実験船の炎上が確認された直後、騎士団の臨時作戦本部。
観測水晶に記録された「魔導波の急激な減衰」という動かぬ証拠を前に、天幕の中は異様な熱気と、それ以上に重苦しい沈黙が渦巻いていた。
「――信じられん……」
騎士団将校が、呆然と吐き捨てた。
数千の精鋭を沈め、金等級の英雄すら自滅に追い込んだあの無敵の死の歌が、檻に入った小鬼の臭いと鳴き声だけで、あっけなく停止した。その事実が、将校の常識を根底から揺さぶっていた。
「……あれ程の力を得ながら、トラウマだけは乗り越えられなかったのか」
「皮肉な話だ」
騎士団長が、深く椅子に身を沈め、自嘲するように呟いた。
「この四方世界において最も弱く、最も忌むべき害獣であるゴブリンが……この国を、いや『世界を救う唯一の鍵』になるかもしれんとはな」
その言葉が出た瞬間、机の端で拳を握りしめていた中隊長が、激昂して身を乗り出した。
「私は反対ですッ!!」
中隊長の声には、武人としての、そして人としての純粋な拒絶が込められていた。
「あのような下劣極まる獣を利用するなど、至高神の騎士としての誇りを自ら泥に捨てる行為です! ましてや、その獣を使って一人の娘の心の傷を抉り出すなど……断じて正義の行いとは呼べません!」
「名誉や倫理を論じている場合ではないッ!!」
中隊長の言葉を、将校が血走った目で怒鳴りつけた。
「ようやく……ようやく我らが掴み取った、勝機らしい勝機なのだぞ! ここで教団を滅ぼさねば、あの歌声はやがて王都へ届き、再び三年前の魔神王戦役のような『暗黒時代』へと逆戻りだ! 国が滅びる時に、騎士の誇りなど何の役に立つッ!」
「…………ッ」
中隊長は歯を食いしばり、反論を飲み込んだ。正義では国は救えない。その絶望的な事実が、彼らの良心を容赦なく削り取っていく。
「静まれ」
二人の怒号を、騎士団長の重く乾いた一言が切り裂いた。
団長は自らの顎に手を当て、冷徹な軍指揮官としての眼光で、地図の上に置かれた小鬼の駒を見据えた。
「……中隊長の言う通り、倫理的な問題は極めて大きい。だが、仮にその倫理的な問題を一旦横に置いたとしても……奴らの利用には課題が山積みだ」
団長は、現実的な戦術の困難さを淡々と指摘した。
「ゴブリンという生き物は『奪う』『殺す』『犯す』しか頭にない。我らの命令になど一切従わん。軍馬や猟犬のように調教することなど不可能なのだ。ただ戦場に放てば、真っ先に逃げ出すか、あるいは混乱に乗じて我らの背後から襲いかかってくるぞ」
「それは……」
「混沌に与する邪教徒や闇人どもであれば、奴らに略奪の物や、嬲るための女を与え、その下卑た欲望を満たしてやることで手懐けることもあろう。……だが、我ら王国軍において、そのような真似は断じて許されん。奴らと交渉することすら不可能なのだ」
天幕に、再び冷たい沈黙が落ちた。
弱点は分かった。
しかし、その弱点である「小鬼」という存在そのものが、あまりにも制御不能で、あまりにも汚らわしい。
味方にする事も、兵として並ばせる事もできない。
「……その点につきましては、私に考えがあります」
将校が、暗い熱を帯びた瞳で団長を見据えた。
その口端には、もはや騎士のそれとは思えぬ、狂気じみた冷酷さが浮かんでいた。
「奴らを『兵』として扱う必要はありません。……恐怖を煽るだけの『道具』として、極めて合理的に運用する方法が」
天幕のロウソクが、不吉に揺らめく。
正義を掲げる王国軍は、最も手を出してはならない「禁忌」の蓋を、自らの手でこじ開けようとしていた。
――港街、豪商の執務室。
窓の外には依然として鉛色の重い海が広がっていましたが、室内には、乾いた紙をめくる音と共に、傲慢な笑い声が響き渡っていた。
「――旦那様。王国軍より、先日行われた予備実験成功の報せが入りました」
「ハハッ! それ見たことか!!」
豪商は下卑た笑みを浮かべながら立ち上がり、机を力任せに叩いた。
「私の言った通りではないか! どれ程強大な力を得ようが、軍隊や英雄を沈めようが……一度小鬼(ゴブリン)に壊された女は、生涯その悪夢からは逃れられんのだ! あの傷物の脳裏には、今もあの下等な獣どもの手垢が焼き付いているのだよ!」
「……騎士団長は、この観測情報を基に第四次攻略作戦の正式な許可を王都へ申請したとのことです」
執事はわずかに眉をひそめ、躊躇いがちに言葉を続けた。
「……ただ、小鬼の軍事利用など、建国以来前例がございません。いくら背に腹は代えられぬとはいえ、神殿や貴族院の反発を思えば、果たして国王陛下から作戦の許可が下りるかどうか……」
「――下りるさ」
豪商はワイングラスを取り上げ、断言するように嘲笑った。
「あの冒険者上がりの若造も、理解しているはずだ」
豪商は、窓の外――王都がある北の空を値踏みするように見つめた。
「机の上で綺麗事ばかりを並べる腑抜けの貴族どもとは違う。奴自身が、かつて泥にまみれ、死線を潜り抜けて玉座を奪い取った叩き上げの戦士なのだ。……勝つためなら、生き残るためなら、名誉を捨てて泥を掴まねばならん瞬間があることくらい、奴自身が嫌というほど知っていようよ」
豪商の瞳に、自らの財産と名声が戻ってくることへの確信が宿る。
「正義で腹は膨れん。名誉で海運は再開せん。……許可は下りる。そして、あの忌々しい小娘は、自らの古傷に怯えながら、騎士たちの手によって無様に首を落とされるのだ」
――王都、宮殿の奥深く。
薄暗い軍議室の窓を叩く雨音の中、扉を押し開けて足早に入ってきたのは、暗号文を解読した羊皮紙を手にした銀髪の侍女であった。
「――港町の騎士団からの鳩が届いたわ」
かつての冒険者仲間である国王たちの視線が一斉に彼女へ集まる。侍女は眉をひそめ、そこに記されたあまりにも異様な報告を読み上げた。
「予備実験の成功報告……。セイレーンの唯一の弱点、そして、それを突く『第四次攻略作戦』の実施許可を求めているわ」
「弱点だと……?」
近衛将軍が身を乗り出した。海軍を全滅させ、死霊を眠らせ、金等級の英雄たちをも自害に追い込んだ絶対の怪物。それに、一体どのような弱点が存在するというのか。
だが、侍女の口から告げられたその「答え」を聞いた瞬間、将軍の顔は驚愕と激しい嫌悪に歪んだ。
「……よりにもよって、ゴブリンが唯一の突破口とはな」
将軍は苦虫を噛み潰したように吐き捨てた。
神話の怪物すら手を出せぬ深淵の主を倒す鍵が、よりにもよって四方世界で最も忌み嫌われる最底辺の害獣。そのあまりの不条理と格の落差に、軍人としてのプライドが激しく軋む。
「だが、前例がないぞ!!」
赤毛の枢機卿が立ち上がり、悲鳴に近い声を上げた。
「至高神の教えにおいても、建国以来の法においても、あのような汚らわしい獣を軍事利用するなど言語道断! 教会の信徒や貴族院が知れば、王国の威信は完全に地に堕ちる! 前例のない禁忌に手を染めるなど、断じて認められん!」
枢機卿の叫びは、国家の秩序を守る者として至極真っ当なものであった。正義を掲げる王国が、小鬼を兵として使うなど、悪魔と契約するに等しい汚辱。
しかし。
玉座に深く腰掛け、沈黙を保っていた国王が、重く、低く口を開いた。
「……次が、教団への攻撃の最後のチャンスだ」
「陛下……ッ!?」
枢機卿が絶句する。国王は、迷宮を制覇したかつての戦士の瞳で、卓上の海図を静かに見据えていた。
「海軍は沈み、金等級の一党は散った。……これ以上、我が国に無駄にできる兵力など残されてはおらん。港街の物流が完全に死に絶えれば、冬を越せぬ民が飢えで溢れ返ることになる」
国王は自らの右手を握りしめた。
名誉か、民の生存か。
英雄としてではなく、一国の王として背負わねばならない泥の重み。
「教団も、この弱点を隠そうと必死になっているはずだ。今この機を逃せば、奴らはさらに強固な手を打ち、二度とあそこへ踏み入ることはできなくなる。……泥を啜ってでも、この一撃で終わらせねばならんのだ」
国王は立ち上がり、机の上に置かれた許可状へ、迷いなく王家の印章を押し当てた。
「……許可を出す。騎士団長へ伝えろ。使えるものは全て使い、何としてもあの歌を止めろ、とな」
「…………」
銀髪の侍女は何も言わず、深く一礼して部屋を出ていく。
枢機卿は頭を抱えて椅子折れ、将軍は重い沈黙に沈む。
それは一人の少女の心の傷を抉り、怪物を討つために自らも怪物へと成り下がるという、王国が下した最も過酷な「王断」であった。