諦めるなんてもったいない! 作:赤井来
葬送は三日後だった。
その間に、街は何度も色を変えた。
鐘が鳴り続けた日。王都の本隊が到着して、丘が天幕と学者で埋まった日。黒い骸の周りに何重もの縄が張られ、偉い人たちが青い顔で出入りした日。
スイは約束どおり、盛りも削りもしない報告書を書いて、本隊に渡した。
受け取った学者が三回読み返して、内容を確認していた。
「スイ殿。この、分からないというのは一体……?」
「うん。本当に何も分からないんだ」
スイは、そう答えた。
黒い骸は、王都へ運ばれることが決まったらしい。途中から刃がまるで通らなくなったのだという。
学者たちは骸を「検体」と呼び、騎士たちは誰もそれを名前で呼ばなかった。
葬送の朝は晴れた。
大聖堂ではなく、駐屯地の練兵場でやるのが騎士団のやり方らしかった。
彼が毎日煙草を吸いながら立っていた場所。
棺は第二中隊の騎士たちが担ぎ、思っていたよりずっとたくさんの街の人たちが塀の外まで列を作った。
弔辞は短かった。号令はひとつだけだった。
そのかわり、棺が閉じられる前に中隊の騎士たちがひとりずつ前に出た。
そしてひとりが一本ずつ、火のついていない煙草を棺の中へ入れていった。
百人ぶん。誰が決めたのでもないらしい。最初のひとりがそうしたから全員がそうした。
それだけのことらしかった。
列の最後が、イグナールだった。
彼は煙草を入れて、何か言おうと口を開けて、何も言えずに敬礼だけをした。
教本どおりの、まっすぐすぎる敬礼だった。
ロビンの姿は列の中になかった。
塀の外の、いちばん遠い木の下に彼はいた。
帽子を取って胸に当てて、棺がすっかり見えなくなるまでそこから動かなかった。
◆
大喧嘩はその翌日に起きた。
昼すぎの『隻眼の黒鶏』の前の通りだった。
わたしとスイが協会の出張所から戻る途中、店の扉が開いてロビンが出てきた——出てきた、というより零れ落ちてきた。
昼から深く飲んでいるのは遠目にもわかった。
いつもの「薄く」ではなかった。瓶ごと抱えて壁伝いに沈んでいた。
そこへ向かいから、イグナールが来た。
ふたりの足が、同時に止まった。
「……よう」
ロビンが瓶を持ち上げた。
「献杯、すっか。嬢ちゃんたちと隊長サマに——」
瓶が宙を飛んだ。
イグナールの手が、それを叩き落としていた。
石畳で瓶が割れて、安い酒が通りの中に散った。
「……何しやがる、ガキ」
「あんたこそ、何やってるんですか」
イグナールの声は、最初抑えられていた。でも、抑えられていたのは最初だけだった。
「葬式にも来ないで、昼から浴びるほど飲んで……あの人が死んだのに、あんたは、あんたはまだそうやって——どういうつもりなんだよ!」
「——ガキが」
ロビンが立った。
酔いつぶれていたとは思えないほどにまっすぐに立って、イグナールの胸ぐらを掴んだ。
「生き残っちまった大人の気持ちが、わかんのか!」
「わかるよ!!」
イグナールが、掴まれたまま言い返した。
「わかるに決まってるだろ! 俺だって生き残った! あの夜も、一昨日も! 父さんと母さんに守られて、隊長に庇われて、俺だけ、俺だけ何度でも生き残る! だから強くならなきゃいけないんだ、もっと、もっとだ——おっさんみたいに、酒に逃げてる暇なんか俺にはない!」
「逃げてるだと……? てめぇ……知った口を……!」
最初の拳がどちらのものだったか、わたしには分からなかった。
気がついたときには、ふたりは石畳の上でもつれていた。
殴り、掴み、転がり、また殴る。喧嘩としてはたぶん、ひどく下手な喧嘩だった。
急所を外し合っているのが、わたしにもわかる殴り合いだった。
足が半歩出て——止まった。
介入の値段をわたしは知っている。
それにあれは。あの拳と言葉はたぶん、ずっと宛先を失っていた感情だ。
横から取り上げていいものではないと思った。
店から騎士たちが飛び出してきて、ふたりを引き剥がした。
引き剥がされたふたりは、鼻血と涙でぐしゃぐしゃの顔で、それでもまだ互いに何か喚いていた。
わたしとスイは、通りの反対側から最後までそれを見ていた。
◆
宿への帰り道は夕方の色だった。
「それで。あの子は、大丈夫なのかしら」
「さぁ、どうだろうね」
「……無責任じゃないかしら」
隣のスイの足が、半歩ぶんだけ、遅れた。
「…………」
一拍だけ、いつも軽口の絶えない口が、何も言わなかった。
夕陽の中で、その横顔がどんな顔をしていたのか、わたしは見ないでおいた。
「……面白いことを言うね!」
戻ってきた声は、いつもの声だった。
「ボクらにはボクらの、彼には彼の人生があるんだ。少し相乗りしたからって、彼のすべてを知った気になるのは、良くない事だよ」
「そうかしら」
「そうだよ。彼がどうなるかは、これからの彼が決めるんだ。復讐に取りつかれるのも、誰かを守るために戦うのも、彼次第。——ね? 明らかだろう?」
わたしはすこしだけ黙った。
夕陽が城壁の上の旗を赤く染めていた。あの練兵場で、今日も誰かが型を振っているはずだった。
彼の明日をわたしは決められない。決められないことを、寂しいと呼ぶのか、正しいと呼ぶのか、わたしはまだ知らない。
「……そう、そうね。明らかだわ」
隣でスイが、すこしだけ笑った気配がした。
◆
発つまでの十日のあいだに、ひとつだけ手帳に書かなかったことがある。
夜中にふと目が覚めた。月のない夜だった。スイが窓辺にいた。
わたしの目にだけ、その輪郭が見える。眠っていないのは姿勢でわかった。
スイは窓の外も見ずに、ただ左の手首を、ゆっくり、ゆっくり、擦っていた。長いこと。とても、長いこと。
「……ん〜。何か楽しいこと、ないかなぁ」
独り言はいつものそれだった。
いつものそれより、ずっと小さかった。
わたしは寝返りのふりをして目を閉じた。聞かなかったことにするのが正しいのかどうか、わからなかったからだ。
翌朝のスイはいつものスイだった。四と九の区別のつかない字で旅支度の覚え書きを書いて、宿の朝食のパンが固いと文句を言っていた。
だからわたしも書かないことにした。
◆
ヴェルムを発ったのはそれから十日ほど後だった。
スイの契約は、報告書をもって完了になった。
丘は王都の管轄に変わり、わたしたちの仕事はもうそこにはなかった。
出立の朝、南の街門にロビンが立っていた。
顔の痣はまだ青黒く残っていた。けれど、酒の匂いはしなかった。
「よう。……餞別はねぇぞ。伝令の給金は安いんだ」
「要らないわ」
「だな。——嬢ちゃん。字ぃ、書けるよな」
「書けるわ。あなたより上手よ、たぶん」
「だろうな。俺は口と物を運ぶのが仕事だからな」
ロビンは笑って、それからぶっきらぼうに言った。
「行き先が決まったら、協会気付で居場所くらい知らせろ。……こっちのくだらねぇ近況も、たまには書いてやるよ。あの馬鹿が今朝も型をこなしてた、とかな」
「くだらなくないわ。それ」
「……そうか」
ロビンは帽子のつばを下げて、それきり何も言わなかった。
◆
街道に出て城壁が小さくなった頃、わたしは一度だけ振り返った。
手帳には、昨日のうちに書いておいた。
書いては消し、消しては書いて、汚いページの最後に残ったのは、短い数行だった。
——レオンさんが死んだ。
——わたしは、彼が嫌いだった。
——それなのに、彼の言葉が忘れられない。
その下の一行だけ、わたしはまだインクを乾かせずにいる。
——これは、裏切りかしら。