薄暗く湿ったゴブリンの巣穴。
新米冒険者が命を落とす危険地帯であるはずのその場所は、普段ゴブリン退治など見向きもしない高位の冒険者たちの異様な「狩場」と化していた。
「 獲物だ! 逃がすんじゃねえぞ!」
最前線を駆ける銀等級の剣士が、嬉々として声を張り上げる。
「ゴブリン一匹につき金貨1枚の懸賞金だぜ!」
『OUGR!?』
逃げ惑う群れの奥、呪文を唱えようとしていたゴブリンシャーマンの眉間を、正確な矢が射抜いた。
「助かるわね! 危険を犯してトロールやガーゴイルとやり合うより、ずっと割がいいわ!」
銅等級の弓使いが、小気味よく次の矢を番えながら笑う。
追い詰められた巨躯のホブゴブリンが、巣穴の奥に捕らえられていた村娘の髪を掴み、肉盾にして威嚇の咆哮を上げた。
だが、歴戦の冒険者たちは微動だにしない。
「《ソムヌス(睡眠)……ネブラ(霧)……オリエンス(発生)》――『惰眠(スリープ)』!!」
銀等級の魔法使いが杖を掲げ、冷静に真言を紡いだ
見えない睡魔の霧がホブゴブリンの顔面を覆う。人質の娘ごと、巨漢の小鬼は白目を剥いてその場にドサリと崩れ落ちた。
すかさず、隣に控えていた銅等級の斧使いが躍り出て、眠りこけたホブゴブリンの首を戦斧で無慈悲に撥ね飛ばした。
「シャーマンとホブは殺せ! 上位種は一文の得にもならねえからな! 雑魚だけを転がしとけ!」
「よし! ガキ共! あとはそいつらを縛って、外の檻に放り込め!」
銀等級剣士が顎で指図すると、若い冒険者の面々が駆け寄ってきた。
「ちぇっ。美味しい所は全部持ってかれるぜ」
不満げにロープを手に歩み出たのは、一年前に歌姫を救出したパーティーの少年戦士だった。彼らの胸元の認識票は、白磁から一つ上がり、黒曜等級になっている。
「俺たちだってこれくらい倒せるのにさ。結局、割のいい依頼は全部上の連中に仕切られちまう」
「文句言わないの」
新米魔術師が、手際よく眠っている小鬼の手足を縛り上げながらたしなめた。
「私達はまだ黒曜よ。銀や銅の先輩たちに同行させてもらえるだけでも有難いと思いなさい」
「……でも、おかしいですね」
ゴブリンの頭に麻袋を被せた少年僧侶が不安そうに首を傾げた。
「いくらなんでも、あんな法外な報酬を出してまで、ゴブリンを『生け捕り』にするなんて……。王国軍は、一体これほどの数の小鬼を何に使うつもりなんでしょうか?」
「そうよ。あんな酷いことをする怪物を、殺さずに集めて生かしておくなんて……。何か、とんでもなく悪いことが起きている気がするわ」
リーダーである女細剣使いが、捕らえられた村娘に布をかけ、忌々しげに縛り上げられた小鬼たちを睨みつけた。
一年前に見た、あの地獄。
歌姫を蹂躙し、彼女の心を壊した不浄な獣たち。それをなぜ、正規軍が大金を払ってまでかき集めているのか。
彼らは、ただギルドの依頼に従って日銭を稼いでいるだけだ。
自分たちが縛り上げ、王国軍に引き渡すこの小鬼たちが。
あの日、自分たちが「救い出した」はずのあの美しい歌姫に、再び地獄の底を見せつけるための「最悪の兵器」として使われることなど、夢にも思っていなかった
――辺境の街から少し離れた、荒涼とした街道。
濛々と土煙が舞い上がる中、王国軍の紋章を掲げた一部隊が、鎖で数珠繋ぎにされた100匹以上の『捕虜』を連行して西の海へと向かっていた。
「――歩けッ! 歩け! 薄汚い獣共!!」
甲冑を軋ませながら、王国軍の騎士が長槍の柄で小鬼の背中を容赦なく打ち据える。小鬼たちは足枷の重さと恐怖に怯えながら、互いに押し合いへし合いして進んでいく。
『GAR……、GOR……』
疲労と怪我で足をもつれさせ、泥の中に倒れ込んだ一匹の小鬼。
騎士はそれを見るや否や、一切の感情を交えることなく、その背中へ深く槍を突き立てた。
グチャリ、と骨と肉が砕ける嫌な音が響き、小鬼が短い痙攣の後に息絶える。
騎士は返り血を払うように槍を引き抜き、死骸を無造作に街道の脇へと蹴り捨てた。
「……た、隊長。いくらなんでも……少しやりすぎではないでしょうか」
その光景を見かねて、配属されたばかりの若い騎士が、思わず声を震わせて口を挟んだ。
「確かにこいつらは憎むべき害獣ですが……我々は至高神に仕える誇り高き王国騎士です。抵抗すらできない捕虜を串刺しにするなど……」
「やりすぎだと?」
部隊長の騎士は、兜の奥で冷たく鼻を鳴らした。そして、槍の切っ先で街道の反対側を指し示した。
「……あれを見ろ」
若い騎士が視線を向けた先。そこには、騎士たちが巣穴から救出し、街の神殿へと移送していく途中の幌馬車が動いていた。
風で幌がめくれたその荷台の中に、数人の村娘が毛布に包まって座っていた。
「あ…………」
若い騎士の息が止まる。
村娘達の瞳には、色彩も、感情も、人間としての光が一切存在していなかった。
ただ虚空を見つめ、何もない空間に向かって、時折ビクッと震えては、喉の奥で音の出ない悲鳴を上げている。生きているのは肉体だけで、その魂は、巣穴に引きずり込まれた瞬間に完全に殺されてしまっていたのだ。
「……こいつらに、情けなど無用だ」
「…………っ」
若い騎士は、固く唇を噛み締めた。
先ほどまで抱いていた「やりすぎだ」という良心は、村娘の壊れた姿を見た瞬間、激しい怒りと嫌悪感によって綺麗に塗り潰された。
騎士達は再び槍を構え、進みが遅くなった小鬼の群れに向かって怒号を上げた。
「止まるな! 貴様らはあの娘たちに味わわせた絶望の、何万倍もの苦痛を味わって死ぬ義務があるのだ!! 進めェッ!!」
不浄の行軍が再び動き出す。
正義が復讐に染まり、倫理が憎悪に塗り潰されていく。
街道を見下ろす、切り立った崖の上から。
一人の少年が、無機質な瞳でその光景を静かに見つめていた。
「……あれは、王国の正規軍か?」
泥だらけの短剣を握りしめたままの少年が、訝しげに呟いた。
「馬鹿な。……ゴブリン退治に、国が軍を動かすことなんかあるわけない」
少年は、自らの故郷が焼かれた日、どれだけ待っても来なかった「軍隊」の姿を思い出し、冷たく断じた。村一つが滅びようと見向きもしない彼らが、なぜ辺境の街道に陣を敷いているのか。
「……それに、どうして殺さずに『生け捕り』にしている」
「カカッ……」
少年の疑問に答えたのは、傍らの岩に腰掛け、不味そうな煙草を吹かしていた圃人の老忍だった。
老忍は、煙を細く吐き出しながら、眼下の狂気じみた行軍を嘲笑うように見下ろした。
「連中、なりふり構ってられねえ訳だ。……テメェはゴブリン以外に興味がねぇから知らねえだろうがな」
老忍は、杖の先で西の空を指し示した。
「西の岬に、とんでもねえ化け物が居座っててな。……王国自慢の艦隊も、騎士団も、金等級の英雄サマたちも、もう三度もコテンパンにされちまったのさ」
「……化け物」
「ああ。で、その化け物の『唯一の弱点』が、あいつらだって話だ。……国中からゴブリンをかき集めてぶつけようって魂胆らしいぜ。……正義の騎士様たちも、追い詰められりゃ泥の味を覚えるってこった」
老忍は愉快そうに喉を鳴らした。
高潔な王国軍が、最も忌み嫌う害獣を「兵器」として利用しようとしている。その滑稽さと人間の業の深さを、老人は皮肉な余興として楽しんでいた。
だが。
少年の反応は、軽蔑でも、義憤でもなかった。
彼はただ、冷え切った、感情の抜け落ちた赤い瞳で、鎖に繋がれた小鬼たちを見つめていた。
「…………ゴブリンは、利用なんてできない」
「あ?」
「奴らは、隙があれば必ず喉を噛みちぎる。……恐怖で縛ったつもりでも、縛っている側の足元を腐らせて、自分たちの『巣穴』に引きずり込む」
少年の言葉は、呪いのように重く、そして氷のように冷徹だった。
彼は小鬼という生物の本質――いかなる上位の存在であろうと、決して制御しきれない「純粋な悪意と汚泥」を、誰よりも正確に理解していた。
「……あいつらを『道具』だと思った時点で、あの軍隊はもう、負けている」
少年は踵を返し、崖から背を向けた。
自分が殺すべき小鬼はあそこにもいるが、あの群れは間もなく全滅し、それを利用しようとした人間たちも巻き添えになる。それは、火のついた油瓶と同じだ。触れる価値もない。
「……カカッ! 違いねえ。あんな間抜けな行軍は見たことがねえや」
老忍は煙草を揉み消し、弟子の背中を追って歩き出した。
――深淵の岬を遠巻きに包囲する、王国騎士団の臨時作戦本営。
潮風に混じって、これまでこの高潔な陣地には存在しなかった、泥と排泄物の混じった強烈な悪臭が漂い始めていた。
「――報告。辺境の街方面から、まずは百匹が到着しました。特注の鉄檻に収容し、厳重な監視下に置いております」
血走った目をした中隊長が、天幕の中で海図の上に木片の駒を置きながら報告した。その声には、武人としての誇りを泥に捨てた者特有の、空虚な響きが混じっていた。
「ご苦労。……引き続き、全土からの搬入を急がせろ。千匹揃うまで、決して気を緩めるな」
「徹底させろ。ホブ、シャーマン、チャンピオン、ましてやロードなど、知恵や力を持つ個体は絶対に混ぜるな。檻の中で小鬼どもをまとめ上げられでもしたら、厄介な反乱を引き起こす。……求めるのは、恐怖で泣き喚き、下卑た鳴き声を上げるだけの、通常のゴブリンのみに限定せよ」
「……御意に」
騎士団将校は、手元の指揮杖を握りしめ、天幕の奥から響いてくるゴブリンたちの下卑た鳴き声に不快げに眉をひそめた。
「諸君。……奴らは王国の兵ではない。ただこの一戦のみ、あの忌まわしきセイレーンの歌を封じ込めるためだけの『肉壁』だ」
将校の冷徹な声が、集まった騎士たちに沈黙を強いる。
「古の時代。東方の帝国は、『戦奴』という……侵攻した土地で捕らえた捕虜をそのまま前線の『捨て駒』として強制的に戦わせる戦術を用いたそうだ」
将校は、歴史の暗部を引き合いに出し言葉を続けた。
「吐き気を催すほどに下劣な兵法だ。……だが、捕虜の女を孕み袋にし、矢避けの『肉の盾』にするあのゴブリンどもに対しては、一切の容赦は無用だ!」
将校の瞳に、三度の敗北で失った戦友たちの無念と、狂気に近い合理性が燃え上がる。
「我々は、奴らには何も与えてはならない! 武器も、知恵も、女も、そして……慈悲の一片すらもだッ!!」
「…………ハッ!」
騎士たちが、悲痛な覚悟と共に一斉に踵を鳴らした。
「奴らを動かすのに、教練も忠誠心も必要ない。……『後退すれば即座に死ぬ』という、後ろから突きつける『絶対的な恐怖』による支配のみで十分なのだ。……恐怖で泣き叫び、不浄な声を張り上げさせながら、あの塔へ突撃させる」
「……だがどうやって奴等に『絶対的な恐怖』を植え付ける?」
騎士団長の指先が、海図の上に置かれたゴブリンを模した木片を苛立たしげに弾く。
「小鬼共の習性は知っての通りだ。奴等は恨みを一生忘れん。中途半端な脅しや生ぬるい暴力では、檻から出した瞬間に反旗を翻し、我々に牙を剥いてくるぞ」
小鬼は狡猾で、どこまでも執念深い。
ただ長槍を突きつけた程度で、死地に突撃するような従順な家畜ではない。それこそ、骨の髄まで、魂の形が変わるほどの「死より重い恐怖」を叩き込まねば、戦奴として前に走らせることなどできはしない――歴戦の指揮官だからこそ、その困難さが分かっていた。
その難題に対し騎士団将校は冷酷な提案を口にした。
「――『猟犬(ハウンド)』に、奴等を選別させます」
天幕の空気が、一瞬で凍りついた。
その名を聞いた途端、中隊長の顔に激しい嫌悪と拒絶が走った。
「……三年前の魔神王戦役で活躍した『特殊部隊』と言えば聞こえはいいが……ッ!」
中隊長は拳を握りしめ、唾棄するように吐き捨てた。
「あの連中を軍務に呼び戻すなど正気ですか!? あれは兵士ですらない!牢獄から拾い上げた殺人鬼の集まりだぞ!」
「ああ、分かっている」
騎士団長が、苦渋を押し殺して目を伏せた。
「魔物を拷問し、虐殺するのが生きがいの異常者達だ。……三年前の戦時中も、あまりの残虐さゆえに軍内から爪弾きにされ、戦後すぐに隔離された連中だからな」
手足を一本ずつ切り落とし、皮を剥ぎ、魔物の悲鳴を肴に酒を呑むような狂人集団。常識ある騎士であれば、同じ空気を吸うことすら拒む「王国軍の恥部」。
だが、将校は眉一つ動かさず、冷徹に言い放つ。
「……適任ではあります。小鬼を恐怖で縛るには、小鬼以上に狂った手口が必要だ。汚れ役には、最初から泥に浸かりきった狂犬を使うのが、最も合理的です」
将校は、騎士団長へ深く頭を下げた。
「奴らの檻を開けましょう。毒を以て毒を制す……この作戦の泥を、全てあの狂人共に啜らせればよいのです」
「…………」
騎士団長は、再び天幕の天井を見上げた。
正義を標榜する軍隊が、小鬼を利用することを決め、今度はその調教のために自軍の「狂気」を解き放つ。
一歩、また一歩と、自分たちが「悪魔」へと近づいていく足音が聞こえるようであった。
「……呼べ」
騎士団長の絞り出すような一言。
「猟犬どもの鎖を解け。……千匹の小鬼を、奴らの好きに選別させろ」