水の街、至高神の大神殿。
清冽な運河を渡る風が神殿の回廊を吹き抜けていましたが、その水音さえも、もたらされた凶報の重苦しさを洗い流すことはできなかった。
「……そうですか。彼らですらも……」
剣の乙女は、手にした黄金の天秤の杖を握りしめ、悲痛な溜息を吐き出した。目隠しの下で、彼女の眉根が深く寄せられていた。
跪いた騎士は、泥と汗にまみれた顔を上げ、震える声で報告を続た。
「はっ……。死の迷宮を踏破した金等級の勇士たちが、完全に連携し、寸分の狂いもなく展開した『沈黙』と『解呪』の二重結界……。それですら、あの歌を止めることは叶いませんでした。部隊は塔に一歩も踏み込めず、互いに刃を向け合い……全滅いたしました」
「…………」
「――単刀直入に聞きます、大司教様」
その瞳には、一国の軍隊を背負う者の、狂おしいほどの焦燥が宿っていた。
「もしも……もしも、かつて魔神王を討った貴方様ご自身がかの岬へ赴いたならば……貴方様ならば、あのセイレーンを倒せますか?」
至高神の愛し子。六英雄の一角。
この四方世界において、奇跡の頂点に君臨する彼女ならば、あの呪いを焼き払うことができるのではないか――それは、追い詰められた王国軍が抱く、最後の淡い幻想であった。
しかし、剣の乙女の答えは、残酷なまでに即座だった。
「――不可能です」
「な……ッ!?」
彼女の声には、謙遜や遠慮など微塵もなかった。ただ、自らの魂の限界を冷徹に見据えた、逃れようのない「真実」だけが告げられたのだ。
「あの子の歌は……かつて私たちが戦った、魔神王が振るった暴力とは全く異なる力です。魔神王は、強大無比な破壊の嵐でした。どれほど巨大であろうと、それは『外側』から降り注ぐ刃。だからこそ、私たちは剣を合わせ、奇跡の盾を重ねて、打ち破ることができた」
剣の乙女は自らの胸頭にそっと手を当てた。その細い指先が、目に見えて震えている。
「けれど、あの子の哀歌は違う。……如何なる奇跡を用いようと、防ぐことは叶いません。あれは、魂の内側……人が心の奥底に隠した『消えない傷跡』に直接触れ、それをかき乱して自壊させる呪いなのですから」
剣の乙女は、かつて小鬼(ゴブリン)に蹂躙され、今なお暗闇に怯え続けている自分自身の魂を、痛切に自覚していた。
もし自分が岬へ立てばどうなるか。
あの子の歌を聴いた瞬間に、大司教としての仮面は剥ぎ取られ、誰よりも無様に、誰よりも凄惨に、小鬼の幻影に狂って自害することになる――その結末を、彼女の「心眼」はあまりにも正確に予見していた。
「……恐らく、白金等級以外では、土俵にすら上がれないでしょう」
「白金等級……!」
「ええ。自らの存在そのものが神々の理を超越し、世界を肯定する絶対の光となり得る者……。それほどの規格外でなければ、あの子の絶望を前にして正気を保つことすら敵いません。……私のような、心に傷を抱えた不完全な英雄では……あの子の前に立つ資格すら、最初から与えられていないのです」
聖女の口から零れ落ちた、決定的な敗北宣言。
至高神の代理人ですら手が出せないという現実は、騎士の心から最後の希望を叩き折るのに十分だった。
「そんな……。では、王国は……我らは、一体どうすれば……」
絶望に打ちひしがれる騎士を見つめながら、剣の乙女はただ、静かに目を伏せた。
――王都、厳戒態勢が敷かれた王城の円卓会議室。
卓上に置かれた魔導通信石からは、先ほど入電したばかりの、信じがたい凶報――金等級冒険者の一党が、監視塔へ指一本触れられず全滅したという現実が、冷え切った呪いのように漂っていた。
「……化け物だ」
赤毛の枢機卿が、机に拳を押し当て、絞り出すように呻きました。かつて魔神王の眷属と命懸けで切り結んできた彼でさえ、その声の震えを隠すことはできなかった。
「死の迷宮で多くの怪物と戦ってきたが、どれも目じゃない。物理的な破壊力や魔力の話ではないのだ……。魔神王よりも、あの娘の方が遥かに恐ろしい」
「ええ。理屈が通じないもの」
影のように壁際に控える銀髪の侍女が、感情を削ぎ落とした声で冷酷な分析を告げる。
「『沈黙』の奇跡で音を消し、『解呪』で術式を抑え、歴戦の騎士が連携して突入した。……それでも、魂の奥底にある『後悔』に直接触れられ、互いに喉を掻き切って終わったわ。恐らく……世界中の軍隊や冒険者をまとめてあの岬にぶつけたところで、塔に触れることすらできずに全滅するでしょうね」
「その通りだ。冒険者も軍も、集団戦が原則なのだからな」
近衛将軍が、悔しげに奥歯を噛み締めた。
「我らは個の力で理をねじ伏せる『白金等級』ではない。徒党を組み、陣形を敷き、互いの背中を預け合わねば戦えんのだ。……だがあの歌は、その集団に対して最悪の相性を持つ。人数が多ければ多いほど、同士討ちの地獄が広がるだけだ。……軍隊というシステムそのものが、あの娘の前では自殺装置へと成り下がる」
将軍の言葉は、国家が持ち得るあらゆる防衛機構の完全な「機能不全」を告げていた。
「…………」
玉座に座る国王は、沈痛な面持ちで自らの両手を組み、重い口を開いた。
「……白金等級以外に、セイレーンを討つことは不可能だろうな」
「だが、十人目の白金等級が現れるのは何時だ!?」
枢機卿が悲鳴のような声を上げた。
「三年前の魔神王戦役でも、待てど暮らせどそのような救世主は現れなかった! 神々は我らの祈りなど聞いてはおられぬのだ!」
「あの時は、大司教たち『六英雄』が死力を尽くして魔神王を討ったが……今回ばかりはそれも叶わん」
近衛将軍が苦渋に満ちた首を振る。
「大司教を動かせば西方辺境が崩壊する。それに……あの大司教とて、あの歌の前に正気を保てる保証はどこにもないのだ」
玉座の間に落ちる、底なしの絶望。
神々の振るうダイスが、人間側に「全滅」という出目しか与えていないかのような、完全なる手詰まり。
しかし、その重苦しい静寂を、国王の鋭い眼光が切り裂いた
「――いや。何かあるはずだ」
国王は立ち上がり、机の上に広げられた「セイレーン」の素体に関するわずかな記録を凝視した。
「あきらめるな。彼女は魔神でも竜でもない。……元は、我々と同じ人間だったのだ」
国王の瞳に、元冒険者としての執念が宿る。
「人間であるならば、必ず心がある。心があるならば、そこには必ず『綻び』や『弱点』が存在するはずだ。……怪異を力でねじ伏せるのではなく、彼女が人間であった頃の記録を、もう一度徹底的に洗え。……必ず、この理不尽を破る『糸口』が眠っているはずだ」
――深淵の岬、監視塔の観測室。
水晶球に映る金等級の英雄たちの無残な亡骸を前に、室内の教団員たちは勝利の熱気に沸き立っていた。
「――三年前にあれだけ手を焼かされた冒険者たちでしたが……セイレーンの歌の前では、全く無力なものでしたな。死の迷宮を踏破した英雄とて、己の心の闇からは逃れられんということだ」
「もはや王国に出せる駒などありますまい」
教団研究員が、手元の羊皮紙を誇らしげに叩きながら言いました。
「軍隊の物量も、死霊術も、そして魔神将を屠った金等級の連携すらも自滅した。……例え、あの六英雄が再び結集したところで結果は同じです。英雄であればあるほど、背負ってきた業の深さに呑まれて自ら命を絶つのみ!」
「クク……全くだな。神々のダイスが気まぐれを起こし、どこぞの村娘を聖剣の主に選び、歴史上『十人目』となる白金等級の救世主でも誕生させない限りは……この盤面をひっくり返すことなど、天地が覆っても有り得ませんよ」
教団幹部が、あり得もしない冗談として肩をすくめて笑う。
「あり得ないとは、言い切れないがね」
静かに口を開いたのは、司祭であった。彼は窓の外、夜の海を見つめたまま、冷徹に言葉を紡ぐ。
「神々の振るうダイスは常に気まぐれで、時に残酷なまでの奇跡を起こす。……だが、少なくとも今この瞬間において、王国軍にセイレーンを力でねじ伏せる手札が存在しないのは確かだ」
「ええ。王国軍があの港街を放棄し、全面撤退を決断するのも時間の問題かと存じます。」
幹部が恭しく頭を下げる。しかし、司祭は窓の外――遠く霞む港街の灯りを指先でなぞりながら、低く呟いた。
「……確かに、正攻法は尽きただろう。だが、彼らがあの『秘密』に気づけば、話は別だ」
「秘密……? セイレーンが、ゴブリンを前にすると恐怖で歌えなくなるという、あの欠陥のことですか?」
幹部は怪訝そうに眉をひそめた。
「まさか。あのような最下層の雑魚共が、あの死の歌に対する切り札になるなど、王国軍もギルドも夢にも思いますまい。正義を掲げる者たちが、小鬼の存在に目を向けるはずがない」
「常識的に考えればそうだろうね」
司祭の瞳に、昏い嘲弄が宿る。
「事実、我々も三年前……あの女(剣の乙女)の弱点に気づかず、彼女の奇跡によって魔神王は敗北した。……強大な者ほど、足元の泥は見えぬものだ」
司祭は、遠く港街の明かりが揺れる方角を指差しました。
「……だが、あの街にはいるのだよ。正義も、騎士道も、神の教えも持たぬ……ただ己の保身と金勘定のためだけに動く、浅ましい男がね」
「……あの、歌姫を捨てた海運商ですか」
「そうだ。あの男は、自分の富を守るためなら、平然と婚約破棄状を突きつけるような下劣な生き物だ。……追い詰められた人間が、生き残るために何に縋り、何を売り飛ばすか。……私には、よく見えるよ」
――南西の港街、豪商の屋敷。
かつて富と権力の象徴であったその執務室は、いまや死を待つ牢獄のように薄暗く、重苦しい空気に満ちていた。
「――ご報告いたします。……騎士団、冒険者共に壊滅いたしました。ギルドが誇る金等級の英雄たちすら、誰一人として生還しておりません」
老齢の執事が、震える声を振り絞って絶望的な戦果を告げた。
その言葉を聞いた瞬間、豪商は血走った目で机の上の高価な陶器を床へ叩きつけた。
「金等級だの死の迷宮の踏破者だのと、大層な肩書ばかり並べおって! たかが小娘一人を仕留めるのに、どれほどの金を積んだと思っているのだ! 一発の矢も射かけられずに自滅するなど、無能にも程があるぞ!!」
「……旦那様。最早、この街を放棄するべきです」
執事の静かな進言。
「あの『セイレーン』は、最早人の手に負える相手ではありません。軍の武力も、神の奇跡も通じぬ理不尽。……命あっての物種です、夜を徹して荷をまとめ、一刻も早く王都へ避難を……」
「逃げろだと? この私が、先祖代々築き上げたこの港を捨てろというのか!?」
豪商は歯を食いしばり、窓の外を見つめた。
港に停泊したまま動かぬ商船、山積みのまま腐りゆく荷、そして紙屑同然となった権利証。
名誉を重んじ、傷物の娘を追い出してまで守ろうとした自分の「帝国」が、すべて水泡に帰そうとしている。その事実が、彼の強欲な自尊心を狂乱の淵へと追い詰めていた。
「嫌だ……。失ってなるものか。私の富を、私の地位を、あんな薄汚い傷物に奪われてたまるか……!」
どうする。海軍は沈んだ。アンデッドも消えた。金等級の魔法も奇跡も通用しなかった。
あの無敵の歌を止める手段など、この世のどこに――。
その時、焦燥の中で喘いでいた彼の動きが、ふと不自然に止まった。
(……傷物?)
彼自身の口から出たその言葉が、恐怖に染まった脳髄に、ある一つの「事実」を鮮烈に呼び起こしたのだ。
あの娘は、なぜ傷物になったのか。
なぜ、声を失うほどに壊れたのか。
「……いや。……肝心な事を忘れていた」
豪商の口元から、怒りがスッと引き、代わりに這いずるような邪悪な笑みが浮かび上がった。
「あるではないか。……あの化け物を、あの忌々しい小娘を殺す方法が」
「……は?」
執事は眉をひそめ、正気を疑うように主を見つめた。
「一体……何を仰っているのですか。英雄たちすら成し得なかった討伐を、どうやって……」
豪商は、血走った目を爛々と輝かせ、まるで最高の商談を思いついたかのように、その短い単語を口にした。
「――ゴブリンだ」
「ゴブリン……? 小鬼、ですか?」
「そうだ! あの娘がなぜ声を失い、この私に婚約を破棄されたか思い出したか! 奴は巡業中に小鬼の群れに襲われ、玩具にされて壊れたのだ! どんな強大な術を操ろうが、奴の魂の根底にあるのは『小鬼への拭い去れぬ恐怖』!」
豪商は、机の上に広げられた周辺の地図――小鬼の巣穴が点在する森を、太い指で叩いた。
「あの悪臭。あの醜い鳴き声。……それらを突きつければ、奴は必ず震え上がり、歌うことすらできなくなるはずだ!」
「な……ッ、旦那様、それは……!」
「行くぞ、執事! 騎士団の天幕へ向かう! あの腑抜けの騎士どもに、この私が真の『勝ち筋』を教えてやるのだ!!」