諦めるなんてもったいない! 作:赤井来
手帳の三ページ分が、イグナールのことで埋まった。
数えるつもりは、なかったのだと思う。
けれど練兵場の柵の外で測量の記録を待つ時間、目はどうしても隅の従士へ行った。
行った先で、わたしの目は勝手に数を数える。ずっと、そうやって生きてきた目だから。
——型、百二十回。昨日より二十多い。
——昼の食事、四半刻で切り上げ。鎧磨き。
——打ち合い、七本。七本とも剣を弾かれた。
——夜、灯りの下でまた鎧磨き。曇りはわたしの目には見えない。
規定なら知っていた。
スイの仕事の関係で、警備計画と一緒に綴じられた中隊の内規の写しが、宿の卓に置いてあったからだ。
従士の課業の項。型は朝に五十、夕に五十。装具の手入れは就寝前に一刻。
打ち合いは指導騎士の裁量、ただし従士の消耗を見て加減すること——。
加減。
その二文字を、わたしは三回読んだ。
◆
その夕方は雨上がりだった。
練兵場の土はぬかるんで、イグナールの足は何度も滑った。
それでも型は最後まで通った。百二十回。わたしは柵の外で数えていたから間違いない。
最後の一振りのあと、彼は膝に手をついて肩で息をした。
レオンは煙草に火を点けて言った。
「泥で足が止まるやつは、雨の夜に死ぬんだよ。——明日から朝の駆け足を二週増やせ。それと型はやり直しだ。いまのじゃまるっと無駄だ」
わたしの足は柵を越えていた。
越えてから、越えたことに気づいた。
ぬかるみがブーツを掴む。練兵場の真ん中でレオンと、膝に手をついたままのイグナールが同時にこちらを見た。
「彼は規定の手順を満たしているわ」
声は思ったよりまっすぐ出た。
「内規の従士課業の項。型は朝夕五十ずつ。彼は今日、百二十をやった。装具の手入れは就寝前に一刻、彼は二刻かけている。打ち合いは消耗を見て加減すること、とも書いてあるわ。あなたは加減をしていない。あなたの叱責は不当よ。明らかだわ」
雨上がりの練兵場は静かだった。
レオンは煙草の煙をゆっくりと吐いた。それから——笑った。
「内規ねぇ。よく読んでら」
「事実を言ったまでよ」
「おう、事実だな。紙の上のは、ぜんぶな」
レオンは煙草を指に挟んだまま、イグナールのほうへ顎をしゃくった。
「おい。課業、いまの倍だ」
「——なぜ」
「決まってんだろ」
男の目が、初めてまともにわたしを見た。
けれどそれは、わたしが望んだような目でもなかった。
「庇われてるようじゃ、話にならねえなぁ? なぁ、従士君」
イグナールの顔から音を立てて色が引いた。
「それとガキ。言ったよな? 柵から中に入るなと。入ったらつまみ出すってよ」
レオンが片手を上げると、近くにいた騎士がふたり困った顔で寄ってきた。
乱暴はされなかった。両脇から丁寧に、けれど有無を言わさずわたしは柵の外まで運ばれて降ろされた。
ぬかるみを踏まないように降ろしてくれたあたり、騎士というのは律儀なものだと思う。
柵の内側では、イグナールが型の一回目を振り始めていた。
こちらを一度も見なかった。
わたしはその場を離れればよかったのだと思う。
離れられなかった。離れないまま、目はいつものように、勝手に数を数えはじめた。
十、二十、五十。日が落ちて、練兵場に篝火が入った。百。百五十。
泥に取られる足が、振りのたびに重くなっていくのが柵の外からでもわかった。二百。
二百四十回目の素振りが終わったとき、空には星が出ていた。
増えたぶんは、百二十回。
つまり、それがわたしの介入につけられた値段だった。
◆
「つまみ出されたねぇ」
宿への帰り道、スイが言った。揶揄う声だったけれど、いつもよりすこしだけ柔らかかった。
「……うるさいわ」
「内規、ぜんぶ覚えてたんだ?」
「綴じてあったもの。読んだら覚えるわ」
「あはは。ボクの助手は優秀だなぁ」
それきりスイは、良いとも悪いとも言わなかった。慰めも、説教もなかった。
雪山の氷鬼と同じやり方だった。ただひとつだけ。
「ベル。明日、彼に会ったらどうするの?」
「……どう、って」
「んー、やっぱいいや。明日のベルが決めることだ」
◆
イグナールのほうから来たのは、翌日の昼だった。
駐屯地の門前、井戸の脇。水を汲みに出たわたしの前に彼は立っていた。
昨日の倍の課業のはずなのに、立ち方は崩れていなかった。
ただ、目の下には課業のぶんの影が溜まっていた。
「昨日は」
先に口を開いたのは彼だった。
「……ありがとうございました。と、言うべきなんだと思います。あなたは僕のために怒ってくれた」
「事実を言っただけよ」
「はい。でも、やめてください」
静かな声だった。怒鳴られたほうがまだ分かりやすかったと思う。
「僕の足りなさは、僕のものです」
「……意味が、わからないわ」
「そのままの意味です」
「あなたは規定以上をやっているわ。それでも叱責される。理不尽よ。なぜあなたは我慢できるの」
「自分が、足りていないからです」
「足りているわ。数えたもの。型は百二十回、手入れは二刻——」
「数の話じゃ、ないんです」
イグナールは首を振った。それから、ほんのすこしだけ声に熱が混じった。
「庇われて立ってる場所に、僕は立ちたくない。誰かが代わりに怒ってくれて、それで課業が軽くなったら——僕はまた、守られただけだ。それだけは嫌なんです」
また。
その一文字が引っかかった。引っかかったまま聞き返す前に、彼は頭を下げて駐屯地の中へ戻っていった。
まっすぐな背中だった。まっすぐすぎて、どこかが軋んでいるような背中だった。
善意は、はねつけられることがある。
知らなかった。童話のどのページにも、書かれていなかった。
胸の中の引っかかりは昨日より大きくなって、収まりどころを探したまま見つけられずにいた。
◆
レオンに聞いたのはその夕方だ。
駐屯地の塀の外、彼はひとりで煙草を吸っていた。
わたしが近づくと、面倒くさそうに眉を動かしたけれど、柵の外だからかつまみ出されはしなかった。
「あなたは、何故ひどい事をするの」
前置きはしなかった。する意味がないと思った。
レオンは煙を吐いて空を見た。雨上がりの雲が夕陽で半分だけ赤かった。
「——騎士の鎧ってのはな、嬢ちゃん」
「ええ」
「背中を守るようには、出来てねぇんだよ」
「…………」
「以上だ。散れ」
「答えになっていないわ」
「おう、なってねぇな」
レオンはあっさりとそう言って、短くなった煙草を踏み消した。
「ガキ相手にまともに語る中身なんざ、持ち合わせてねぇんだ。質問は受付終了。——あと、明日からも柵には入るなよ」
そして彼は、塀の内側へ消えた。
はぐらかされた。それだけは明らかだった。けれど、はぐらかすために選んだ言葉にしては、妙に手触りの残る言葉だった。
背中を守るようには出来ていない。手帳に書く前から、その一文だけもう覚えてしまっていた。
◆
夜。『隻眼の黒鶏』は変わらず賑やかだった。
スイは今夜も騎士たちの卓で、何かの賭けに負けて笑われていた。
ロビンの席は空だった。本部の遣いで隣街まで出ているらしい。
古参の卓から、世間話が聞こえてきた。
「——にしても、あの坊主もよく保つねぇ。俺が従士の頃なら三日で逃げてら」
「逃げるなら早いほうがいいんだけどよ。あの人の下で続けるなんて地獄だろ」
「俺らがいう事かよ。……まぁ、なんだかんだでよ」
杯を置く音がして、声がすこし誇らしげになった。
「第二中隊は、死なねえんだよ。十年だぞ、十年。戦死者ゼロだ。国境の小競り合いも、賊の討伐も、魔物の間引きもぜんぶくぐってな。——化け物染みた訓練の賜物さ」
「ちげぇねぇ」
笑い声。杯のぶつかる音。話は次の自慢へ流れていった。
わたしは葡萄水を一口飲んで、手帳を開いた。
——隊長は昔、優しい教え方で、従士をひとり死なせた。
——第二中隊は、十年、誰も死んでいない。
ふたつの事実を、並べて書いた。
並べると何かの形になりかけた。でも、なりかけてならなかった。
あいだに置くべき言葉を、わたしはまだ持っていなかったからだ。
その下にもう一行。
——騎士の鎧は、背中を守るようには出来ていない。意味はわからない。
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