諦めるなんてもったいない! 作:赤井来
旅の手記。
ヴェルムを出て三カ月。今日の道は良かった。
秋の気配が早い土地で、熱さも和らぎ、街道の並木は上のほうから色づき始めている。
ベルはそれを「葉も錆びるのね」と言った。
錆びる、ときた。ボクは七百年生きて、秋をそんなふうに言った人をほかに知らない。
それからベルは、生まれて初めての手紙を書いた。
宛先はヴェルムの飲んだくれ殿。書き出しを三回も書き直して、結局
拝啓 ロビンさん。喧嘩の傷は治りましたか。酒を飲みすぎてはいけません
だ。手紙というより査察だね。あの飲んだくれ殿がどんな顔で読むのか、見られないのが残念で
◆
だめだな。今夜は続かない。
インクが乾く。ペンを置く。
部屋の隅の姿見の前で、上着を脱いだ。
左の手首から肘へ。肘から肩へ。肩から鎖骨へ。
灰褐色の、固い筋が走っている。
木目によく似た模様の、ひび割れた乾いた筋だ。
指で触れると硬い。爪で叩くと、こん、と音がする。
そこには、ボクの温度がない。
手首だけだったんだけどなぁ、春までは。
「……参ったなぁ」
鏡の中の間抜けな顔に、言ってやった。
「責任ってやつは、苦手なんだけどなぁ」
あの遺跡には、何百年も誰も入らなかった。
半年前に口が開いてからも、覗いた人間は何人もいた。
盗掘者のふたりに至っては、ひと晩まるごと中にいた。それでもあれは起きなかった。
起きたのは、七百年もののエルフとかわいらしい闇妖精が、懐のいちばん深いところまで降りた日だ。
偶然、という言葉は便利だね。
ボクは昔から便利な言葉が嫌いだ。
報告書には、ぜんぶありのまま書いた。約束したからね。
覚醒の原因についても「不明」とだけ書いた。嘘じゃない。確信なんてどこにもない。
ないけど——あの人は言った。分からないものを分かった顔で仕舞い込むのが、後で人を殺すんだと。
ボクは、それをやったのかもしれないよ。レオン。
キミを死に追いやったのは、ボクの分かった顔だったのかも…なんてね。
ペンを取り直す。手記くらいには、正直に書いておくべきなんだろう。
もしもの時は、この手記がボクの遺書になるのだから。
ボクの身体に何が起きていて、それがどういう意味なのか。エルフの終わりがどういう形をしているのか。
書きかけた。
一文字目の、縦の棒を引いたところで手が止まった。
横線を足せなかった。
ぐしゃぐしゃと塗り潰す。ページの上には、何の字になり損ねたのかも分からない黒い消し跡だけが残った。
我ながら、見事な往生際の悪さだ。ほんと、笑えちゃうね。
……はぁ。
隣の寝台で、ベルが眠っている。乱れた毛布を抱くように。ベルは可愛いね。
さて、明日はあの子に何を見せようか。峠を越えれば葡萄の段々畑だ。
収穫の時期なら、荷車が紫色の山を運んでいく。あの子はきっと「葡萄が、渋滞しているわ」とか言う。賭けてもいい。
見たいものも、見せたいものも、まだまだ沢山ある。
それがいちばん効く薬なんだ。
まだ。
まだ、世界はこんなに美しいんだから。
——結局、これ以上文字を書くことはできなかった。