諦めるなんてもったいない! 作:赤井来
「隊長……!」
埃を払い終えたイグナールが、骸にもたれるレオンへ駆け寄ろうとするが、レオンが手を挙げ制止する。
盾はひしゃげて、腕に提げたままだった。
「止まれ」
「はい!……自分は、その……申し訳、ありません。守れと言われたのに、最後は、庇われて——」
「……でけぇ声出すんじゃねぇよ。耳に響く」
レオンは黒い骸に右半身を預けたまま、顔だけをそちらへ向けた。怪我を隠すような座り方だった。
声はさっきまでと同じ、面倒くさそうな声だった。
「お前は立ってた。盾も上がってた。説教はまぁ沢山あるが、そりゃ帰ってからだな……それより従士。お前に任務だ」
「は……?」
「煙草だ。今すぐ煙草を持ってこい。一番近い店まで走れ。俺のは——」
レオンは、ちらりと自分の左を見下ろして、口の端だけで笑った。
「——切らしちまった」
「た、煙草って、そんな場合じゃ。隊長こそ、お怪我は」
「掠っただけだ。こうして座って休んでりゃそれでいい。——命令だ。復唱しろ」
イグナールの喉が、ひゅ、と鳴った。何かを感じ取りかけた目を、「復唱しろ」が、もう一度塞いだ。
「……っ、煙草を、買ってきます!」
「おう。そら急げ」
イグナールが坂を転げ落ちるように駆けていく。その背中が見えなくなるまでレオンは姿勢を崩さなかった。
見えなくなってから、長く、細く、息を吐いた。吐いた息に、ひゅう、と変な音が混じっていた。
「……遠い店だといいんだがな」
◆
ロビンが坂の下で声を張り上げて、登ってこようとする騎士たちを留めていた。
衛生兵だけが駆け寄って、レオンのけがを見て手を動かしかけ——レオンの右手に手首を掴まれた。
「いい」
「隊長、しかし」
「いいっつってんだ。……無駄だよ。お前にも分かってんだろ」
衛生兵は、唇を噛んで、下がった。
スイが、レオンの隣に腰を下ろした。わたしもその隣に膝をついた。
近くで見ると、彼の顔からはもう色というものが抜け始めていた。
「たばこ、持ってねぇか?」
「ごめんね。子連れだから、そういうのはやめたんだ」
「っけ。しけてやがる。……俺の人生は、いつだってそうだった」
レオンは笑った。笑うと息の変な音が大きくなった。
「……探索者。ひとつ、仕事の話だ」
「うん」
「報告書にゃ、ありのまま書け。盛るな、削るな。あれが何だったのか分からねぇってことを、分からねぇまんま、上に上げろ。……分からねぇもんを分かった顔で仕舞い込むのが、一番、後で人を殺すんだ」
「約束するよ」
「おう。なら、仕事の話は終わりだ」
「うん。——ありがとう。本当に、ありがとう」
わたしはわからなかった。
何もかもが、わからなかった。だから聞いた。
「どうして、庇ったの」
「あ?」
「わたしも、彼も。あなたは彼に、誰も守れないと言ったわ。規定以上をやっても、まだ足りないと。柵に入っただけのわたしをつまみ出して。……あなたは、彼を嫌っていたのではないの? わたしのことも。それなのに、どうして」
「……はぁ」
レオンは、心底けげんそうな顔でわたしを見た。
それから、ああ、と息だけで笑った。
「……簡単だろ」
色の抜けた顔の中で、目だけがまだ生きていた。
「誰かを護るために生きてきたんだ。そういうことだよ」
それだけだった。
説明はなかった。嫌っていたとも、いなかったとも言わなかった。
十年戦死者ゼロの中隊のことも、優しい教え方で死なせた従士のことも何ひとつ。
手帳の中で線で結ばれずにいたふたつの事実の間に、彼はその一本だけを置いて、あとは何も言わなかった。
◆
レオンの呼吸の間隔が、伸びはじめた。
吸って、長い間があって吐く。その「間」が、一回ごとにすこしずつ長くなっていく。
流れ出るものはもう布で押さえようもなくて、彼の時間が、左の傷から坂の土へこぼれ続けていた。
気がついたら、影が出ていた。
考えるより先に。岩を止めたときと同じだった。わたしの夜が、薄く彼の左半身を覆っていく。
止まれ。流れ出ていくものにわたしは命じた。止まれ。そのままで。お願いだからそのままで——
だめだった。
岩は止まった。湿気も、黄ばみも、三百年の館も止められた。
なのに、生きている人の中を流れる時間は、わたしの指の間を、砂みたいにこぼれていく。
それでも縋るように力を注ぐと、流れがほんのわずかに鈍った。
ほんのわずかに。それが限界だった。
「……なんだよ」
レオンが自分に纏わりつく影を見た。流れの鈍った傷口を。
それから…それからわたしを見て、ひどく可笑しそうに笑った。
「優しいじゃねぇか。……だけど、もういいよ」
「……でも」
「気にすんな。満足してるんだ」
満足。分からない。
わたしはずっと、止めることが守ることだと思っていた。部屋を止めて、絵本を止めて、オルゴールを止めて、自分を止めて——止めてさえいれば、何も失わずに済むのだと。
けれどいま、わたしの夜に包まれて流れを鈍らせているこの人は、止められながら少しも救われていない。救いはたぶん、もうとっくに彼が自分の足で取りに行ったあとなのだ。
あの懐へ、自分から前へ出たあの一歩で。
わたしは、影を引いた。
砂時計から手を離すみたいに。彼の時間が彼の速さで流れはじめた。
「……いい空だな」
レオンが上を見ていた。
つられて見上げた空は、いつのまにか灰色が割れて春の青が覗いていた。
「うん、そうだね」
スイが隣で静かに言った。
「俺には、もったいねぇな。……なぁ……」
最後のそれは誰に向けた言葉だったのか。
スイが手を伸ばして、レオンの瞼をそっと下ろした。
「おやすみ。いい夢を」
◆
イグナールが戻ってきたのはそれからすぐだった。
「隊長! 持ってきました……隊長?」
紙箱を握りしめたまま彼は、外套を掛けられたレオンの前で止まった。
衛生兵が顔を伏せる。ロビンが坂の下で帽子を取る。
「な——」
紙箱が地面に落ちた。
「何を……してるんですか! 隊長、ねぇ、嘘でしょう、隊長! 起きて、起きてください! 起きろよ、煙草、買ってきたんだ、釣りも、釣りも返すから——!」
「少年」
スイの声は少し震えていた。
「静かに。彼が……きもちよく逝けないだろうから」
イグナールの膝が折れた。
「掠っただけだって、言ったのに……あれ、僕を庇って……庇われたのは、僕なのに。気づきもしないで、僕は、煙草なんか……!」
「僕が……僕が弱いから……いつもそうだ……僕が、僕のせいで……!」
握った拳が土を打つ。一度、二度、何度も、何度も。誰も止めなかった。
坂の上の春の空の下で、嗚咽だけが長く続いていた。
◆
レオンに掛けられた外套の裾が、風で半分めくれてズレていた。わたしはそれを元に戻した。
それから、地面に落ちた紙箱から煙草を一本抜いた。
「……火を」
スイが指を鳴らすと、指先に小さな火が灯った。
借りた火で煙草の先を炙ると、知らない匂いの煙が細く立ち昇った。
それを、レオンの右手の、届くところの石の上にそっと置いた。
「おやすみなさい、レオンさん」
色のなくなった男の顔を見てわたしは言った。
「あなたのこと、大嫌いだったわ」
勝手に厳しくして、勝手に庇って、勝手に満足して、勝手に逝ってしまう。
残された側の手帳が、どれだけ意味のわからない言葉で埋まるかなんて考えもしないで。
煙草の煙が、まっすぐに昇って空に溶けていった。
その煙が燃え尽きる頃、第二中隊が丘に着いた。
駆け上がってきた騎士たちは骸を見て、外套を見て、ひとり、またひとりとその場に膝をついた。
誰も大きな声を出さなかった。
酒場で聞いた自慢話を思い出していた。
第二中隊は死なねえんだよ。十年だぞ、十年。
その十年が今日終わった。
終わらせたのが何だったのか、わたしはまだ手帳に書ける言葉を持っていなかった。