こうなったら……! 王国軍の連中にすべてを密告してでも、生き延びてやる! 北方軍が裏で糸を引いていたこと、第四呪詛旅団の暗躍、そして軍の機密を王都に売り払って……免責を勝ち取ってやるッ!!」
男が自暴自棄に叫び、王国軍の天幕へ向けて駆け出そうとした――その刹那。
首筋に、冷たい氷柱を押し当てられたような感触が走った。
「――そうはさせんぞ」
「ひっ……!?」
死霊術師の背後の影が、音もなく立ち上がり、一人の男の輪郭を形作った。
黒い隠密装束、虚無を宿した双眸。第四師団最強の暗殺者――冥王。
「言ったはずだ。貴様らの不始末で、北に災禍を招くような真似をすれば……私が貴様の首を刈る、とな」
「お、お待ちを……! お待ちください、冥王様!!」
死霊術師は両手を上げ、歯の根をガタガタと鳴らしながら、命乞いの言葉を吐き散らした。
「わ、私は……私はただ、旅団長の命令に従っただけにございます! 全ては第四呪詛旅団長の独断! 私は単なる使い走りで――」
「見苦しいな」
冥王の声には、怒りすらない。ただ、路傍の小石を蹴飛ばすかのような、絶対的な無機質さ。
「忠誠も、軍律も、誇りも持たぬ者が、己の保身のために背信を重ねる。……貴様のような蛆虫を生かして帰せば、北の同胞数万の血が流れることになるのだ」
「待っ――」
サクッ――。
肉を裂く、あまりにも小さく、乾いた音。
冥王の右手に握られた黒刃の短剣が、死霊術師の喉元を、一寸の狂いもなく横一文字に裂き抜いていた。
ドサリ、と。
泥の中に倒れ伏した死霊術師の死骸を見下ろし、冥王は一度も視線を乱すことなく、手首に巻かれた魔導通信具に指先を触れ、北の第四師団司令部との暗号通信を起動した。
『始末したか』
水晶の奥から、第四師団長の低く落ち着いた声が響いた。
「……はっ。息の根を止めました。王国軍にも教団にも、余計な情報は漏れておりません」
『ご苦労だった。……しかし今回の第四呪詛旅団の先走りで、教団の矛先が我々に向かねばよいがな。……ただでさえ奴らは油断ならぬ狂信者だ。万が一、西の軍と奴らが結べば……我らは背後を突かれ、挟み撃ちに遭うぞ』
「その点については、抜かりなく目を光らせております」
冥王の双眸が、闇の中で冷徹に光った。
「西の軍の工作員も、何人かこの港町に入ってきましたが……。岬に近づき、教団と接触を持つ前に、私の手で静かに処理しております。連中に、教団と手を結ぶ余地など与えません」
『上出来だ。流石は我が師団最強の影だ』
「……師団長。第四呪詛旅団長に、この件で責任を追及することは叶わないのですか? 奴が軍律を破り、密かに南へ工作員を送り込んだのは明白です」
『第二師団長が自ら奴を呼び出し、厳しく問い詰めてはいるが……。あの死霊術師はすでに正式な手続きを経て軍籍を離脱した「義勇兵」であり、使われた死体も西の戦場で打ち捨てられた蛮族の骸……。奴は「軍を抜けた兵が勝手に暴走した」の一点張りでシラを切っている』
第四師団長は、忌々しげに吐き捨てるように言葉を続けた。
『軍法上、奴自身を重罪に問うのは難しいな。明確な命令書の写しでも押収できぬ限り、処刑はおろか更迭すら不可能だ』
「……あの男は、いずれもっと大きな背信をしでかしますよ」
冥王の静かな、けれど痛切な警告。
「己の強欲と研究欲のためなら、部下を平然と使い捨て、戦友の骸すら切り刻む男です。……今回はたかが捨て駒の死で済みましたが、いつか大局の瀬戸際で、あの男は必ず北方軍そのものを後ろから撃つ」
『……分かっている。だがな、冥王よ』
師団長の声が、氷点下の現実を突きつける。
『今はまだ、奴の死霊術が必要なのだ。……西の異民族との戦線は泥沼化している。死者を兵として使い回し、前線を支える第四呪詛旅団の術なくして、我が軍の戦線は維持できん。』
「……軍隊の都合、ですか」
『そうだ。それが戦争だ。……幸いなことに、お前の迅速な処置のおかげで、北方軍の関与は王国には露呈していない。王国の愚鈍共は、いまだに単なる野良の死霊術師が暴発したと思い込んでいる』
師団長は私情を切り捨て、冷酷な任務命令へと戻った。
『引き続き、あの岬と教団の動向を監視せよ。……司祭がセイレーンを使って何をしようとしているのか、その全てを記録しろ。……いいな』
「……御意」
プツリ、と通信が途絶える。
冥王は通信具を下ろし、荒れ狂う暗い海を見つめた。
組織のために心を殺し、汚れ仕事をこなす日々。
だが、その組織そのものが、腐敗した死霊術師を「必要悪」として飲み込み、内側から腐り始めている。
(……この軍も、救いようがないな)
冥王の胸の奥で、北方軍への忠誠の糸が、また一本、音を立てて千切れていく。
暗殺者の影が、再び夜の闇へと溶け込んだ。
死者の声も、生者の欺瞞も、すべてを飲み込む深淵の岬に向かって。
――夜が明け、灰色の朝靄が深淵の岬を包み込む頃。
前線司令部の天幕の前に立ち、砂浜に広がる無数の灰――かつてアンデッドであった異民族たちの残滓を見つめながら、騎士団長は重く息を吐き出した。
「……精神汚染のみならず、死者を浄化する安息の歌まで操るとはな」
団長の声には、戦術的な困惑と、それ以上に一人の人間としての割り切れぬ動揺が混じっていた。
「あれほどの死霊術師が束ねていた怨念の塊を、ただ一筋の調べで天へと還してみせた。至高神の奇跡に勝るとも劣らぬ、あまりにも清らかな『祈り』そのものだった……」
「……ええ。素晴らしい歌でした」
隣に立つ騎士団将校が、目頭を押さえながら沈痛な面持ちで空を仰ぐ。あの絶望的な岬から響いてきた、悲しいほどに優しい子守唄が、今も耳朶に焼き付いて離れない。
「本来なら……彼女は今頃、王都の大劇場で何千人もの民衆から喝采を浴びていたはずなのです。……こんな泥と血の海ではなく、光り輝く舞台の上で、人々を幸せにしていたはずだったのに……なぜ、あのような娘があんな場所で、孤独に歌わねばならんのか……」
「――過ぎたことを嘆いても、始まらん」
騎士団長は自らの感情を強引に断ち切るように、低く鋭い声で遮る。だが、その手袋を握りしめる拳は、微かに震えていた。
「彼女がいかに哀れな少女であろうと、かつてどれほど愛された歌姫であろうと……現実に何千もの命を奪い、王国の海を窒息させている怪物であることに変わりはない。感傷で兵の命は守れんのだ」
「……だが、第一次作戦のような地獄を思えば、今回は我が軍に死傷者が一人も出なかったことだけは、不幸中の幸いと言うべきだろう。」
団長は一度言葉を切り、鋭い視線を天幕の入り口へと向けた。
「して……奴はどうなった? ……作戦終了後、姿を見せぬが」
「……それが」
将校は表情を強張らせ、手元の検視報告書を差し出した。
「昨日、街道脇の岩陰の泥濘の中で……死体となって発見されました」
「何だと……?」
「争った形跡は一切ありませんでした。頸動脈を切られ一瞬で絶命したと見られています。……何者かによる、完璧な暗殺です」
「…………」
騎士団長は息を呑み、報告書を凝視した。
あれほどの規模の死霊を操る手練れの術者が、悲鳴一つ上げることなく、音もなく消された。
「教団の仕業か? 」
「分かりません。ですが、この港街の影には、我らとあの岬の怪物以外にも……『何者か』が潜んでいるとしか思えません」
「闇の者同士の暗闘によるものか。だが、今は捨て置け」
騎士団長は、王家の封蝋が押された金色の書状を掲げた。
「王都から、金等級冒険者の派遣が決定された。……三年前、あの『死の迷宮』の最前線で魔神将どもと刃を交え、勝利をもぎ取ってきた歴戦の英雄たちだ」
「金等級……! 王都も、あの教団を国家の存亡を揺るがす特級の脅威と認めた、ということですね」
「……ああ。正規軍の面目は丸潰れだが、背に腹は代えられん」
騎士団長は自嘲するように口元を歪めた。
第一次作戦では海軍の誇る大艦隊が全滅し、第二次作戦では禁忌の死霊術に頼った挙句に不発に終わった。軍の沽券など、とうに泥の底へと沈んでいる。
「民の命と海運を守れるのであれば、冒険者に頭を下げることなど安いものだ。……死の迷宮を潜り抜けた彼等の『技』と『奇跡』ならば、あの死の旋律を断ち切ってくれるはずだ」
騎士団長は立ち上がり、窓の外――再び霧が立ち込め始めた深淵の岬を睨みつけた。
「金等級の一党が到着次第、直ちに作戦を始動する。……今度こそ、あの悪夢を終わらせるぞ」