諦めるなんてもったいない!   作:赤井来

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第四章
何を知っているのかしら


 ロビンからの返事は、三つ目の街の協会でわたしたちに追いついた。

 

 下手な字だった。下手な上にところどころインクが滲んで、力の入れ方まで読めてしまう字だった。

 

『よう、嬢ちゃん。査察みてえな手紙をありがとよ。報告させてもらうが酒は断った。三ヶ月になる。今は死ぬほど不味い茶を飲んでるんだ。そんでイグナールは騎士団に残ったぞ。本部預かりのまま従士を続けるんだとよ。』

 

 それから、行を変えて一行だけ。

 

『ガキに殴られて目が覚めた。顛末は以上だ。』

 

 以上、で済む顛末ではなかったと思う。けれど、それ以上は書かれていなかった。

 書かれていないところまで読むのは野暮だと、わたしは知っている。

 

——ロビンさん、禁酒三月。イグナール、従士続行。

 

 手帳に写してわたしは返事を書いた。葡萄の渋滞のこと。スイが川で靴を片方流したこと。茶が不味いのは淹れ方の問題ではないかということ。

 

 手紙というのは不思議なものだ。

 書いている間、遠くの人が少しだけ近くにいる。

 

 

 巡礼都市サーリャは鐘の音でできた街だった。

 

 街の中心の丘に、白い大聖堂が建っている。どの通りを歩いていても、視界のどこかに尖塔があって、刻限ごとに鐘が鳴る。

 道行く人の足は、聖堂に近づくほどゆっくりになった。急ぐことが失礼にあたる場所が世界にはあるらしい。

 

「ここの大聖堂にはね、ボクの古い知り合いがいるんだ」

 

 参道の石段を登りながら、スイが言った。

 

「数十年来の腐れ縁でね。口が悪くて、声が大きくて、目端が利く。——ベルとは気が合うか、最悪に合わないか、どっちかだと思う」

 

「どちらでもいいわ」

 

「あはは。それでこそベルだね」

 

 

 大聖堂の中は外の白さとは別の色をしていた。

 

 高い天井。色硝子を透った光が石の床に七色の池を作っている。けれどわたしの目を引いたのは光のほうではなかった。

 

 本堂をぐるりと囲む長い回廊の、壁際の低い棚に——小さな灯が並んでいた。

 

 掌に載るほどの素焼きの皿。

 その一つひとつに、豆粒ほどの火が灯っている。

 十や二十ではない。回廊の奥へ、曲がり角の先へ、見渡す限りずっと。名札はない。誰のための灯なのかどこにも書かれていない。

 ただどの皿も埃ひとつなく、どの火も切らされずに灯っていた。

 

 わたしは目で数えはじめて——途中でやめた。

 

「……数えきれないわ」

 

 それだけ呟いて先を歩くスイを追った。

 

 

「おーい、いるかーい」

 

 スイは案内も乞わずに本堂の脇の渡り廊下をずかずかと進んでいった。

 巡礼者の列に怒られないのが不思議なくらいの足取りだった。

 やがて、奥の中庭に面した一角から大きな声が返ってきた。

 

「うるさいねぇ、誰だい礼拝の最中に——」

 

 中庭の井戸端に女の人がいた。

 

 四十半ばくらい。恰幅がよくて、袖をまくり上げて、洗い物の桶を抱えている。

 聖女さま、と参道で聞いていたから、わたしは勝手に絵姿のような細い人を想像していた。

 違った。八百屋のおばさまが法衣を着たらこうなると思う。

 

 その人はスイの顔を見て桶を取り落としそうになっていた。

 

「ん? アンタ……あほエルフじゃないか! まーだ生きてたのかい!」

 

「ひどい第一声だなぁ。久しぶりだね、聖女サマ」

 

「サマはよしとくれ、鳥肌が立つ。何年ぶりだい。二十年? 三十年? 顔が変わらないから勘定が狂うんだよ、アンタらエルフは」

 

「二十六年ぶり。ボクは数えてたよ」

 

「気色悪いねぇ!」

 

 ふたりの会話は速かった。ムータンとの応酬とも、騎士たちとの軽口とも違う速さだった。

 この速さは長い時間をかけてしか作れない速さだ。

 

 それから聖女と呼ばれた人の目がスイの肩越しにわたしを見つけた。

 

「おや。連れがいるのかい。アンタが子連れとは、明日は槍でも降る——」

 

 その口がふっと止まった。

 

 彼女の目がわたしの顔を見ている。そして、何かを確かめるみたいに、ほんの一瞬だけ細くなって。

 

「……ベル?」

 

 呼ばれた。

 

 その呼び方で初対面の人に呼ばれた。

 

 肌が粟立った。スイに呼ばれたときとは違った。スイのそれはいつのまにか馴染んでいた。

 けれどこの人のそれは——まるで、ずっと前からわたしをそう呼んでいた人の口ぶりだった。

 知らないはずのことを知られている。手帳の中身を、断りなく読まれたような。

 

「……どうだい?おばさんとお話でもしないかい?」

 

「……失礼な人、お断りよ。明らかね」

 

 一歩引いてわたしは言った。声が思ったより硬くなった。

 

 聖女はまばたきをひとつして、それから、からからと笑った。

 

「おお、怖い怖い。悪かったね、嬢ちゃん。——いやなに、メイベルって名乗られる前に、ベルって顔をしてたもんだからさ。アタシは目端が利くんだよ、昔から」

 

「名乗っていないわ。名前も、何も」

 

「おっと、そうだったかい」

 

 聖女はまるで悪びれずに桶を抱え直した。

 

「なら改めてだ。アタシはこの聖堂の留守番のばばあ。世間じゃ聖女だの何だの呼ばれてるが、中身はこの通りさ。——あほエルフ共々、飯くらい食っていきな。今夜は芋の煮込みだよ」

 

 そう言ってさっさと背を向けて歩き出す。

 

 スイが「ほらね」という顔でわたしを見た。どちらなのかはまだわからなかった。気が合うのか、最悪に合わないのか。

 

 

 芋の煮込みは拍子抜けするほどおいしかった。

 

 聖堂の裏手の飾り気のない台所。長い机にわたしたちと、聖堂の働き手の人たちが何人か。

 聖女は鍋を抱えてきて、誰の椀にも山盛りによそった。よそいながら喋った。よく喋った。

 スイの昔の失敗談を三つ、働き手の人たちに披露して、スイが「それは言わない約束——」と言い終わる前に四つ目を始めた。

 

「——でさ、この阿呆。解呪の依頼だってのに呪いの壺を素手で開けてね。三日間、喋るたびに口から蛙の声が出るようになったのさ」

 

「それ、二十八年前の話じゃないか!」

 

「アタシの中じゃ昨日だね」

 

 エルフと人の時間間隔が逆転しているようで少し面白かった。

 笑い声の中で、わたしは芋を食べていた。食べながら、いつものように人の顔を見ていた。

 笑う人の顔。笑わせる人の顔。覚えておいて、あとで手帳に——

 

「嬢ちゃん」

 

 ふいに声がこちらへ来た。

 

「アンタ、匙の進みより目の進みのほうが速いね。さっきから人の顔ばっかり見てる」

 

「…………」

 

「で、夜になったら書くんだろ。今日見たもんをぜんぶ。——図星かい」

 

 匙が止まった。

 

 この人はただ見ていただけだ。わたしと同じやり方でわたしを見ていた。

 それだけのことなのに、手帳の表紙を断りなく撫でられたような心地がした。

 

「……悪いこと、かしら」

 

「いんや、ちっとも」

 

 聖女は自分の椀に芋をよそいながら、こともなげに言った。

 

「書き留めるってのは、大事にするってことさ。アタシは好きだよ、そういうの。——ところで嬢ちゃん、滞在は長いのかい。気が向いたらでいいけどね、今度、おばさんとゆっくりお話でもどうだい。アンタの旅の話、聞きたいねぇ」

 

「……遠慮するわ」

 

 匙を置いてわたしは答えた。

 

 聖女は気を悪くした様子もなく、はん、と笑った。

 

「振られたよ。見たかいアンタたち。アタシ、この小さなお嬢ちゃんに振られたんだよ」

 

「あはは。ベルは手厳しいんだ」

 

「いいねぇ。手厳しい奴は長生きするよ」

 

 食卓はまた別の話で笑い出した。わたしは残りの芋を食べた。おいしかった。

 でも、おいしかったことと、この人が苦手かもしれないこととは別の話だった。

 

 

——聖女。口が悪い。声が大きい。八百屋のおかみさんに似ている。

——わたしを「ベル」と呼んだ。名乗る前に。

——「ベルって顔」とは、どんな顔かしら。要観察。

——芋の煮込みは、おいしかった。お話は、遠慮した。




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