諦めるなんてもったいない!   作:赤井来

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あなたはどうしてそうするの

 丘が鳴った。

 

 最初は地鳴りだった。足の裏から骨へ昇ってくる、低く、長い音。

 入り口の杭が小刻みに揺れ、張り直したばかりの縄が、びん、と鳴いた。

 

「——全員、丘から離れて!」

 

 スイの声が誰よりも早かった。

 

「……あぁ、不味い。不味いよ」

 

 二度目の地鳴りが鳴る。

 そして丘が割れた。

 

 斜面そのものが内側から盛り上がり、赤土と岩盤を撒き散らして、裂ける。

 土砂の雨の向こうから、それは、出てきた。

 

 影が、凝ったような。

 

 最初に思ったのはそれだった。黒い。ただ黒いのではなく、形の輪郭が定まらない黒さだった。

 岩のような体表を、黒が水みたいに流れている。大きさは館の屋根よりも高い。

 四肢はあるのに、獣と呼ぶには、どこかが決定的に間違っていた。

 

 音がなかった。

 

 あれだけの巨体が土砂を割って立ち上がったのに、咆哮のひとつもない。

 荒い息も、唸りもない。裂けた丘の土が崩れる音だけが、ばらばらと遅れて届いた。

 

 わたしは、知っていると思った。

 

 知らないはずなのに知っていた。この静けさを。音のない、流れのない、凝って動かない——

 

 足元の影が、ぞわりと獣のほうへ撓んだ。

 

 

「負傷者を下げろ! ゴズ、お前らで担いで走れ! 街に鐘を鳴らせ、中隊を呼べ——防衛線は丘の下だ!」

 

 レオンの声で、止まっていた時間が動き出した。担架がふたつ、転がるように坂を下っていく。衛生兵が荷をまとめて岩陰へ伏せる。

 

 イグナールも、担架の柄に手を掛けた。掛けたところで、

 

「お前は残れ!」

 

「えっ」

 

「仕事変更だ。——嬢ちゃんに付け。離れるな、前に立て」

 

 レオンは抜剣しながら、振り向きもせずに言った。

 

「守り切れ」

 

 イグナールの目が見開かれた。何かを言いかけて言葉にならず、けれど次の瞬間には、彼は盾を取ってわたしの前に走り込んでいた。

 震える手でそれでも、盾の高さだけはいつも見た構えのとおりだった。

 

「ベルは…!」

 

 わたしの腕を引き寄せながら、スイが呟いた。そして首を振った。

 

「……いや、だめだ。下ろせない。あれは——多分、この子を見てる」

 

 獣に目はない。ないのに、見られていることがわかった。足元の影が、あちらへ撓む。

 

「ロビン! 走るか、残るか!」

 

「——弩、まだ荷にあるよな!」

 

「東の岩の上だ! 目を引け、深追いはするな!」

 

「へいへい! ちっとまってろ!」

 

 ロビンが荷から弩を引っ掴んで、岩場を駆け登っていく。

 

「四の五の言ってる暇はねぇぞ! 来やがる!」

 

 

 そこからのことは、断片でしか思い出せない。

 

 地面が爆ぜた。スイが指笛を鳴らし、風の槍が幾本も獣へ奔った——そして、届く寸前に解けた。巻き上げられるように。

 編まれた風が、獣の手前で糸に戻り、糸が霧に戻り、霧が何もない静けさに呑まれて消えた。

 

「——精霊が、喰われる!?」

 

「効かねぇなら援護だ! 合わせろ!」

 

 レオンが、抜き身の剣で獣の側面へ走り込んだ。前肢の薙ぎ払いを、信じられない身のこなしで膝下に潜ってかわし、すれ違いざまに脚の付け根を斬り上げる。

 黒い表面が裂け——裂けた端から、夜が流れて埋めた。

 

「ちっ、塞がりやがる! おい、時間は!」

 

「中隊の足なら、あと四半刻!」

 

「なら四半刻、こいつを丘から降ろさねぇ! 降りたら街だ!」

 

 丘の草の匂いも、鳥の声も、土の中の小さな気配も——気がつけば、何もかもが逃げ出していた。

 あの黒いもののの怒りを買わないように、息を止めているみたいだった。

 

 その息の詰まる均衡を、東の岩場からの弩が繋いでいた。

 

 静かな音と共に放たれるボルトは刺さらない。黒い表面に触れたそばから、流れる夜に呑まれて落ちる。

 それでも、レオンが離れる一瞬、スイが編み直す一瞬、決まってロビンの一射が獣の顔のあたりへ飛んで、その注意を散らしていた。

 

 獣の尾が、薙いだ。

 

 蠅が、鬱陶しくなったのだと思う。尾の一撃はロビンのいる岩場を根元から打ち、岩壁をまとめて砕いた。

 彼は寸前に飛び降りて——着地で足を取られ、転がった。その頭上に、砕けた岩壁が降る。

 家ほどもある岩の群れが、午前の灰色の空を割って降ってくる。

 

「おっさん——!」

 

 イグナールの叫び。彼はわたしの前から動けない。動いてはいけない。飛んできた礫が、構えた盾の上で爆ぜる。

 その盾の縁越しに、わたしは見ていた。転がったまま起き上がれないロビンと、降ってくる岩の雨を。

 

 考えるより先に、影が出た。

 

 遠い。昼の光の下でわたしの夜は薄い。それでも。

 

 届け。止まれ。

 

 降り注ぐ岩の群れに、伸ばしきった夜の先が触れる。

 

 そして岩々が——空中で止まった。

 

 ぴたり、と。落ちる途中の形のまま。砂の一粒、欠片のひとつまで縫い付けられたように。

 ロビンの頭上ぎりぎりのところで、家ほどの岩が静止していた。

 

「早く…ぅ! 長くは、保たないわ……!」

 

 ロビンが転がり出る。彼が範囲を抜けた瞬間、わたしは影を手放した。

 岩の群れが、半拍遅れた轟音とともに誰もいない地面へ崩れ落ちる。

 

「……はは。また、生き残っちまった」

 

 土埃の向こうから、乾いた笑いが聞こえた。

 

 わたしはそれを聞くことも出来ず、別のものを見ていた。

 

 影が、繋がったのだ。

 

 岩を止めた一瞬、伸ばしたわたしの夜の端が、獣の表面を流れる夜に触れた。触れて——視えた。

 あの定まらない黒の、ずっと奥。流れる夜の中心に、ひとつだけ、より深い夜が。

 心臓みたいに脈を打ちながら、巨体の中をゆっくりと泳いでいる。

 

「——核があるわ」

 

「核!?」

 

「あれの中よ! 影の奥に、芯がひとつ泳いでる! ……視えるの。あれは影だもの。影なら、わたしの庭よ」

 

「位置を寄越せ、ガキ!」

 

 レオンの声に、迷いがなかった。視えると言ったわたしの言葉を、彼は一拍も疑わなかった。

 

「胸の中央、いまは深い——っ、前肢を上げると、浅く浮くわ!」

 

 

 獣がこちらを向いた。

 

 岩を止めた影に、触れられたことに——あれは、応えたのだと思う。音もなく、まっすぐに、巨体ごとわたしへ。

 

「来るな……っ!」

 

 イグナールがわたしの前で盾を構え直した。膝が笑っている。それでも下がらなかった。

 下がれない理由をわたしはもう知っている。黒い爪が振り上げられる。

 

 盾ごと彼を消す軌道で——

 

 その軌道のことを、わたしはたぶん、一生忘れない。

 

 目に見えるほどの分厚い風の奔流が壁を作り、そして薄い紙を破るように貫かれる。

 一枚、二枚、スイの焦る声が聞こえたような気がした。

 瞬きも追いつかない速度で風は消え去り、その黒い爪がまっすぐと突き進む。

 

 ——これは、もう

 

 爪とイグナールの間に、横から、人が入った。

 

 何かが、飛び散った。

 

 赤いものと、銀色のものが一緒に。

 

 イグナールは盾ごと後方へ吹き飛ばされ、土埃の壁の中へ転がった。

 爪を受け止め、逸らし、流したレオンの身体は、そのまま地面へ叩きつけられていた。

 

「よぉ、大丈夫かガキ。不甲斐ない護衛を置いてすまねぇな」

 

「え…えぇ。でも」

 

 思わず目を逸らしかける。

 彼の左の脇腹は鎧ごと、ごっそりと抉れていた。

 爪のひと薙ぎが、胴の左側を削り取っていったのだ。そこから先は、見てはいけない形になっていた。

 

「静かに。大丈夫、大丈夫だからよ」

 

 口の前で一本指を立てたレオンはそのままゆっくりと起き上がる。

 

「——立て、イグナール。仕事中だぞ」

 

 レオンの声が飛んだ。平気な声だった。どこも欠けていない人の声だった。

 彼は立っていた。立てるはずのない身体で。

 

「は……はいっ!」

 

 埃の中でイグナールが立ち上がり、こちらに駆け寄ってくる気配。

 

「……ガキ! 核は!」

 

「……っ、浮いてくるわ。前肢を上げた胸の中央、浅いところ!」

 

「探索者ァ!」

 

「わかってる!」

 

 スイの両手がこれまでで一番速く翻った。編まれた風はレオンへと向かっていく。

 

「あいつに効かなくても——キミを強くすることなら、できる!!」

 

 風が、レオンを包んだ。

 

 両の脚に。新品のような剣身に。

 そして、崩れかけた左の脇を、内側から添え木みたいに支えるように厚く。

 

「……やるじゃねぇか!」

 

 レオンが、笑った。

 

 風に押された一歩目が人の速さを超えた。振り下ろされる前肢の付け根へ潜り、巨体の真下、夜の流れのいちばん濃い懐へ。

 両手で柄を握り込み、跳ね——風がその跳躍を、さらに上へ押し運ぶ。

 

 わたしの目には見えていた。

 

 剣の切っ先が流れる夜を割って、泳ぐ核を——正確に貫くのが。

 

 獣は、最期まで音を立てなかった。

 

 巨体の表面を流れていた夜がゆっくりと止まった。

 水が凍るのに似ていた。

 輪郭の定まらなかった黒が、ただの黒い巨大な塊になって、丘の斜面に静かに崩れ落ちた。

 

 

 世界に音が戻ってきていた。

 

 風が草を撫でる音。坂の下の遠い鐘の音。自分の心臓の音。

 鳥が一羽、何事もなかったように頭上を横切っていった。

 

 骸のそばで、レオンがゆっくりと腰を下ろした。

 

 黒い骸に身体を預けて、けがをみえないように。脚を投げ出し、空を仰いで心底うんざりした声で言った。

 

「……あー。くたびれた。歳だな、こりゃ」

 

 心の底から疲れた様だった。

 

 埃を払いながら立ち上がったイグナールの場所からは、きっとそう見えていた。

 

 だってあのけがを見ていないのだから。

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