邪教団本拠地、青白い魔力が揺らめく鏡の間。
魔水晶の向こう側では、昨夜までの統制が嘘のように崩れ去り、返り血と臓物に塗れたゴブリンたちが、最後の数匹になるまで互いを貪り合っていた。
「――まさか。あれほど狡猾だったゴブリンロードに率いられた群れが、これほど容易く仲間割れを起こすとは……」
「結局、ゴブリンはどこまでいってもゴブリンなのだよ。」
司祭は椅子に深く腰掛け、満足げに指先を組んだ。
「奴らは間抜けではない。策を練り、獲物を追い詰める程度の知能はある。だが、致命的に『馬鹿』なのだ。己の欲望の先にある破滅を想像できず、目の前の肉と女に目が眩んで、自分が座る椅子の脚を自ら叩き折る。……それが、神々がこの盤面に遺した、最も卑俗で不浄な本性なのだからな」
「確かに奴らには、個々の忠誠心やモラルなど皆無に等しい。食料、武器、財宝……その取り分を巡って、これまでも多くの群れが自滅してきた。……今回の『潮風の歌姫』という戦利品は、奴等にとってはあまりにも魅力的すぎた、というわけですな」
幹部が水晶の中の歌姫を見やる。彼女は既に動かず、ただ凄惨な殺し合いを無機質な瞳で見つめている。その魂の灯火は、いまや風前の灯火であった。
「……時が来ましたな。閣下」
「ああ。直ちにギルドに工作員を派遣し、匿名で救援の要請を出したまえ。……夜が明けた時には、あの群れは白磁等級の子供たちでさえ容易く一掃できる『残りカス』に成り下がっているはずだ」
司祭の瞳に、救いようのない悪意が宿る。
「あの娘には、『英雄』ではない者に救われるという屈辱を与えねばならん。自分を壊した存在が、子供にさえ殺される程度の雑魚であったという事実を、その魂に刻み込ませるのだ」
「御意に。……彼女をあの港町へと帰しましょう。……彼女を『街の宝』と持て囃した隣人たちが、いまや『汚れ』となった彼女をどう迎えるか……」
「クク……。そこからが、本当の『反転』の始まりだよ。……さあ、喜劇の幕を引こう。彼女が真の絶望に目覚めるための、輝かしい『偽りの救済』をね」
幹部は深々と一礼し、影に潜む工作員たちへ合図を送った。
――巣穴の中は、もはや地獄ですら生温い、不浄の極致と化していた。
至る所に引き裂かれたゴブリンの死骸が転がり、壁は緑色の血で塗り潰されていた。その惨劇の中心で、返り血を浴び、肩で激しく息をする巨躯――ゴブリンチャンピオンが、足元に転がるゴブリンロードの首を力任せに踏みつぶした。
「GRROOOUUU!!(やったぞ! これで俺が新しい『王』だ! 邪魔なロードも、生意気な近衛どもも、皆殺しにしてやった!)」
チャンピオンは、血走った瞳で洞窟の隅に転がっている戦利品の山、そして恐怖で意識を失いかけている歌姫を睨みつけ、下卑た勝利の咆哮を上げた。
「GAROU!!(戦利品も、この極上の女も、すべて俺のものだ! 俺の力こそが、この群れの真理だ!)」
「Gorb,Gorb……(おめでとうございます、新たな王よ。貴方こそが最強だ)」
岩影から、杖を突いたゴブリンシャーマンが、恭しく這い出してきた。その醜い顔には、追従の笑みが貼り付いている。
「GROU!!(お前の話に乗って正解だったぞ! 絶妙なタイミングで『眠雲(スリープ)』をかけてくれたな。おかげで一方的に磨り潰せたわ!)」
チャンピオンは満足げに、自らの誇る強靭な腕を叩いた。
「GRR?(お前はいい参謀だ。……褒美は何がいい? 財宝か? それとも、捕虜の女か?)」
「…………GORB(……いや、褒美なら、たった一つでいい)」
シャーマンの瞳から、卑屈な光が消えた。
代わりに宿ったのは、チャンピオンを「獲物」として測る、底冷えするような殺意。
「GORB,GRR……!(その玉座を寄越せ。……筋肉ばかりで脳みその足りない馬鹿が)」
「Gu……!?(な、何だと――)」
チャンピオンが驚愕に目を見開いた刹那、シャーマンが掲げた杖の先から、圧縮された高熱の火炎が放たれた。
――――――――ドォォォォォォォンッ!!!
無防備な顔面に至近距離から「火矢(ファイアボルト)」が直撃し、チャンピオンの巨躯が爆音と共に後方の岩壁へと吹き飛んだ。
角が折れ、顔半分を吹き飛ばされたチャンピオンは悲鳴を上げるまもなく絶命した。
「(王に必要なのは力ではない。……最後に立っている知恵だ。お前はただの、俺が王座に座るための『掃除道具』に過ぎなかったのだよ)」
シャーマンは、倒れたチャンピオンの胸に足をかけ、高らかに杖を掲げた。
残された十数匹の小鬼たちが、恐怖と従順の混ざった鳴き声を上げ、新たな主に跪く。
ロードも、チャンピオンも、もういない。
一人の少女の人生を、魂を奪い去った軍勢は、その醜悪な内紛の末に、最も卑怯で陰湿な一匹を「王」として戴くことになった。
(………………)
歌姫は、その光景を虚無の瞳で見ていた。
自分の命を、仲間を、未来を。
こんな、獣以下のゴミ溜めの「椅子取りゲーム」のために消費された。
そのあまりにも無価値な真実が、彼女の心を境界線から突き落としていた。
――南西の港町冒険者ギルド。
朝の清々しい空気の中、受付カウンターの前で四人の若者が、真新しい「白磁等級」のプレートを誇らしげに掲げていた。
「……ついに、これで僕たちも冒険者ですね」
少年僧侶が、少し震える手で地母神の聖印に触れた。隣に立つ少年戦士は、腰に下げた安物の短剣を叩き、鼻息を荒くする。
「ああ! 目指すは、あの魔神王を倒した六英雄みたいな伝説のパーティだ! 俺が前衛でガンガン敵を蹴散らしてやるからな!」
「もう、気が早いわよ」
リーダー格の女細剣使いが、苦笑しながらたしなめる。
「まずは実績を積まないと。今日だって、受けられるのは街の雑用くらいなんだから」
「そうね。まずは下水溝のネズミ退治か、薬草採取から始めましょう」
新米魔術師が、教本を抱え直しながら冷静に付け加えた。
その時、ギルドの扉が激しく開き、泥にまみれた男が転がり込んできた。
「――た、大変だ! 誰か、誰か救援を!!」
酒場の喧騒が一瞬で静まり返る。男は受付へ縋り付くと、震える声で叫んだ。
その正体は、司祭が放った教団の工作員であった。
「北東の谷で、王都へ向かっていたあの『楽団』が、ゴブリンの群れに襲撃されたんだ! 護衛は全滅……歌姫たちは、暗い穴の中へ連れ去られてしまった!!」
その叫びに、掲示板の周囲にいた銅等級や翠玉等級の冒険者達は面倒そうに顔を見合わせた
「……なんだ、ゴブリンか。そんな端金の依頼、俺達の出る幕じゃねえな。」
「そもそも、あの楽団には銀等級を含む腕利きの護衛がついてたはずだろ。それがゴブリン如きに不覚を取るかよ」
「見間違いだろ。派手に脱輪でもして、近くにいたはぐれゴブリンにでも怯えたんじゃないか?」
ギルド内に、冷ややかな無関心が広がる。
ゴブリン。
それはベテランの冒険者たちにとって、わざわざ重い腰を上げる価値もない「端の事」でしかなかった。
「よくある話」として処理されかけたその依頼に、真っ先に手を上げたのは、先ほど登録を終えたばかりの四人だった。
「――私たちが、行きます!」
女細剣使いが、拳を握りしめて宣言する。
「困っている人を放っておけません! 私たちの初仕事、これにさせてください!」
工作員の男は、帽子の影で口端を僅かに歪めた。
「……ああ。……助けてやってくれ。……君たちなら、きっと『英雄』になれるはずだから」
工作員の芝居がかった懇願に背を押され、四人の若者はギルドを飛び出した。
自分たちが、小鬼たちの「内紛の残りカス」を掃除するためだけに、そして、一人の少女の心を壊すための「部品」として選ばれたことなど、夢にも思わずに。
輝かしい英雄譚を夢見る彼らの第一歩は、血塗られた巣穴へと踏み出された。