諦めるなんてもったいない!   作:赤井来

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幕間三

旅の手記。

 

ヴェルムを出て三カ月。今日の道は良かった。

秋の気配が早い土地で、熱さも和らぎ、街道の並木は上のほうから色づき始めている。

ベルはそれを「葉も錆びるのね」と言った。

錆びる、ときた。ボクは七百年生きて、秋をそんなふうに言った人をほかに知らない。

 

それからベルは、生まれて初めての手紙を書いた。

宛先はヴェルムの飲んだくれ殿。書き出しを三回も書き直して、結局

 

拝啓 ロビンさん。喧嘩の傷は治りましたか。酒を飲みすぎてはいけません

 

だ。手紙というより査察だね。あの飲んだくれ殿がどんな顔で読むのか、見られないのが残念で

 

 

 だめだな。今夜は続かない。

 

 インクが乾く。ペンを置く。

 

 部屋の隅の姿見の前で、上着を脱いだ。

 

 左の手首から肘へ。肘から肩へ。肩から鎖骨へ。

 

 灰褐色の、固い筋が走っている。

 木目によく似た模様の、ひび割れた乾いた筋だ。

 指で触れると硬い。爪で叩くと、こん、と音がする。

 そこには、ボクの温度がない。

 

 手首だけだったんだけどなぁ、春までは。

 

「……参ったなぁ」

 

 鏡の中の間抜けな顔に、言ってやった。

 

「責任ってやつは、苦手なんだけどなぁ」

 

 あの遺跡には、何百年も誰も入らなかった。

 半年前に口が開いてからも、覗いた人間は何人もいた。

 盗掘者のふたりに至っては、ひと晩まるごと中にいた。それでもあれは起きなかった。

 

 起きたのは、七百年もののエルフとかわいらしい闇妖精が、懐のいちばん深いところまで降りた日だ。

 

 偶然、という言葉は便利だね。

 ボクは昔から便利な言葉が嫌いだ。

 

 報告書には、ぜんぶありのまま書いた。約束したからね。

 覚醒の原因についても「不明」とだけ書いた。嘘じゃない。確信なんてどこにもない。

 ないけど——あの人は言った。分からないものを分かった顔で仕舞い込むのが、後で人を殺すんだと。

 

 ボクは、それをやったのかもしれないよ。レオン。

 キミを死に追いやったのは、ボクの分かった顔だったのかも…なんてね。

 

 ペンを取り直す。手記くらいには、正直に書いておくべきなんだろう。

 もしもの時は、この手記がボクの遺書になるのだから。

 ボクの身体に何が起きていて、それがどういう意味なのか。エルフの終わりがどういう形をしているのか。

 

 書きかけた。

 

 一文字目の、縦の棒を引いたところで手が止まった。

 

 横線を足せなかった。

 

 ぐしゃぐしゃと塗り潰す。ページの上には、何の字になり損ねたのかも分からない黒い消し跡だけが残った。

 我ながら、見事な往生際の悪さだ。ほんと、笑えちゃうね。

 

 ……はぁ。

 

 隣の寝台で、ベルが眠っている。乱れた毛布を抱くように。ベルは可愛いね。

 さて、明日はあの子に何を見せようか。峠を越えれば葡萄の段々畑だ。

 収穫の時期なら、荷車が紫色の山を運んでいく。あの子はきっと「葡萄が、渋滞しているわ」とか言う。賭けてもいい。

 

 見たいものも、見せたいものも、まだまだ沢山ある。

 

 それがいちばん効く薬なんだ。

 

 まだ。

 

 まだ、世界はこんなに美しいんだから。

 

 

 

 ——結局、これ以上文字を書くことはできなかった。

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