南西の港街、海を一望する丘の上に建つ豪奢な邸宅。その最上階にある執務室には、高級な香香の匂いと、それ以上に重苦しい沈黙が漂っていた。
「……旦那様。王都へと続く街道の検問所より、早馬が届きました」
扉を静かに開け、入室してきたのは老齢の執事であった。背筋を真っ直ぐに伸ばし、長年この家に仕えてきた彼の手には、一通の未開封の書状が握られていた。
「……楽団が到着予定の時刻を過ぎて半日。未だに姿を見せていないとのことです」
「何だと?」
豪華な執務机に座る男――この街の海運を牛耳る豪商が、不快げに顔を上げた。金糸の刺繍が施された服を纏い、鋭い審美眼を持つ彼は、自らの予定が滞ることを何よりも嫌う男であった。
「道中で何かあったのか? 予定より遅れるなど、あの楽長にしては珍しいな」
「父上。まさか……野盗か、あるいはゴブリンの群れに襲われたのでは……!」
部屋の隅で落ち着かない様子で立っていた婚約者の青年が、堪りかねたように口を挟む。彼の瞳には、最愛の恋人を案じる色が隠しようもなく溢れていた。
「馬鹿馬鹿しい。」
豪商は鼻で笑い、机の上の帳簿に目を戻した。
「楽団は銀等級を含めた腕利きの護衛を何人も雇っているのだぞ?あんな、知性も力もない雑魚など、数匹現れたところで剣の錆になるのが関の山だ。野盗にしても、我が家の家紋を見れば手出しはせん。心配するだけ時間の無駄だ」
「……しかし旦那様。小鬼の中には稀に、統率に特化し、百を超える群れを統べる『王(ロード)』と呼ばれる個体もいると聞き及びます」
執事が、慎重に言葉を重ねた。
「あるいは、小鬼でなくとも別の強大な魔物に遭遇した可能性も否定できません。街道といえど、この世に絶対の安全など……」
「『王』と言っても、所詮はゴブリンだろう。雑魚が百匹群れた所で物の数ではない。」
豪商は、執事の懸念を不快げに一蹴した。
「後者にしても、先日、王都の金等級の一党が、街道付近の大型魔獣を掃討したばかりだ。報告によれば、今はあの一帯は安全そのものだという。……ただの車輪の破損か、御者が道でも間違えたんだろうよ」
「……でしたら! でしたら、すぐに捜索隊を出しましょう! もし、もしあの子に万が一のことがあったら……!」
青年の悲痛な訴えを、豪商は冷淡な一瞥で黙らせた。
「黙れ。たかが半日の遅れで大騒ぎして、我が家の臆病さを世間に晒すつもりか。……一晩待て。それが商人の、そしてこの街を統べる者の器というものだ」
「…………っ!!」
青年は拳を握りしめ、執務室を飛び出していった。
「……旦那様。宜しかったのですか?」
「構わん。若い情熱は時として目を曇らせる。……あの娘は我が家の看板だ。無事に王都へ辿り着かねば、これまでの投資が水の泡になる。……だが、それだけのことだ。代わりなどいくらでもいる」
豪商は窓の外、夕闇に染まり始めた海を眺めた。
彼にとって、一人の少女の安否は「資産の健全性」に過ぎなかった。
――暗い巣穴の奥底。湿った岩肌には不気味な苔がへばりつき、空気は排泄物と腐肉、そして絶望した女たちの汗と涙が混じり合った、逃げ場のない悪臭に満ちていた。
数日前まで、王都の大舞台を夢見ていた楽団の女性たちは、いまや衣服を剥ぎ取られ、冷たい鎖で繋がれた虜囚へと成り果てていた。
「……あ、……あぁ……」
歌姫は、虚ろな瞳で天井を見つめていた。何度も繰り返される蹂躙。身体中に刻み込まれる不浄な感触。誇りも、希望も、あの日彼と交わした約束も、すべてが泥の中に沈んでいく感覚。
その隣で、同じように鎖に繋がれていた親友が、ガタガタと震える手で自らの首に巻き付いた鉄の鎖を握りしめていた。
「……もう、嫌。……こんなの、耐えられない……」
親友が、虚ろな声で呟いた。彼女の身体は無惨に汚れ、心は既に限界を超えていた。
「私……あいつらの、玩具になるために笛を練習してきたんじゃない。……お日様の下で、みんなを笑顔にするために吹いていたのに……」
親友は、自分を繋いでいる太い鉄の鎖を、震える手で首へと回した。
「お腹の中に……あいつらの、あんな汚らわしい化け物の子供なんて……絶対に産みたくない。……私は、人間として……死にたいの……!」
「……っ!? 駄目! やめて……!!」
歌姫は掠れた声で叫び、手を伸ばそうとした。しかし、鎖が激しい音を立てて彼女の動きを阻む。
親友は最後、歌姫に向けて、悲しくも美しい、あの日と同じ笑顔を向けた。そして、渾身の力を込めて、首の鎖を自ら引き絞る。
「……さよなら」
カラン、という虚しい音と共に、親友の身体から力が抜けた。
誇りを守るための、たった一つの、あまりにも過酷な選択。
「あ……、あああああ……ッ!!!」
歌姫は、冷たくなっていく親友の遺体に縋り付き、声にならない慟哭を上げた。
しかし、その悲しみに寄り添う者は誰もいない。
「GORB,GORB……(クク……一匹死んだか。まあいい、予備はまだいる)」
暗闇から現れたのは、下卑た笑みを浮かべるゴブリンロード。そして、獲物を品定めするような目をした親衛隊のホブゴブリンたち。
「GROOU!!(次はこっちだ。まだ鳴き声が足りないぞ)」
ロードが力任せに歌姫の髪を掴み、泣き崩れる彼女を再び泥の中に押し倒した。
「嫌……! 来ないで……! お願い、もう触らないで……ッ!!」
拒絶の叫び。けれど、その悲鳴こそが小鬼たちの劣情をさらに煽り、暗い巣穴には再び、肉のぶつかり合う音と、獣のような嬌声が響き渡った。
(……助けて。……誰か……。……誰でもいいから、殺して……!!)
(あいつらを……この世界を……私を……。……全部、消して……!!)
彼女の喉の奥。
悲鳴さえも出なくなったその場所で、純粋で真っ黒な『呪い』が産声を上げようとしていた。
――邪教団本拠地。冷たい静寂が支配する観測室の魔水晶は不気味な光を放ち、遥か遠方の巣穴で繰り広げられる惨劇を鮮明に映し出していた。
「――本当にゴブリンロードが率いる群れが襲うとは、まさに僥倖ですな」
教団幹部が、水晶に映る歌姫の無惨な姿を眺めながら、恍惚とした声を漏らした。
「これほどまでに統率され、地形を利用した用意周到な襲撃……。銀等級の護衛でさえ、なす術もなく磨り潰されるとは。閣下の仰った通り、我々が手を出す必要など欠片もありませんでしたな」
「ククク……そうだ。これこそがこの世界の『真理』だよ」
司祭は水晶に映る少女の、虚空を見つめる光の消えた瞳を愛おしそうになぞった。
「どれほど積み上げた冒険者の武勇も、王都の劇場で喝采を浴びるはずだった彼女の輝かしい夢も。……ほんの些細な油断と、重なり合った不運の出目一つで、こうも容易く、無価値に泥へと沈む。……この儚さ、この理不尽こそが、芸術だとは思わないかね?」
「……左様ですな。信徒たちがどれほど祈ろうと、至高神の奇跡は、彼女たちの服が引き裂かれる瞬間にさえ間に合わなかった。つくづく、至高神は無慈悲ですな」
幹部が嘲笑を浮かべて応えた。神々はサイコロを振るだけで、その結果として産まれる「汚れ」を拭うことは決してしない。
「さて、閣下。回収の手筈は如何に? このまま放置すれば、彼女の精神は完全に崩壊するか、あるいは衰弱死してしまいます。直ちに我が教団の精鋭を送り込みますか?」
「……いや。一度、彼女を冒険者の手で救出させ、あの港街へ戻したい。……彼女が最も信頼していた世界が、彼女にどのような『答え』を返すのか……それを見届けてからでも遅くはあるまい」
「しかし閣下、ゴブリン退治など高位の冒険者はまず受けません。ギルドから派遣されるのは恐らく経験の浅い白磁等級でしょう。ロードが率いるこれほどの規模の群れが相手では、救出どころか返り討ちに遭って全滅するのが関の山です」
幹部の言葉は道理であった。通常、白磁等級の一党にこの巣穴を落とす力はない。
だがその時、司祭は使い魔が送ってくる「巣穴の内情」を映した水晶の一部を注視した。
「……いや。明日の朝まで待て」
司祭の瞳に、邪悪な確信が宿る。
「……もしかすれば。無知で無力な白磁等級の一党でさえ、彼女を救えるかもしれんぞ」
「え……? 閣下、一体何が……」
「クク……。不浄な獣どもの間にも、どうやら『不協和音』が響き始めたようだ。……さあ、見届けよう。この『喜劇』がどのように幕を閉じ、彼女にどのような絶望を届けるのかを」
司祭は、水晶の中に映る歌姫の虚ろな瞳を見つめながら、静かに椅子に深く腰掛けた。
助けの手が差し伸べられる。
だが、それが真の救済になるか、あるいは死神への最後の一押しになるか。
神々のダイスは、まだ転がり続けていた。