騎士団の司令部では、撤退と市民の避難に向けた書類の整理が、葬儀のような重苦しさの中で進められていた。
そこへ、豪奢な毛皮の外套を揺らし、息を切らせた豪商が、執事を伴ってずかずかと足を踏み入れてきた。
「……何の用ですかな、海運商殿」
机の上の海図を片付けていた中隊長が、あからさまに不快感を滲ませた声で迎えた。
「ご覧の通り、我々には貴殿の商売の愚痴を聞いている暇などないのだが」
「落ち着いて私の話を聞きたまえ」
豪商は乱暴に机に両手をつき、血走った目をぎらつかせた。
「あの怪物を、確実に倒せる方法を……この私が教えに来てやったのだぞ!」
その言葉に、荷物をまとめていた騎士団将校が嘲るように鼻を鳴らした。
「ふん、そんなものがあるなら苦労せん!騎士も、海軍も、死霊術師も、魔神将を討った金等級の英雄すらも自滅したのだぞ! あの怪物は、最早我々人間がどうこうできる相手ではないのだ!」
将校の悲痛な叫びを、奥に座る騎士団長が静かに制した。
「……将校の言う通りだ、商人殿。王都の御前会議でも話は出ているが、我々はもう教団と戦うのではなく、市民の避難に全力を注ぐべき段階にある。これ以上の無駄な血は流せん」
騎士団長は自らの剣を見つめ、苦渋に満ちた表情で首を横に振りる。軍隊としての敗北を認め、街を捨てる決断を下しかけていたのだ。
「それがあるのだよ、団長殿」
豪商は、周囲の騎士たちを一人ひとり見回し、思わせぶりに声を落とした
「……あの娘が、今あの岬に居座っている根本的な原因は何だ?」
「何……?」
「なぜあの娘は歌えなくなり、なぜ世界を呪う怪物に成り果てた? 貴様らも調査で知っているはずだ。……あの娘の魂を最初にへし折り、地獄へ突き落とした『元凶』の正体をな」
豪商の濁った瞳に、宿ったのは人間としての最低限の良心すら捨て去った者の光であった。
「兵法にも『心を攻むるは上策、城を攻むるは下策』と言うではないか。軍隊すら沈めるあの怪物が、唯一……今でも思い出して震え上がる『恐怖の象徴』。……それをぶつけてやれば、あの歌など一瞬で止まるのだよ」
室内の空気が、凍りついた。
騎士団長も、将校も、中隊長も、その言葉が指し示す「最悪の単語」を察し、背筋に冷たい汗を流した。
「……まさか」
「そう、小鬼(ゴブリン)だ」
「……何を言い出すのかと思ったら」
豪商の口から放たれたその単語に騎士団将校が、心底呆れ果てたように吐き捨てた。
「あの娘は今や、貴殿の知る『傷ついた無力な小鳥』ではないのだぞ! いいか、あの怪物の歌は集団に対して無敵の殺戮能力を持つ!数しか取り柄のないあの雑魚どもなど、最悪の相性ではないか!」
将校は、これまでの凄惨な戦闘記録を机に叩きつけた。
「強靭な精神力を持つ金等級冒険者はおろか、心を持たぬアンデッドすら一蹴した死の歌だぞ! 小鬼どもの腐った脳が、あの精神汚染に一秒たりとも耐えられるとでも思っているのかッ!? 連れて行ったところで、塔の足元に辿り着く前に全滅するのがオチだ!!」
将校の反論は、戦術家として至極真っ当な正論であった。
軍隊を狂わせる広域精神汚染に対し、統率の取れない下等生物を差し向けるなど、火に油を投げ込むような自殺行為に過ぎない。
しかし。
「ククク……。ハハハハッ」
嘲弄に満ちたその嗤いが、天幕の空気を冷たく凍りつかせる。
「それはあくまで……『正常な精神状態で歌えれば』の話だろう?」
「……何だと?」
将校の言葉が止まる。豪商は指を一本立て、ゆっくりと天幕の指揮官たちを見回した。
「あいつらはただの雑魚だ。弱く、醜く、救いようのないゴミだ。……だがな、あの娘にとっては違う」
豪商の瞳に、獲物の急所を正確にえぐる毒針のような光が宿った。
「あの娘にとって、小鬼(ゴブリン)とは己の人生を終わらせた『絶対の悪夢』そのものなのだよ。その悪臭を嗅ぎ、あの下卑た鳴き声を耳にした瞬間……奴の脳裏にはあの日の地獄が蘇り、喉は凍りつき、歌うことなど金輪際できなくなる」
「…………ッ」
天幕の誰もが息を呑んだ。
歌を封じるのではない。
歌い手そのものの精神を、トラウマという名の劇薬で内側から粉砕する。
軍事的な計算を超えた、あまりにも卑劣で、あまりにも確実な『弱点の刺殺』
「歌わせなければ、ただの無力な娘だ。……小鬼ども前に押し出し、恐怖で喉を塞いでしまえば、あとは貴様らの誇る騎士の剣で、無抵抗なあの怪物の首を刎ねるだけで済むのだよ」
「…………」
正論が死に、狂気が「唯一の勝機」として輪郭を結んだ瞬間であった。
至高神の騎士が、世界で最も下劣な魔物に縋る。
豪商が口にしたあまりにも醜悪な策。その底なしの悪意に、中隊長が一歩前へ踏み出した。
「……貴公は、仮にも一度はあの歌姫を『娘』として受け入れる立場だったはずだ」
中隊長の声は低く、しかし骨の髄まで凍りつかせるような侮蔑を孕んでいた。
「息子の妻として迎え、共に食卓を囲み、家族となるはずだった少女だぞ。……小鬼に壊され、声を失った彼女に対し、よくもそのような非道な策を……平然と口にできたものだな」
「――だからこそだよ、中隊長殿」
豪商は、まるで汚物を語るかのような冷酷な声で言い放つ。
「我が一族の清らかな名に泥を塗り、我が街の海運を食い殺す怪物と化したのだ。我が手で……我が家の責任において、あの傷物の息の根を止める義務がある。あれを生かしておくこと自体が、我が家にとって、そしてこの街にとって耐え難い恥辱なのだよ」
「貴様……ッ!」
「第一、今ここで逃げ出したとして、その後はどうなる? 街を放棄し、王都へ逃げ帰ったとして……あの邪教の屑どもが、あの岬だけで満足するとでも思っているのか?」
豪商の血走った目が、騎士団長と将校たちを刺すように巡る。
「奴らは次に、王都へ向けてあの死の歌を放つだけだ。海軍も消え、金等級も全滅した今、王都の城壁などあの歌の前には何の役にも立たん。……それとも何かね? 奇跡が起きて、お伽話の如く白金等級の勇者様が都合よく現れ、奴らを倒してくれるとでも神頼みするつもりかね?」
「…………ッ!!」
「手段を選んでいる余裕など、この国には無いはずだ」
豪商は、自らの優位を確信して傲然と胸を張る。
「小鬼を使うことが外道? 名誉が汚れる? 結構ではないか! 国が滅び、民が死に絶えた後に残る名誉などに、一体何の意味があるというのだ! 泥を掴んででも、あの怪物を殺す。それ以外に、この国が生き残る道など無いのだよ!!」
邪悪な商人の、あまりにも残酷で、あまりにも反論の余地がない「正論」。
正義を誇りとしてきた騎士団の天幕に、倫理の崩壊を告げる冷たい風が吹き込んでいた。
中隊長も将校も、拳を握りしめたまま俯き、誰一人として反論の言葉を見つけ出せずにいた。生き残るために泥を掴むか、名誉と共に滅びるか
その沈黙の底から、騎士団長がゆっくりと、低く重い声で顔を上げた。
「……中隊長」
「はっ」
「港に残存している小型の輸送船を一隻、徴用しろ。乗員は乗せるな」
騎士団長は海図の上、深淵の岬を取り囲む潮の流れを指先でなぞりながら、感情を削ぎ落とした声で命じた。
「……無人船に、近隣で捕縛した小鬼(ゴブリン)の檻を乗せろ。船の舵を深淵の岬の海域に向けて固定し、風と潮の流れに乗せて漂着させるのだ。」
「団長、それは……!」
「偵察兵と法術士は、安全圏の沿岸高台からその推移を厳密に観測せよ。……貴公の言葉を鵜呑みにして、残された兵の命を賭けるわけにはいかんのだ、海運商殿」
団長の鋭い眼光が、豪商の卑屈な笑みを射抜く。
「本当に小鬼(ゴブリン)があの死の歌に効果があるのか、まずはこの目でそれを見極める。……今度の方針は、この実験の結果次第だ。もし小鬼を前にしてもあの歌が止まらんのであれば、貴公の戯言に付き合う義理は毛頭ない。即座に全軍、撤退に移る」
「……クク、結構ですとも」
豪商は、自分の策が受け入れられたことを確信し、満足げに一礼してみせた。
「せいぜい、じっくりとご覧になるといい。あの怪物が、かつて自分を犯した獣どもの前で、どれほど無様に震え、その忌々しい喉を凍りつかせるかをね」
豪商が去った後、天幕には、取り返しのつかない一歩を踏み出してしまった者たちの、息の詰まるような後悔が漂っていた。
それは全軍突入ではなく、ただの一隻の無人船を使った「観測」。
しかし、正義を誇る騎士団が、自らの意思で小鬼という「不浄」を作戦に組み込んだ瞬間であった。
数日後。
潮風に乗って、一隻の小型船が、死の霧が立ち込める深淵の岬へと向かって、ゆっくりと流されていった。