港街の北門。朝霧が立ち込める中、王都へと続く街道を前に、数台の豪華な馬車が列をなしていた。街の人々が集まり、花びらを撒き、街の誇りである楽団の門出を祝う声が響く。
「――よし、積み荷の固定を確認しろ! 楽器は魂だ、一傷でもつけたら承知せんぞ!」
声を張り上げているのは、楽団を長年率いてきた老楽長だった。白髪混じりの髭を震わせ、厳しい目つきで団員たちを指揮しているが、その瞳の奥には、愛弟子たちが王都という大舞台に立つことへの、隠しきれない誇らしさが宿っていた。
「……ねえ、緊張して指が震えちゃう。私、ちゃんとフルート吹けるかな」
馬車の窓から顔を出したのは、歌姫の幼馴染であり、楽団の奏者でもある親友の少女であった。彼女は不安げに、大切に抱えた銀のフルートを見つめる。
「大丈夫だよ。あんなに練習したんだもの。……それに、私が隣にいるわ」
歌姫は親友の手を優しく握り、微笑みかけた。
「――安心しな。王都までの道中、指一本触れさせやしねえよ」
馬車の横で、自慢の得物を手入れしながら不敵に笑うのは、ギルドから雇われた銀等級の冒険者達。
「街道沿いの魔物や野盗どもは俺たちが事前に間引いてある。残っているのは、せいぜい馬車の音に驚いて逃げ出す程度の臆病者だけだ。……あんたたちは、王都でどう喝采を浴びるかだけ考えてな」
「ゴブリンはどうだ? 最近、この辺りでも目撃例があるようだが」
「あんな雑魚、物の数にも入らねえよ。もし出たら、馬車の車輪で挽き潰して終わりだ。心配すんな」
彼らは歴戦の戦士であり、その装備と余裕は、楽団員たちに絶対的な安心感を与えていた。平和に慣れた彼らにとって、この護衛任務は「名誉ある楽な仕事」でしかなかった。
「――気をつけて。……必ず、無事で帰ってきておくれ」
最後尾の馬車の側で、歌姫は婚約者の青年と二人きりで言葉を交わす。
「王都の劇場で、大歓声が響くのを信じている。……一週間後の初演には、僕も必ず客席にいるから」
「ええ。行ってくるわ。……最高の歌を、王都の空に届けてくる」
「ああ。……帰ってきたら、あの丘で結婚式だ。約束だよ」
青年は彼女の指先を愛おしそうに握り、昨夜渡した指輪が光っているのを確かめる。
「約束。……愛してるわ」
彼女は彼の胸に一度だけ顔を埋め、それから決然と馬車のステップを上がった。
「全車、出発ッ!!」
楽長の号令と共に、馬車がゆっくりと動き出す。
車輪が石畳を叩く音。
楽団員たちが奏でる、景気づけの軽やかな旋律。
馬車が動き出す。
車輪が石畳を叩く規則正しい音。
遠ざかっていく愛する人の姿。
彼女は何度も手を振り、霧の向こうに消えていく港街を瞳に焼き付けた。
その上空を一羽の不気味な黒い鳥が、風に乗って楽団の馬車を追い続けていた。その赤い瞳が映し出す光景は、数キロ離れた教団拠点の魔水晶へと転送されている。
「――出発したようですな、閣下」
薄暗い執務室で、教団幹部が水晶に映る馬車列を指差した。
「――こちらが楽団の巡業経路です。流石に慎重を期したようで、護衛には銀等級を含む冒険者を複数雇い入れています」
幹部は、地図上に記された青い印をなぞった。
「ゴブリンが待ち伏せしそうな、見通しの悪い旧道や森の近くは徹底して避けて通るようですな。銀等級が目を光らせているとなれば、野盗や並の魔物では手出しすらできないでしょう」
完璧な布陣。平時であれば、それは「絶対に安全な旅」となるはずであった。しかし、報告を聞いていた司祭は、窓の外の澱んだ空を見つめ、不気味に目を細めた。
「……あの一帯は最近、ゴブリンの『質』が変わっている。……統率が取れ始め、道具を使い、何より『待つ』ことを覚えた群れがいるようだ」
司祭は、地図の一点を杖の先で突いた。そこは、街道からわずかに外れた、深く暗い谷。
「……? 閣下、あそこは王国の直轄地に近い、比較的安全な地域のはずですが」
「不浄というものは、安全という名の慢心の陰にこそ繁殖するものだよ」
幹部が、戦慄と共に声を潜めた。
「……まさか。……『王(ロード)』でも産まれたのですか?」
「クク……確証はないがね。……使い魔の報告では、周辺の小鬼たちが一つの意思に従うように集結を始めているようだ。……もしそうなら……銀等級の護衛とて、無事では済むまい」
司祭は魔水晶を手に取り、そこに映る歌姫の無垢な笑顔を冷淡に眺めた。
「手出しは無用だ。我々はあくまで『観測者』だよ。……もし、彼女が無事に王都へ辿り着き、喝采の中で歌い上げるなら、それまでだ。彼女は私の求めていた『真珠』ではなかった……ただの幸運な小鳥だったということになる」
司祭の瞳に、残酷な光が宿る。
「だが……。もし神々が、彼女に『最悪の出目』を授けたなら。高潔な魂が不浄に蹂躙され、泥の中で声なき悲鳴を上げるその瞬間こそ……」
司祭の瞳に、狂信的な救済の火が灯る。
「……その時こそ、我等が彼女を『救い』に行こう。世界すべてを拒絶する、死神の旋律として羽化させるためにね」
司祭は、魔水晶を起動させ、巡業馬車の出発を映し出した。
希望に満ちた歌姫の笑顔。
それを守ろうとする、誇り高き銀等級の冒険者たち。
「さあ、神々の遊戯を見守ろうじゃないか。……彼女が、ただの歌姫として終わるか。それとも、我等の『死神』として産まれ変わるか……」
――街道を見下ろす、崖の上。
太陽の光を背負い、岩陰に潜む緑色の影があった。
ボロボロではあるが、人族から奪ったであろう装飾されたマントを羽織った小鬼――ゴブリンロード。
その手には、泥に汚れた一本の「指揮棒」が握られていた。
ロードは眼下を進む馬車列を、まるで獲物を数える猟師のように見つめる。
そこには希望に満ちた楽団の姿があった。
「GORB……(今だ)」
ロードが指揮棒を振り下ろすと、崖の至る所に隠されていた鏡の破片が、太陽の光を反射して一斉に輝いた。
それは、森の中、草むらの影、そして街道の先で息を潜める「百匹の飢え」に放たれた、開戦の合図であった。
神々の振るうダイスは、いま、最悪の『1』を指して転がり始めた。