不潔な熱気に満ちた巣穴の広間。奥の寝所からは、ゴブリンロードの野卑な笑い声と、抗う力さえ奪われた歌姫の断続的な悲鳴が漏れ聞こえていた。
広間から少し離れた岩陰。
そこには、返り血で汚れた巨大な身体を揺らし、苛立ちを隠そうともしないゴブリンチャンピオンと、その影に寄り添うように立つゴブリンシャーマンの姿があった。
「GRROUUU!!(ボスは一体、いつになったらあの女を俺に回すんだ!誰が護衛の冒険者を皆殺しにしたと思っている! 俺がいなければ、今回の狩りは失敗していたはずだぞ!)
チャンピオンが、岩壁を拳で殴りつけた。凄まじい衝撃に天井から塵が舞い落ちる。
「GORB(――まあまあ、落ち着いてください。戦闘隊長)」
「GRR!!(落ち着いていられるか! 毎度毎度後ろで指図するだけの癖に、一番いい戦利品も、一番上等な女も独り占めだ。俺たちは奴の使い捨ての駒じゃねえぞ!)」
チャンピオンがシャーマンを睨みつける。普段ならその威圧感に怯えるはずの術師だったが、今日の彼はどこか違った。
「GORB(貴方の不満は、もっともです。この群れで一番強いのは貴方だ。誰もがそう認めている。……それなのに、なぜあの『頭でっかち』の足元に跪かねばならないのか……)」
シャーマンの言葉が、チャンピオンの脳内に毒のように染み込んでいく。
「GORB(……力こそがこの世界の真理。……ならば、この群れの真の『王』に相応しいのは、知恵を弄するだけの細い腕を持つ者ではなく、貴方のような強靭な牙を持つ者のはずだ)」
「GRR?(……俺が、王だと……?)」
シャーマンの瞳が、暗闇の中で怪しく光る。
「GOROUB(……見てください。今はボスも、その側近の親衛隊も、捕虜の女に夢中で、完全に隙だらけだ。……チャンスですよ、戦闘隊長)」
シャーマンの細い指が、ボスのいる奥の部屋を指し示した。
「(……今こそ、不当な支配を終わらせる時。……貴方が一歩踏み出せば、不満を抱える他の同胞たちも必ず立ち上がる。……王座を奪えば、あの歌姫も、戦利品も、すべて貴方の意のままです)」
シャーマンの言葉に、チャンピオンの呼吸がさらに荒くなる。
不満という名の火種に、シャーマンが「下剋上」という名の油を注いだ瞬間であった。
「GRROOOUUUU!!!(……そうだ。俺が、俺こそが王だ!)」
「(……ククク、ゆくがよい。筋肉馬鹿め)」
背後で見送るシャーマンの口角が、醜く吊り上がり、暗闇の中に控えていた自分の部下たち――数匹の小鬼へと視線を向けた。
「(お前達はチャンピオンの取り巻きへ……別の者はボスの親衛隊の元へ向かうのだ。)」
小鬼たちは下卑た笑みを浮かべて散っていった。
――洞窟・下層の宴会場。
「(……聞いたか? 今回の狩りで得た女たちは、全てロードの直属兵が独占するつもりだぞ)」
シャーマンの部下の低い囁きに、肉を食らっていたチャンピオン派の小鬼たちが動きを止めた。
「GROUU!!(何だと!? 矢面に立って馬車を止めたのは俺たちだぞ!)」
「(全くだ。俺たち命懸けで戦った連中には、お溢れの女一人さえ回ってこない。……俺たちを盾にして、美味しいところは全部持っていくのさ。……それだけじゃない。ボスは隊長が手柄を鼻にかけているのを嫌っているらしい。分け前を与えるどころか、隊長の首を撥ねるつもりだという噂だ……!)」
その言葉に、チャンピオン派の小鬼たちが一斉に武器を掴み、喉を鳴らした。
「(……舐めるな。力がどちらにあるか、分からせてやる……!)」
――ロードの寝所付近、親衛隊の詰所。
「GAROU(……参謀長(シャーマン)からの言伝だ。気をつけろ)」
別の部下が、楽団の女性団員たちを弄び、勝利の余韻に浸っていたロードの親衛隊たちの元に駆け込んでいた。
「GORB(……戦闘隊長が、どうやら乱心したらしい。今夜ボスの寝込みを襲う計画を立てているのを、参謀長が『視た』そうだ。……力自慢の馬鹿どもは、ついに王座を奪うつもりだぞ)」
「Gu!?(何だと!? あの筋肉馬鹿め、ついに分を弁えなくなったか!)」
親衛隊たちは、犯していた女性たちを無造作に放り出し、武器を手に取った。彼らにとって、自分たちの特権を脅かすチャンピオン派の動きは、即座に排除すべき裏切りでしかない。
「(……ボスを守れ! 近づく奴らは、同胞であっても皆殺しだ!!)」
親衛隊たちは疑心暗鬼に陥り、殺気立った目で通路を睨み始めた。
――巣穴の最奥、湿った岩肌を贅沢な絨毯で覆ったゴブリンロードの私室。そこには絶望のあまり魂が抜け落ちたかのように横たわる歌姫と、その上に君臨するゴブリンロードの姿があった。
「GORB,GORB……(ククク。やはりこの娘の鳴き声は格別だな。ただの村娘とは『響き』が違う。手間暇かけて作戦を練った甲斐があったというものだ。)」
ロードが歪んだ悦楽に浸り、獲物に再び手を伸ばそうとした、その時。
「GORB!!(ボス! 大変ですッ!!)」
血相を変えた親衛隊のホブゴブリンが、扉を強引に開けて転がり込んできた。
「GROOUU!!(邪魔をするなッ、後にしろと言ったはずだ!)」
「(戦闘隊長が謀反を起こしました! 奴の配下の連中も、武器を持ってこちらへ――)」
――ドゴォォォォォォンッ!!!
報告が終わるより早く、頑強な木製の扉が、質量の暴力によっ粉々に粉砕された。粉塵と共に現れたのは、血走った眼を爛々と輝かせ、巨大な棍棒を肩に担いだゴブリンチャンピオン
「GORB……!?(これは一体何の真似だ?戦闘隊長)」
「GRROOOUUU!!(戦利品の分配について、もう一度話をしようかボス。俺の部下たちは、お前のケチなやり方に愛想を尽かしているぞ)」
チャンピオンの吐息は荒く、その全身からは隠しきれない殺気が漏れ出していた。
「GORB……(くどいぞ。お前の取り分は既に決めたはずだ。冒険者の装備と、捕虜の女を何人か回してやっただろう)」
「GROOOUUU!!(あんなガラクタや、すぐに死ぬような端くれの女で満足できるかッ!)」
チャンピオンが、指先で震える歌姫を指差した。
「GROUUU!!(その女を……その一番の『上玉』を俺に寄越せ! それが俺の流した血への正当な報酬だ!)」
「GORB,GROOU……!(……断る。お前のような力任せの馬鹿は、すぐに女を使い物にならなくするだろう。……この娘は我が群れをより大きくするための上質な『孕み袋』だ。お前の刹那的な劣情で壊させるわけにはいかん)」
「GROUUU!!(知ったことか! 欲しいものはこの手で、力で奪い取る……それが、ゴブリンという生き方だろうがッ!!)」
「GAROU!!(……ふん。ならば、死をもってその身の程を知るがいい。殺せ! 秩序を乱すゴミは、我が群れには不要だ!!)」
「「「GYAAAAAAAAAAッッ!!!」」」
――巣穴の物陰。
狭い回廊で、広間で、あるいは寝所で。
緑色の血が飛び散り、肉の焼ける臭いと、かつての戦友を呪う叫びが巣穴を満たしていく。
その凄惨な共喰いを、物陰から眺める一対の冷酷な瞳。
ゴブリンシャーマンは、返り血を浴びぬよう静かに後退しながら、杖の先で火花を散らせていた。
「(……ククク。実に御しやすい連中だ)」
シャーマンの瞳には、同胞への情など欠片もない。
(もっと殺し合え。……王座も、戦利品も、そしてその『極上の女』も……。最後に立っている俺が、すべて手に入れてやる)
一人の少女を壊した不浄なる軍勢は、その強欲ゆえに、自ら終わりのない奈落へと転げ落ちていった。