重く湿った潮風が吹き荒れる深淵の岬は、これまでに呑み込んできた幾千の命の怨嗟を沈めるかのように、ただ黒く、冷たく波打っていた。
監視塔のテラス。
冷え切った手すりに額を押し当て、セイレーンは声にならない懺悔を、涙と共に海へ零し続けていた。
(……ごめんなさい。……ごめんなさい……)
自らの意思では死ぬことすら許されず、近づく生者を狂わせ、死者を眠らせ、伝説の海魔さえも自害へと追い込んできた自らの喉。
自分の身体が、司祭の手によって「世界を殺すための楽器」に作り替えられていく恐怖。
(もう、駄目だわ。……私の歌を、あの人たちを止められる人なんて……この世界のどこにもいない……)
海軍も、死霊術師も、死の迷宮を踏破した金等級の英雄たちさえも、自らの歌声の前にはただ自滅していくだけだった。
誰の手も届かない。誰もこの地獄を終わらせられない。
永遠に続く悪夢に魂をすり潰されそうになっていた、その時。
「――おい! 見ろッ!!」
塔の篝火の陰から、見張りの教団警備兵が声を上げた。
「3時の方向より、小型輸送船が一隻、急速に接近中!」
「……こんな時間に船だと? 港街の海運は完全に麻痺しているはずだが」
駆け寄った別の警備兵が、夜霧の向こうに浮かび上がる細いマストを睨みつけた。しかし、近づいてくる船には帆を操作する船員の姿もなく、号令の角笛も聞こえない。ただ不自然に、波のうねりと風に流されるまま、ふらふらと岩礁地帯へ向かって直進していた。
「舵の故障か? クク……神々のダイスに見放された、実に『出目の悪い』船め。こんな死の海域に迷い込んでくるとはな」
警備兵は吐き捨てるように笑い、テラスで蹲る少女の背中を、乱暴に蹴りつけるように怒鳴る。
「おい、セイレーン! 起きろ、仕事だ! いつも通り歌って、あの迷い船を海の底に沈めてしまえッ!!」
「…………っ、……」
少女は身じろぎし、強制される術式の痛みに耐えながら、ゆっくりと立ち上がった。
また、誰かを殺さなければならない。
また、誰かの命を奪わなければならない。
絶望に震える唇を開き、彼女が音なき旋律を海へ放とうとした、まさにその時――。
風に乗って、漂流船から届いた「ある臭い」が。
そして、闇の中から漏れ聞こえてきた、あまりにも悍ましい「微かな笑い声」が。
少女の魂を、文字通り心臓ごと凍りつかせた。
――深淵の岬を一望できる、切り立った崖の上の観測陣地。
海風がビュービューと吹き荒れる中、数名の騎士と法術士が、遠視の魔導レンズを食い入るように覗き込んでいた。
「――間もなく、船が岬の警戒水域へ到達します!」
騎士団偵察兵が、息を呑んで報告する。その表情には、いまだ拭いきれない疑問が浮かんでいた。
「馬鹿げてる……。あんな雑魚が、あの数千の軍勢を呑み込んだ死の歌に通用するなんて、どうしても信じられん。あの小鬼どもも発狂して共食いを始めるのがオチだ……」
海軍の戦列艦を消滅させ、金等級の英雄すらも自害に追い込んだ絶対の怪異。それに、村を襲うのが精一杯の最下級の害獣が効くはずがない――兵士としての常識が、そう叫んでいた。
だが、輸送船が岬の岸壁まであと百メートルを切った、その瞬間であった。
「――っ!?」
観測水晶を抱えていた法術士の息が止まる。水晶の中で脈打っていた紫色の魔力波形が、目に見えて乱れ、急速に縮退を始めたのだ。
「観測値に異常! ……魔導波の出力が、急激に低下しています!!」
「何だと……!?」
「嘘だろ……歌が……弱まっている!? いえ、止まりかけているんだ! 術式の共鳴が乱れ、呪詛が霧散し始めています!!」
――深淵の岬。監視塔。
「何をやっている! さっさと歌わんか!!」
教団警備兵の一人が、一向に幻声の哀歌を放とうとしないセイレーンの背中に怒声を浴びせる。しかし、少女の肩は小刻みに跳ね、大きく見開かれた瞳からは、ポロポロと絶望の涙が溢れ出していた。
「……あ、……あ、あぁ……ッ」
彼女の耳が、そして魂が、風に乗って運ばれてきた「それ」を捉えていた。
波の音に紛れて聞こえてくる、耳障りで、下品で、粘りつくような――。
『GORB! GORB!!』
「……ッ!? なんだ、この鳴き声は……!?」
警備兵たちも、ようやくその異様な気配に気づいた。迷い込んだ民間船から聞こえるような助けを呼ぶ声ではない。獣じみた、おぞましい喧騒。
「あの船、まさか……!」
警備兵の顔色が変わる。教団員である彼らは、この最強の兵器が抱える「たった一つの致命的な弱点」を知っていた。
「サーチライト! 船を照らせッ!! 早くしろ!!」
兵士の怒号と共に、塔に設置された魔導探照灯の強烈な光の筋が、暗い夜の海を切り裂き、漂流する小型輸送船の甲板を白日の下に晒した。
光の中に浮かび上がったのは、甲板に所狭しと積まれた鉄の檻。
そして、その檻の鉄格子を汚れた爪で掴み、光に目を眩ませて下卑た鳴き声を上げる、緑色の醜悪な獣達。
「ゴブリンだ! ゴブリンが乗っているぞ!!」
「馬鹿な……! ゴブリンなんぞを輸送して、一体何の真似だ!? なぜこんな死地に、あんな最下等の害獣を……!」
警備兵たちの間に、かつてない焦燥が走った。
彼らの視界の端で、セイレーンが両手で自らの頭を抱え、床に蹲って過呼吸を起こしている。
あの日、彼女の全てを奪い、夢を壊し、人間としての尊厳を泥に沈めた悪夢。その「不浄」が、いま物理的な距離を詰めて彼女の領域へと入り込んできたのだ。
(いや、こないで……来ないでッ!!)
彼女の喉に刻まれた術式が、完全な恐慌状態によって機能を停止した。
無敵を誇った死の歌が、たった一隻の小舟によって沈黙したのだ。
「考えるのは後だ!」
白目を剥きかけているセイレーンを一瞥した警備兵が、戦慄と共に叫んだ。
「術式が停止している! 歌が完全に止まったぞ!」
「魔導兵を呼べ! 焼き払えッ!!」
――王国軍観測陣地
豪商の言葉は、正しかった。
神話の怪物が、たった十数匹の小鬼の存在に怯え、その忌々しい喉を凍りつかせた。
その戦慄が確信へと変わろうとした、まさに次の瞬間。
――ヒュオオオオオオオオッ!!
監視塔の上層から、突如として夜空を切り裂く紅蓮の光条が放たれた。
「なっ……! 教団の魔導師が――」
偵察兵が叫ぶ間もなく、放たれた巨大な『火球』が無人の実験船に直撃した。
ドォォォォォォォォンッ!!!
轟音と共に小舟が爆散し、木っ端微塵になった檻と小鬼たちの肉片が、炎を撒き散らしながら波間へと沈んでいった。
「……沈められた……。奴ら、小鬼が近づいた途端、躍起になって船ごと焼き払ったぞ……!」
偵察兵は、望遠鏡を持つ手を激しく震わせた。
教団の慌てたような過剰反応。
それは、彼らにとって何より雄弁な「答え合わせ」であった。
「……見られたくなかったんだ。あの娘の、唯一の弱点を……」
法術士が、戦慄と狂気を孕んだ声で呟いた。
「小鬼は効く。確実に効くぞ……! 海運商の言った通りだ! あの娘は、小鬼の存在だけで完全に無力化されるんだ!!」
二人は顔を見合わせ、すぐさま本陣へと駆け出した。
彼らは確信してしまったのだ。
小鬼こそが、あの無敵の怪物を討ち倒すための、天が与えた唯一の「特効薬」であると。
――夜の海を赤く焦がしていた実験船の炎が、波間にジュウと音を立てて鎮火していく。
監視塔のテラスでは、杖の先端から立ち昇る硝煙を払った教団魔導兵が、膝をついて頭を垂れていた。
「――申し訳ありません、閣下。……セイレーンの歌が突如として停止したため、咄嗟に実力行使に出ざるを得ませんでした」
「構わないさ」
司祭は手すりに寄りかかり、海面に漂う燃え殻を眺めながら、感心したように口元を緩めた。
「無人船に小鬼(ゴブリン)を乗せて、潮の流れに乗せて漂着させるとは……考えたね。生贄の配置も、潮の読みも見事なものだ。騎士団にも、少しは知恵の回る男がいたらしい」
「……閣下の懸念された通りですな。あの海運商め……息子が愛した娘の心の傷を、保身のためにあっさりと騎士団へ売り渡しおったか。」
幹部は、遠くの沿岸高台に光る観測用の魔導レンズの反射を睨みつけた。
「これでセイレーンの唯一の弱点が、王国軍に完全に露呈してしまいましたぞ。奴らは、小鬼の存在があの娘の歌を封じる決定打になると確信したはずです」
「はっ……。百や二百のゴブリンなら、我々の術で焼き払って見せますが……」
魔導兵が、不安げに額の汗を拭う。
「奴らがもし、それ以上の小鬼を……千や二千といった規模で一度に投入してきたら、我々だけでは防ぎきれません。歌を封じられ、物理的な数で押し切られれば、この塔はひとたまりもなく……!」
「小鬼の軍事利用など、秩序を重んじる連中が軽々に決められるものではないがな」
幹部が腕を組み、眉をひそめる。至高神を信奉する騎士団が、公然と小鬼を戦力として使うなど、普通であれば考えられない暴挙のはずだ。
だが、司祭の瞳には、人間の「身勝手な弱さ」を見透かした確信の光が宿っていた。
「背に腹は代えられない時、人は容易く倫理を捨てるのだよ。……奴らは必ず、小鬼の軍勢を連れてくる」
司祭は背を向け、冷徹な命令を下した。
「直ちに、王国各地に潜伏している我が教団の拠点へ通達を出したまえ」
「……通達、ですか?」
「王国軍とギルドは、間もなく近隣の山々で大規模な『山狩り』を始めるぞ。国中の小鬼を生け捕りにし、檻に詰め、この岬へ運び込むためにな」
「……! では、あの……」
「ああ。『聖歌隊』の最終公試の予定を繰り上げる」
「……! 御意に!」
幹部たちが深々と一礼し、闇へと散っていく、硝煙の匂いだけが漂うテラスに、再び冷たい夜風が吹き抜けた。
床に散らばった焦げ跡の隅で、セイレーンは自らの両腕を抱きしめ、いまだ止まらぬ激しい震えに身を折っていた。
(……狂ってしまいたい。……気を失ってしまいたい……!)
息ができない。胸が張り裂けそうに苦しい。
あの下卑た小鬼(ゴブリン)の鳴き声が、脳の襞にこびりついて離れない。いっそ正気を失い、何もかも分からなくなってしまえば、この地獄から逃れられるはずなのに。
だが、どれほど恐慌に陥ろうとも、彼女の意識は残酷なほどに冴え渡り、一瞬の失神すら許されなかった。
「安心したまえ、セイレーン。君は何があっても、正気を失うことはない」
「……っ!?」
背後から、吐き気を催すほどに穏やかで、慈愛に満ちた司祭の声が降ってきた。
司祭は彼女の傍らに静かに膝をつき、震える彼女の頭に、まるで父親が愛娘をあやすかのように、そっと冷たい手を添えた。
「死神はね、肉体も精神も、健やかでなくてはならないからね」
司祭は穏やかに微笑み、その毒のような言葉を続けた。
「我が術式はね、魂の核を絶対に『保護』するように組んであるのだ。……恐怖で発狂することも、心が折れて廃人になることも、君には決して起こらない。……どれほど凄惨な悪夢を見ようとも、君の精神は常に明晰に、研ぎ澄まされたまま保たれる」
(……狂うことさえ……許されないの……?)
セイレーンの喉から、掠れた嗚咽が漏れた。
死ぬことも、逃げ出すことも、気が狂って自分を忘れることすらも奪われた肉体。
司祭が施した「健康」とは、あらゆる逃げ道を塞ぎ、絶望の味を最後の一滴まで噛み締めさせるための、永久の拷問部屋であった。
「……怖かったね。あの薄汚い獣の臭いが、君の記憶を刺激してしまったのだろう」
司祭は彼女の肩をそっと抱き起こし、海に向かって視線を向けた。その瞳には、すでに次の惨劇のシナリオが鮮明に描かれていた。
「だが、怯える必要はないよ。……それに、あの薄汚い獣に対する備えも、すでに考えてある」
司祭の口端が、冷酷な弧を描く。
「君が怯える必要はない。……王国軍が意気揚々と小鬼の群れを連れてこの岬へ踏み込んできたその時、彼らは思い知ることになる。……自らが持ち込んだその不浄が、自分たちを骨の髄まで食い尽くす『最悪の絶望』に変わる瞬間をね」
「…………っ、……」
セイレーンは、震える両手で自らの顔を覆った。
目の前にいる男は、小鬼よりも恐ろしい。
小鬼が肉体を貪る獣なら、この男は、人間の魂に逃げ場のない「健全な地獄」を永遠に建築し続ける悪魔であった。
夜の海を、冷たい風が吹き抜けていく。
正気を奪われたまま、しかし決して狂うことを許されない死神の番犬は、ただ静かに、次の幕が上がるのを待つしかなかった。