諦めるなんてもったいない!   作:赤井来

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本当に、自分勝手な人

「隊長……!」

 

 埃を払い終えたイグナールが、骸にもたれるレオンへ駆け寄ろうとするが、レオンが手を挙げ制止する。

 盾はひしゃげて、腕に提げたままだった。

 

「止まれ」

 

「はい!……自分は、その……申し訳、ありません。守れと言われたのに、最後は、庇われて——」

 

「……でけぇ声出すんじゃねぇよ。耳に響く」

 

 レオンは黒い骸に右半身を預けたまま、顔だけをそちらへ向けた。怪我を隠すような座り方だった。

 声はさっきまでと同じ、面倒くさそうな声だった。

 

「お前は立ってた。盾も上がってた。説教はまぁ沢山あるが、そりゃ帰ってからだな……それより従士。お前に任務だ」

 

「は……?」

 

「煙草だ。今すぐ煙草を持ってこい。一番近い店まで走れ。俺のは——」

 

 レオンは、ちらりと自分の左を見下ろして、口の端だけで笑った。

 

「——切らしちまった」

 

「た、煙草って、そんな場合じゃ。隊長こそ、お怪我は」

 

「掠っただけだ。こうして座って休んでりゃそれでいい。——命令だ。復唱しろ」

 

 イグナールの喉が、ひゅ、と鳴った。何かを感じ取りかけた目を、「復唱しろ」が、もう一度塞いだ。

 

「……っ、煙草を、買ってきます!」

 

「おう。そら急げ」

 

 イグナールが坂を転げ落ちるように駆けていく。その背中が見えなくなるまでレオンは姿勢を崩さなかった。

 見えなくなってから、長く、細く、息を吐いた。吐いた息に、ひゅう、と変な音が混じっていた。

 

「……遠い店だといいんだがな」

 

 

 ロビンが坂の下で声を張り上げて、登ってこようとする騎士たちを留めていた。

 衛生兵だけが駆け寄って、レオンのけがを見て手を動かしかけ——レオンの右手に手首を掴まれた。

 

「いい」

 

「隊長、しかし」

 

「いいっつってんだ。……無駄だよ。お前にも分かってんだろ」

 

 衛生兵は、唇を噛んで、下がった。

 

 スイが、レオンの隣に腰を下ろした。わたしもその隣に膝をついた。

 近くで見ると、彼の顔からはもう色というものが抜け始めていた。

 

「たばこ、持ってねぇか?」

 

「ごめんね。子連れだから、そういうのはやめたんだ」

 

「っけ。しけてやがる。……俺の人生は、いつだってそうだった」

 

 レオンは笑った。笑うと息の変な音が大きくなった。

 

「……探索者。ひとつ、仕事の話だ」

 

「うん」

 

「報告書にゃ、ありのまま書け。盛るな、削るな。あれが何だったのか分からねぇってことを、分からねぇまんま、上に上げろ。……分からねぇもんを分かった顔で仕舞い込むのが、一番、後で人を殺すんだ」

 

「約束するよ」

 

「おう。なら、仕事の話は終わりだ」

 

「うん。——ありがとう。本当に、ありがとう」

 

 わたしはわからなかった。

 

 何もかもが、わからなかった。だから聞いた。

 

「どうして、庇ったの」

 

「あ?」

 

「わたしも、彼も。あなたは彼に、誰も守れないと言ったわ。規定以上をやっても、まだ足りないと。柵に入っただけのわたしをつまみ出して。……あなたは、彼を嫌っていたのではないの? わたしのことも。それなのに、どうして」

 

「……はぁ」

 

 レオンは、心底けげんそうな顔でわたしを見た。

 それから、ああ、と息だけで笑った。

 

「……簡単だろ」

 

 色の抜けた顔の中で、目だけがまだ生きていた。

 

「誰かを護るために生きてきたんだ。そういうことだよ」

 

 それだけだった。

 

 説明はなかった。嫌っていたとも、いなかったとも言わなかった。

 十年戦死者ゼロの中隊のことも、優しい教え方で死なせた従士のことも何ひとつ。

 手帳の中で線で結ばれずにいたふたつの事実の間に、彼はその一本だけを置いて、あとは何も言わなかった。

 

 

 レオンの呼吸の間隔が、伸びはじめた。

 

 吸って、長い間があって吐く。その「間」が、一回ごとにすこしずつ長くなっていく。

 流れ出るものはもう布で押さえようもなくて、彼の時間が、左の傷から坂の土へこぼれ続けていた。

 

 気がついたら、影が出ていた。

 

 考えるより先に。岩を止めたときと同じだった。わたしの夜が、薄く彼の左半身を覆っていく。

 止まれ。流れ出ていくものにわたしは命じた。止まれ。そのままで。お願いだからそのままで——

 

 だめだった。

 

 岩は止まった。湿気も、黄ばみも、三百年の館も止められた。

 なのに、生きている人の中を流れる時間は、わたしの指の間を、砂みたいにこぼれていく。

 それでも縋るように力を注ぐと、流れがほんのわずかに鈍った。

 

 ほんのわずかに。それが限界だった。

 

「……なんだよ」

 

 レオンが自分に纏わりつく影を見た。流れの鈍った傷口を。

 それから…それからわたしを見て、ひどく可笑しそうに笑った。

 

「優しいじゃねぇか。……だけど、もういいよ」

 

「……でも」

 

「気にすんな。満足してるんだ」

 

 満足。分からない。

 

 わたしはずっと、止めることが守ることだと思っていた。部屋を止めて、絵本を止めて、オルゴールを止めて、自分を止めて——止めてさえいれば、何も失わずに済むのだと。

 けれどいま、わたしの夜に包まれて流れを鈍らせているこの人は、止められながら少しも救われていない。救いはたぶん、もうとっくに彼が自分の足で取りに行ったあとなのだ。

 あの懐へ、自分から前へ出たあの一歩で。

 

 わたしは、影を引いた。

 

 砂時計から手を離すみたいに。彼の時間が彼の速さで流れはじめた。

 

「……いい空だな」

 

 レオンが上を見ていた。

 

 つられて見上げた空は、いつのまにか灰色が割れて春の青が覗いていた。

 

「うん、そうだね」

 

 スイが隣で静かに言った。

 

「俺には、もったいねぇな。……なぁ……」

 

 最後のそれは誰に向けた言葉だったのか。

 

 スイが手を伸ばして、レオンの瞼をそっと下ろした。

 

「おやすみ。いい夢を」

 

 

 イグナールが戻ってきたのはそれからすぐだった。

 

「隊長! 持ってきました……隊長?」

 

 紙箱を握りしめたまま彼は、外套を掛けられたレオンの前で止まった。

 衛生兵が顔を伏せる。ロビンが坂の下で帽子を取る。

 

「な——」

 

 紙箱が地面に落ちた。

 

「何を……してるんですか! 隊長、ねぇ、嘘でしょう、隊長! 起きて、起きてください! 起きろよ、煙草、買ってきたんだ、釣りも、釣りも返すから——!」

 

「少年」

 

 スイの声は少し震えていた。

 

「静かに。彼が……きもちよく逝けないだろうから」

 

 イグナールの膝が折れた。

 

「掠っただけだって、言ったのに……あれ、僕を庇って……庇われたのは、僕なのに。気づきもしないで、僕は、煙草なんか……!」

 

「僕が……僕が弱いから……いつもそうだ……僕が、僕のせいで……!」

 

 握った拳が土を打つ。一度、二度、何度も、何度も。誰も止めなかった。

 坂の上の春の空の下で、嗚咽だけが長く続いていた。

 

 

 レオンに掛けられた外套の裾が、風で半分めくれてズレていた。わたしはそれを元に戻した。

 

 それから、地面に落ちた紙箱から煙草を一本抜いた。

 

「……火を」

 

 スイが指を鳴らすと、指先に小さな火が灯った。

 借りた火で煙草の先を炙ると、知らない匂いの煙が細く立ち昇った。

 それを、レオンの右手の、届くところの石の上にそっと置いた。

 

「おやすみなさい、レオンさん」

 

 色のなくなった男の顔を見てわたしは言った。

 

「あなたのこと、大嫌いだったわ」

 

 勝手に厳しくして、勝手に庇って、勝手に満足して、勝手に逝ってしまう。

 残された側の手帳が、どれだけ意味のわからない言葉で埋まるかなんて考えもしないで。

 

 煙草の煙が、まっすぐに昇って空に溶けていった。

 

 その煙が燃え尽きる頃、第二中隊が丘に着いた。

 

 駆け上がってきた騎士たちは骸を見て、外套を見て、ひとり、またひとりとその場に膝をついた。

 誰も大きな声を出さなかった。

 

 酒場で聞いた自慢話を思い出していた。

 

 第二中隊は死なねえんだよ。十年だぞ、十年。

 

 その十年が今日終わった。

 

 終わらせたのが何だったのか、わたしはまだ手帳に書ける言葉を持っていなかった。

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