諦めるなんてもったいない!   作:赤井来

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頑張る理由はなに?

 手帳の三ページ分が、イグナールのことで埋まった。

 

 数えるつもりは、なかったのだと思う。

 けれど練兵場の柵の外で測量の記録を待つ時間、目はどうしても隅の従士へ行った。

 行った先で、わたしの目は勝手に数を数える。ずっと、そうやって生きてきた目だから。

 

——型、百二十回。昨日より二十多い。

——昼の食事、四半刻で切り上げ。鎧磨き。

——打ち合い、七本。七本とも剣を弾かれた。

——夜、灯りの下でまた鎧磨き。曇りはわたしの目には見えない。

 

 規定なら知っていた。

 

 スイの仕事の関係で、警備計画と一緒に綴じられた中隊の内規の写しが、宿の卓に置いてあったからだ。

 従士の課業の項。型は朝に五十、夕に五十。装具の手入れは就寝前に一刻。

 打ち合いは指導騎士の裁量、ただし従士の消耗を見て加減すること——。

 

 加減。

 

 その二文字を、わたしは三回読んだ。

 

 

 その夕方は雨上がりだった。

 

 練兵場の土はぬかるんで、イグナールの足は何度も滑った。

 それでも型は最後まで通った。百二十回。わたしは柵の外で数えていたから間違いない。

 最後の一振りのあと、彼は膝に手をついて肩で息をした。

 

 レオンは煙草に火を点けて言った。

 

「泥で足が止まるやつは、雨の夜に死ぬんだよ。——明日から朝の駆け足を二週増やせ。それと型はやり直しだ。いまのじゃまるっと無駄だ」

 

 わたしの足は柵を越えていた。

 

 越えてから、越えたことに気づいた。

 ぬかるみがブーツを掴む。練兵場の真ん中でレオンと、膝に手をついたままのイグナールが同時にこちらを見た。

 

「彼は規定の手順を満たしているわ」

 

 声は思ったよりまっすぐ出た。

 

「内規の従士課業の項。型は朝夕五十ずつ。彼は今日、百二十をやった。装具の手入れは就寝前に一刻、彼は二刻かけている。打ち合いは消耗を見て加減すること、とも書いてあるわ。あなたは加減をしていない。あなたの叱責は不当よ。明らかだわ」

 

 雨上がりの練兵場は静かだった。

 

 レオンは煙草の煙をゆっくりと吐いた。それから——笑った。

 

「内規ねぇ。よく読んでら」

 

「事実を言ったまでよ」

 

「おう、事実だな。紙の上のは、ぜんぶな」

 

 レオンは煙草を指に挟んだまま、イグナールのほうへ顎をしゃくった。

 

「おい。課業、いまの倍だ」

 

「——なぜ」

 

「決まってんだろ」

 

 男の目が、初めてまともにわたしを見た。

 けれどそれは、わたしが望んだような目でもなかった。

 

「庇われてるようじゃ、話にならねえなぁ? なぁ、従士君」

 

 イグナールの顔から音を立てて色が引いた。

 

「それとガキ。言ったよな? 柵から中に入るなと。入ったらつまみ出すってよ」

 

 レオンが片手を上げると、近くにいた騎士がふたり困った顔で寄ってきた。

 乱暴はされなかった。両脇から丁寧に、けれど有無を言わさずわたしは柵の外まで運ばれて降ろされた。

 ぬかるみを踏まないように降ろしてくれたあたり、騎士というのは律儀なものだと思う。

 

 柵の内側では、イグナールが型の一回目を振り始めていた。

 

 こちらを一度も見なかった。

 

 わたしはその場を離れればよかったのだと思う。

 

 離れられなかった。離れないまま、目はいつものように、勝手に数を数えはじめた。

 十、二十、五十。日が落ちて、練兵場に篝火が入った。百。百五十。

 泥に取られる足が、振りのたびに重くなっていくのが柵の外からでもわかった。二百。

 

 二百四十回目の素振りが終わったとき、空には星が出ていた。

 

 増えたぶんは、百二十回。

 

 つまり、それがわたしの介入につけられた値段だった。

 

 

「つまみ出されたねぇ」

 

 宿への帰り道、スイが言った。揶揄う声だったけれど、いつもよりすこしだけ柔らかかった。

 

「……うるさいわ」

 

「内規、ぜんぶ覚えてたんだ?」

 

「綴じてあったもの。読んだら覚えるわ」

 

「あはは。ボクの助手は優秀だなぁ」

 

 それきりスイは、良いとも悪いとも言わなかった。慰めも、説教もなかった。

 雪山の氷鬼と同じやり方だった。ただひとつだけ。

 

「ベル。明日、彼に会ったらどうするの?」

 

「……どう、って」

 

「んー、やっぱいいや。明日のベルが決めることだ」

 

 

 イグナールのほうから来たのは、翌日の昼だった。

 

 駐屯地の門前、井戸の脇。水を汲みに出たわたしの前に彼は立っていた。

 昨日の倍の課業のはずなのに、立ち方は崩れていなかった。

 ただ、目の下には課業のぶんの影が溜まっていた。

 

「昨日は」

 

 先に口を開いたのは彼だった。

 

「……ありがとうございました。と、言うべきなんだと思います。あなたは僕のために怒ってくれた」

 

「事実を言っただけよ」

 

「はい。でも、やめてください」

 

 静かな声だった。怒鳴られたほうがまだ分かりやすかったと思う。

 

「僕の足りなさは、僕のものです」

 

「……意味が、わからないわ」

 

「そのままの意味です」

 

「あなたは規定以上をやっているわ。それでも叱責される。理不尽よ。なぜあなたは我慢できるの」

 

「自分が、足りていないからです」

 

「足りているわ。数えたもの。型は百二十回、手入れは二刻——」

 

「数の話じゃ、ないんです」

 

 イグナールは首を振った。それから、ほんのすこしだけ声に熱が混じった。

 

「庇われて立ってる場所に、僕は立ちたくない。誰かが代わりに怒ってくれて、それで課業が軽くなったら——僕はまた、守られただけだ。それだけは嫌なんです」

 

 また。

 

 その一文字が引っかかった。引っかかったまま聞き返す前に、彼は頭を下げて駐屯地の中へ戻っていった。

 まっすぐな背中だった。まっすぐすぎて、どこかが軋んでいるような背中だった。

 

 善意は、はねつけられることがある。

 

 知らなかった。童話のどのページにも、書かれていなかった。

 胸の中の引っかかりは昨日より大きくなって、収まりどころを探したまま見つけられずにいた。

 

 

 レオンに聞いたのはその夕方だ。

 

 駐屯地の塀の外、彼はひとりで煙草を吸っていた。

 わたしが近づくと、面倒くさそうに眉を動かしたけれど、柵の外だからかつまみ出されはしなかった。

 

「あなたは、何故ひどい事をするの」

 

 前置きはしなかった。する意味がないと思った。

 

 レオンは煙を吐いて空を見た。雨上がりの雲が夕陽で半分だけ赤かった。

 

「——騎士の鎧ってのはな、嬢ちゃん」

 

「ええ」

 

「背中を守るようには、出来てねぇんだよ」

 

「…………」

 

「以上だ。散れ」

 

「答えになっていないわ」

 

「おう、なってねぇな」

 

 レオンはあっさりとそう言って、短くなった煙草を踏み消した。

 

「ガキ相手にまともに語る中身なんざ、持ち合わせてねぇんだ。質問は受付終了。——あと、明日からも柵には入るなよ」

 

 そして彼は、塀の内側へ消えた。

 

 はぐらかされた。それだけは明らかだった。けれど、はぐらかすために選んだ言葉にしては、妙に手触りの残る言葉だった。

 背中を守るようには出来ていない。手帳に書く前から、その一文だけもう覚えてしまっていた。

 

 

 夜。『隻眼の黒鶏』は変わらず賑やかだった。

 

 スイは今夜も騎士たちの卓で、何かの賭けに負けて笑われていた。

 ロビンの席は空だった。本部の遣いで隣街まで出ているらしい。

 

 古参の卓から、世間話が聞こえてきた。

 

「——にしても、あの坊主もよく保つねぇ。俺が従士の頃なら三日で逃げてら」

 

「逃げるなら早いほうがいいんだけどよ。あの人の下で続けるなんて地獄だろ」

 

「俺らがいう事かよ。……まぁ、なんだかんだでよ」

 

 杯を置く音がして、声がすこし誇らしげになった。

 

「第二中隊は、死なねえんだよ。十年だぞ、十年。戦死者ゼロだ。国境の小競り合いも、賊の討伐も、魔物の間引きもぜんぶくぐってな。——化け物染みた訓練の賜物さ」

 

「ちげぇねぇ」

 

 笑い声。杯のぶつかる音。話は次の自慢へ流れていった。

 

 わたしは葡萄水を一口飲んで、手帳を開いた。

 

——隊長は昔、優しい教え方で、従士をひとり死なせた。

——第二中隊は、十年、誰も死んでいない。

 

 ふたつの事実を、並べて書いた。

 

 並べると何かの形になりかけた。でも、なりかけてならなかった。

 あいだに置くべき言葉を、わたしはまだ持っていなかったからだ。

 

 その下にもう一行。

 

——騎士の鎧は、背中を守るようには出来ていない。意味はわからない。




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