水の街、至高神の大神殿。
清冽な運河の水音が静かに反響する回廊で、剣の乙女は手にした黄金の天秤の杖を握りしめ、南西の港街から戻った騎士の報告に耳を傾けていた。
「……あの子の歌が、これ程とは」
目隠しの下から漏れ出たのは、痛切な嘆息。
死霊術師が率いた数千のアンデッド軍団すらも、戦うことなくただ安らかな眠りの中へと解き放ってしまったという「鎮魂歌」。その純粋で哀しい奇跡の報告は、大司教である彼女の胸を鋭く締め付けていた。
「はっ……。先鋒を務めるはずだった死霊術師の敗北、そして不可解な変死を受け、港街に集まっていた怪しげな『義勇兵』どもも、蜘蛛の子を散らすように次々と離れていっております」
「……闇の住人たちすら、手に負えるような相手ではない、ということですね」
剣の乙女は、南西の空――いまなお呪いと悲哀の旋律が渦巻く深淵の岬を、見つめた。
生者を狂わせ、死者を眠らせる歌声。それはもはや邪悪な呪詛という枠すら超え、世界から零れ落ちた「絶望そのものの叫び」へと昇華されてしまっている。
「現在、騎士団本隊は王都から派遣された金等級冒険者の一党を中核とした、新たな攻略作戦の準備に入っております。」
「…………本来なら、私もあの岬に赴きたい所ですが」
剣の乙女の唇が、悔しげに微かに震えた。
同じ傷を抱え、同じ絶望の泥を啜った者として、その歌声を真正面から受け止め、抱きとめてやりたいという痛切な願い。
しかし、騎士は即座に、懇願するように首を横に振った。
「滅相もございません、大司教様。……この国の脅威は、あの教団だけではないのです」
騎士の声には、現実の過酷さが宿っていた。
「魔神王が討たれたとはいえ、各地にはいまだ残党が蠢き、北方の軍勢も不気味な沈黙を保ったまま。この西方辺境の防衛と民の信仰を一身に支える貴方様が街を離れれば、その間隙を突いて更なる破滅が押し寄せかねません」
「…………ええ。分かっています」
剣の乙女は自らの胸頭に手を当て、深く、重い息を吐き出す。
大司教という立場、英雄という名の枷。
守るべきものが大きすぎるがゆえに、目の前で沈んでいく一人の少女へ手を伸ばすことすら許されない――その無力感に、彼女の心は苛まれ続けていた。
「……彼らの力を、信じるしかありませんね」
死の迷宮を潜り抜けた金等級の勇士たち。
それが、あの深淵に囚われた歌姫を救う光となることを、剣の乙女は至高神へ祈るしかなかった。
――南西の港街、騎士団の作戦司令部。
重苦しい敗戦の空気を切り裂くように、天幕を潜って入室してきた四つの影。その身に纏う装備の歴戦の傷跡と、踏みしめる足取りの静けさだけで、周囲の衛兵たちが思わず息を呑み、道をあけた。
王国に数えるほどしか存在しない、人間が到達できる冒険者の頂点――金等級の一党。
「――団長殿」
先頭に立つ筋骨隆々たる虎人の戦士が、太い腕を組んで低く声をかけた。その野性味溢れる双眸は、地図の上に引かれた夥しい敗北の線を冷徹に見据えていた。
「……来てくださったか、金等級の勇士たちよ」
騎士団長は自嘲するように目を伏せ、机に両手をつく。
「恥を晒すようだが、事態は破滅的だ。……独断で死霊術師を作戦に起用した挙句に、一瞬で術式を解かれ、軍の面目も正義も完全に地に堕ちた。私の失策だ」
「いいえ。あの極限の状況なら、私達も同じことを考えたかもしれないわ」
穏やかに、けれど芯のある声で遮ったのは、清浄な法衣を纏った半森人の神官。彼女は至高神の聖印を胸元で弄びながら、団長を責めることなく言葉を継ぐ。
「心臓が止まり、恐怖を感じない死体を使って接近する……。対抗策としては極めて論理的よ。責められるべきは貴方ではなく、その常識すらも易々と上書きしてみせた、あの怪物の異質さだわ」
「まさか、生者の脳を狂わせる『死の歌』のみならず、死者を灰に還す『安息の調べ』まで操るとはな。術の属性が完全に真逆だ。どんな理屈になっていやがる」
背丈ほどもある長柄の戦鎚を担いだ鉱人の戦鎚使いが、髭面を歪めて唸る。
騎士団長は、疲労の滲む顔を上げ、歴戦の英雄たちを真っ直ぐに見据えた。
「……3年前、死の迷宮の最前線で、数多の絶望と戦ってこられた貴殿たちから見て……あの岬は、どう映る?」
問われた只人の大魔道士は、長杖の先を床にトンと突き、深く刻まれた皺の奥から冷酷な現実を告げた。
「……正直なところ。かつての『死の迷宮』の深層と同等……。あるいは、それ以上の魔境と言わざるを得んな」
「迷宮の深層以上、だと……!?」
傍らの騎士団将校が息を呑む。
「あそこはもはや、空間そのものが『歌』という呪いで満たされた絶対領域じゃ。迷宮ならば罠を解除し、魔物を各個撃破して進めるが……あの岬には、一歩足を踏み入れた瞬間に全方位から『死』が浸透してくる。冒険者の常識が通用せん」
「……本来なら、あの六英雄を再結集して挑むべき案件だ」
虎人戦士が、鋭い牙を覗かせて腕を鳴らした。
「魔神王を討ち果たしたあの伝説の六人ならば、あの死の歌すらもねじ伏せられるかもしれん。国難と言うなら、彼らに召集をかけるのが筋だろう」
だが、半森人神官は寂しげに首を横に振る。
「厳しいわ。既に彼らの一党は解散し、各地でそれぞれの道を歩んでいる。何より……大司教様は、いまや西方辺境の防衛の要よ。魔神王が倒れても、混沌の残党や蛮族の脅威は消えていない。万が一にも、あの御方をこんな不確定な死地で失うわけにはいかないわ」
「ならば……俺達でやるしかないな」
戦鎚使いが、好戦的な笑みを浮かべて愛用の鎚を地面に叩きつけた。ドン、と重い地響きが天幕を揺らす。
「魔神王の眷属どもを叩き潰してきた俺たちの力、見せてやろうじゃねえか」
「ああ」
虎人戦士が獰猛に牙を剥き、抜刀した大剣を胸の前に掲げた。
「我等、金等級の名にかけて。……あの悲しき歌姫を止め、その背後に巣食う邪教徒共を一網打尽にしてやろう!」
英雄たちの誓いが、絶望に沈んでいた前線基地に、再び眩い希望の灯火を点した。
――深淵の岬、黒雲が垂れ込める監視塔の作戦司令室。
魔水晶の青白い光が、地図の上に配置された四つの黄金の駒を不気味に照らし出していた。
「――報告。王国軍本営に、金等級冒険者の一党が到着した模様です」
駆け込んできた教団偵察兵が、息を切らせて告げた。その報告を受け、水晶を覗き込んでいた教団幹部の表情に、僅かな緊張が走る。
「……三年前の戦いでは、魔神王配下の魔神将すら討ち取った一党ですな。当時、我らが戦場へ投入した初期の生体兵器も、彼らによって悉く粉砕された苦い記憶があります」
幹部の言葉には、過去の苦杯に対する警戒が滲んでいた。しかし、椅子に深く腰掛けた司祭は、手元のワイングラスを軽く揺らし、嘲弄を込めて口元を歪める。
「クク……。我々が三年前と同じかどうか、今一度、彼らの身を以て確かめさせてあげようじゃないか。」
「……しかし、あの大司教(剣の乙女)を出し惜しみするとは、舐められたものですな」
教団研究員が、不満そうに吐き捨てた。
「自慢の艦隊を沈められ、死霊兵も退けられたというのに、六英雄の筆頭格を動かそうとはしない。王国もギルドも、我が教団を過小評価している証拠です」
「いや、王都の判断としては極めて妥当だよ」
幹部が冷淡に首を横に振る。
「あの女は、西方防衛の要衝である水の街の絶対的な顔役だ。各地にいまだ魔神王の残党が蠢く中、王都の連中が、海運の回復のためにそこまでの大博打を打てるはずがない。万が一、あの大司教をこの岬で失えば、王国の西半分が瓦解するのだからな」
「…………それでいいのだよ」
司祭は静かに立ち上がり、水晶球の中に映る四人の英雄たちを見下ろした。その瞳には、侮蔑でも焦燥でもなく、研ぎ澄まされた狂信的な美学が宿っていた。
「あの女を討つのは……あのような『失敗作』であってはならないのだからね」
司祭の冷徹な一言に、研究員たちが息を呑む。
「ゴブリン一匹に震え上がるような娘の手で、あの聖女を討ち取ったところで、私の求めた『真理の証明』にはならん。……大司教をその偶像ごと叩き折るのは、いずれ手に入れる、恐怖を完全に支配した『真の完成体』でなければならんのだ」
司祭は、塔の最上階で静かに震えるセイレーンの方を指差した。
「金等級など、今のあの子の歌声にとっては、ただの耳障りな雑音に過ぎない。……三年前の英雄たちに、理不尽という名の洗礼を授けてやるがいい」
――港街の前線司令部。薄暗い天幕の中で、作戦の最終確認が行われていた。
広げられた海図と岬の地形図を前に、騎士団長は疲労の滲む顔を上げ、金等級の英雄たちへ向けて重々しく口を開いた。
「――第一次攻略作戦の報告書でお伝えした通り、あの娘の歌は物理的な『音』ではない。耳を塞いでも防ぐことのできない、魂に直接干渉する呪いだ。……生半可な対策では、また同じ轍を踏むことになる」
数千の海兵と騎士を狂気に沈めた、回避不能の魔導波。
その絶望的な報告を受けてなお、金等級の冒険者たちに怯みはなかった。彼らは幾多の死線で、理不尽な死を退けてきた本物の強者たちである。
「ええ、理解しているわ。だからこそ……私が、至高神の『沈黙(サイレンス)』の奇跡を展開する」
半森人神官が、清らかな魔力を帯びた聖杖を静かに掲げた。
「そして、わしが『解呪(ディスペル)』の術を編み上げ、神官殿の奇跡に重ね掛けしよう」
大魔道士が、長い白髭を撫でながら深く頷く。
「……奇跡と魔法の、二重詠唱(デュアル・キャスト)ですか」
騎士団長が息を呑む。性質の異なる術を狂いなく重ね合わせるなど、卓越した技術と互いへの絶対的な信頼がなければ不可能な神業だ。
「そうだ。この合わせ技で、あの娘が歌う前に『声を出すこと』そのものを完全に封じる」
虎人武闘家が、地図上の監視塔を太い指で力強く叩いた。
音を消すのではない。歌という「事象の発生」そのものを、神の法と魔導の理で空間ごと縛り付ける。これこそが、経験豊富な金等級たちが導き出した、対セイレーン用の完璧な「解答」だった。
「詠唱中、二人は完全に無防備になるが……二人は俺たちで守る。何が来ようと、指一本触れさせねえ」
戦鎚使いが、自身の背丈ほどもある大鎚を肩に担ぎ、ニヤリと頼もしく笑った。
「俺たちが術を維持し、怪物を抑え込んでいるその隙に、騎士団は塔に突入し……裏で糸を引いている邪教徒たちを確実に仕留めてくれ。元凶さえ断てば、この呪われた海も終わる」
「…………分かった」
騎士団長は、彼らの揺るぎない自信と高潔な覚悟に触れ、深く頭を下げた。
王国の威信を懸けた、三度目の総力戦。
今回ばかりは、負けるはずがない。彼ら「金等級」という希望の光が、あの忌まわしい不協和音を必ずや払拭してくれるはずだ。
「全軍に布告! 金等級の勇士たちと共に、これより深淵の岬へ進軍するッ!!」
天幕の外で、出撃を待つ騎士たちの鬨の声が上がった。
彼らは信じていた。
論理と奇跡の融合が、狂気を打ち破ることを。