諦めるなんてもったいない! 作:赤井来
まどろみは、音から破られた。
こん、こん——こぅん。
板を叩く音。それから、木と木の擦れ合う、長く細い音。
似た音を聞いたことがある。
大工のおじさまがこの扉を仕立てていたときの几帳面な音。
おじさまは耳が遠くて、声がとても大きかった。お父さまはその大声に毎回すこし笑っていた。
見られている。
意識の縁で何かが聞こえ、わたしはゆっくりと瞼を持ち上げる。
光。
小さなランタンの明かりが、闇に馴染みきったわたしの目を刺した。眩しい、という感覚を思い出すのに、すこしだけ時間が要った。
光の向こうに、誰かが立っていた。
長い耳。闇の中でも淡く分かる色の髪。
狭い入り口から身を屈めてこちらを覗き込む、見知らぬ顔。
「だれかしら」
いつぶりかも分からない程に久しぶりに声を出した。
驚くほど平らに響いた。
怖いとは思わなかった。この部屋に他人が立っているのは初めてのことだったけれど、初めてのことが起きたからといって、心が動くとは限らない。
心とはそういうものだと知っている。
長く使わない部屋の家具のように、布を掛けてしまっておける。
「おはよう、起こしちゃったかな」
エルフは、まるで寝坊した家族にかけるような声でそう言った。
「なにかしら」
「ボクはスイ。探索者をやってるエルフだよ。この街の領主さんに頼まれてね、この館を調べに来たんだ」
領主。
その言葉に、わたしの意識がわずかに浮上する。
「お父さまの使いの方?」
「……うーん」
エルフは困ったように頭を掻いた。それから、入り口の縁に腰を下ろした。
狭い通路に長い足を畳んで、ランタンを床に置く。逆光だった顔に、下から橙色の明かりが当たる。
若い顔。けれど、その目はおばあさまに似ていた。
「ねぇ、キミ。聞いてもいいかな。キミはいつから、ここにいるの?」
「お父さまたちが帰るまで、ここにいるの」
「……それは、いつから?」
「お父さまたちが、帰るまでよ」
質問の意味が分からなかったから、わたしは同じことをもう一度言った。
いつから、なんてどうでもいいのに。大事なのはいつまでだけだ。
エルフはしばらく黙って、わたしの顔を見ていた。それから、ひどくゆっくりと話し始めた。
外の話だった。
この街の名前が、昔とは変わっていること。領主の家が、もうずっと別の家系であること。
この館に住んでいた一族のことを、正しく覚えている者は街にひとりもいないこと。
館は「呪いの館」と呼ばれて、人々に怖がられていること。
壊そうとした者が何人もいて、そのたびに不思議なことが起きて誰も近づかなくなったこと。
館の外で、数えきれないほどの季節が巡ったこと。
わたしは黙って聞いていた。
書庫の本を読むときと同じだ。文字は文字。お話はお話。
それらはページの中にあって、ページの外には出てこない。
エルフが話し終えたとき、部屋にはランタンの芯が燃える音だけが残った。
「そう。でも駄目よ」
わたしは言った。
「ここはわたしとお父さまのお家なのだから」
「……」
「あなたの言うとおり、外で何があったのだとしても、ここがわたしのお家であることは変わらないでしょう。お父さまは帰ってくる。明らかだわ」
明らかだわ。
口にすると、胸の奥がすっと静かになる。ずれた布を、もう一度掛けなおすように。
エルフは何も言い返さなかった。ただ、橙色の明かりの中で、その古い目がわたしをじっと見ていた。値踏みするのでもなく、憐れむのでもなく——なにか、もっと失礼な見方だった。
「キミ、名前は?」
「メイベル」
「メイベル。そっか」
エルフは、その名前を口の中で転がすように繰り返してから、立ち上がった。そして狭い天井に頭をぶつけて、いたた、と顔をしかめた。
「ボク、もうすこし館を見てまわるよ。キミは寝ててもいいし、起きててもいいからね」
「あなたに言われなくても、そうするわ」
「あはは。手厳しいね」
足音が遠ざかっていく。埃を踏まない、不思議な足音だった。
わたしは闇の中に座ったまま、膝を抱えた。
眠ろうと思った。いつものように、時間をたっぷりと飛ばして。
次に目を開けるころには、あのエルフはいなくなっているだろう。
怪奇現象に飽きた大工たちが、いつもそうだったように。
なのに、その夜に限って眠りはなかなか降りてこなかった。
◆
目を閉じるといつもの朝が来る。
三百年、擦り切れるほど巻き戻してきたあの朝が。
——館じゅうがざわめいていた。
廊下を行き交う鎧の音。荷を運ぶ声。
普段は物静かな家令までが、早口で誰かに指示を出していた。
窓の外はまだ薄暗くて、空の端だけが灰色に滲んでいた。
お父さまは、玄関広間でわたしの前に膝をついた。
旅装のお父さまを見るのは初めてだった。いつもの柔らかな部屋着ではなく、硬い革と、闇の色をした外套。それでも、わたしの両肩に置かれた手は、いつもどおりに優しかった。
「いいかい、ベル。よくお聞き」
「はい、お父さま」
「この館から出てはいけないよ。僕たちが帰るまで、隠れておくんだ」
「……みんな、行ってしまうの?」
「ああ。今日は、館のみんなを連れて行く。だから、ベルがひとりでもさみしくないように——ほら、あの部屋があるだろう。おじさんが作ってくれた、ベルだけの秘密のお部屋。眠るときと、知らない人が来たときはあそこに隠れるんだ。できるね?」
「もちろんよ。……お父さま、いつ帰るの?」
お父さまは、すこしだけ黙った。
その沈黙の長さを、わたしは三百年かけてもまだ測りきれない。
「——なるべく、早く帰るよ」
それから、お父さまは笑った。
「そうだ。帰ったら、あの絵本の続きを探してあげよう」
「ほんとうに?!」
胸の中の絵本を、わたしはぎゅっと抱きしめた。『ほしのみち』。
何度も何度も読んだから、表紙の角がすこし柔らかくなっている。
星々を渡る女の子のお話。最後のページで、女の子は影の星に降り立つ。
つづく、ともなんとも書かれていないまま、お話はそこで終わってしまう。
「約束よ、お父さま! 女の子は影の星でどうなるのかしら? ずっと気になっていたの」
「ふふ、それは読んでのお楽しみだね」
お父さまは立ち上がり、わたしの手を引いて歩き出した。
廊下の途中、一枚の絵の前でお父さまの足が一瞬だけ止まった。
高いところに掛かった、大きな絵。
わたしはその絵を見あげない。
ずっとそうしてきたように、お父さまの外套の裾だけを見ていた。
「……ベル」
「なあに?」
「どうしても挫けそうなときには、どうか思い出してほしいんだ。僕たちがお前を、どんなに愛しているか」
「はい、お父さま」
「それから——もしも。もしもベルがここを出たいと、そう強く思ったときには、その気持ちに従うんだ。いいね」
それは変な言いつけだった。出てはいけないと言ったすぐあとで、出たくなったら出なさいと言う。
わたしは意味がわからなくて、でもお父さまが真剣な目をしていたから、はい、とだけ答えた。
玄関の大扉が開いて、灰色の朝が流れ込んできた。
鎧の列が坂を下っていく。
お父さまは列の先頭で一度だけ振り返り、唇の前に人差し指を立てた。
——隠れておいで。
わたしは頷いて、扉の陰に身を引いた。
それが最後。
館は、その朝を最後に空っぽになった。
◆
エルフは次の夜も館にいた。
その次の夜も。
わたしは眠りに沈み損ねたまま、隠し部屋の闇の中で館を歩き回る気配を聞いていた。
書庫の本をめくる音。何かの瓶を振る音。ひとりごと。ときどき、ひどくつまらない冗談を言って、自分で「……いや、いまのは違うな」と直す声。
三日目の夜、わたしは隠し部屋を出た。
眠れないのなら、いつもの夜と同じことをするまでだ。
書庫で本を読み、お父さまの書斎で止まったオルゴールを眺め、それから眠る。それがわたしの夜だった。
でも誰かがいる夜に書庫へ出たことなんて、三百年で一度も——
「……わたしはわたし。明らかだわ」
他人がいるからといって、自分を変える必要はない。
書庫に入ると、スイは床に座り込んで本を読んでいた。
「やぁ、メイベル。眠れないの?」
「そうね、うるさいひとがいるから」
「これでも静かにしてたつもりなんだけどなぁ」
わたしは答えず、下から二段目の棚に手を伸ばした。
『ほしのみち』
三百年前と変わらない、すこし柔らかい表紙の角。定位置の椅子に座って、ページを開く。
星々を渡る女の子は、今夜も自慢げな星たちとお話をする。
青く光る星。赤く燃える星。みんな、自分が一番きれいだと言って譲らない。
女の子は笑って、ひとつひとつの星にあなたはきれいね、と言ってあげる。
そして最後のページで、影の星に降り立つ。
光らない星。誰も訪ねてこない星。
女の子の足音だけが、こつん、と響いて——お話は、そこで終わる。
「ねぇ」
いつのまにか、エルフがわたしの椅子のそばに立っていた。
「キミはほんとうに、お父さんが帰ってくると思ってる?」
ページをめくる指が、止まった。
「明らかなことを聞かないで」
「うん。じゃあ質問を変えるよ。——キミは、いつ気がついたの?」
「……なんのこと」
「外のどこにも、もう闇妖精の領主なんていないこと。この館に、もう誰も帰ってこないこと。キミみたいに賢い子が、三百年も気づかずにいられるはずがないんだ」
わたしは本を閉じた。
音を立てずに、几帳面に閉じた。
「あなたは失礼な人ね」
「よく言われるよ」
「ここはわたしとお父さまのお家よ。お父さまは帰ってくるわ。だってわたしは、待っているように言われたんだもの。約束したんだもの。お父さまは約束を破らない。だから帰ってくる。明らか——」
「キミの靴」
エルフの声が、わたしの言葉を静かに断った。
「三百年前の子供の靴が、すり減りもせずにそんなに綺麗なはずがない。この絵本もだ。この部屋の埃の積もり方も、壁の漆喰も、何もかもが綺麗すぎる。——誰かが止めてるんだ。この館の時間を。壊れないように、変わらないように必死に」
「…………」
「ねぇ、メイベル。時間を止めるってことはね、覚えてるってことなんだよ。あの朝のまま何ひとつ変えたくないって、三百年間ずっと思い続けてるってことなんだ。……帰ってくると本気で信じてる子はそんなことしない。信じてる子は、ただ待つだけでいいんだから」
やめて、と思った。
声には出さなかった。出せなかった。布を掛けたはずの家具が、布の下で軋む音がした。
「キミは分かっているんだ。とっくに、ぜんぶ。分かった上で、認めたら終わってしまうから、この部屋から出ないんだ。出ないかぎり、お話は『つづく』のままだから」
「——出ていって」
わたしは立ち上がった。絵本を胸に抱えたまま。
「ここはわたしのお家よ。あなたの来るところじゃないわ。調べものは終わったのでしょう。なら、もう」
「終わってないよ」
エルフは動かなかった。
「ボクの依頼はね、調査と——解呪なんだ」
「呪い…呪いなんて、ないわ」
「うん、ないね。怨念も悪霊も、なーんにもいなかった。いたのは」
エルフの古い目が、まっすぐにわたしを射た。
「壊れた時計を抱えて、三百年、止まったままの女の子がひとりだけ」
◆
そこから先のことを、わたしはうまく順番に思い出せない。
わたしは部屋に逃げ込んだのだと思う。隠し扉を内側から閉めて、いつもの闇の、いつもの場所に丸くなった。心臓がうるさかった。三百年、ほとんど鳴らさずにきた心臓が、勝手に音を立てていた。
板の向こうで声がした。
「メイベル。キミにいいたいことがあるんだ」
返事をしなかった。
「ボクはね、七百年生きてる。キミよりずっと長く、ずっと多くのものを見てきた。綺麗なものも、ひどいものも、たくさんね。——その上で言うよ。この世界は、素晴らしい」
「…………」
「春の川の音。市場の喧騒。焼きたてのパン。雨上がりの土の匂い。夜明けの、空の色が変わっていくあの一瞬。キミがこの部屋で止めてきた三百年ぶんの季節が、外では今もずっと続いてる。誰にも止められずに、続いてるんだ。続いているんだよ」
「……興味ないわ」
「キミはそれを、知りもしないで捨てようとしてる」
「黙って」
「知った上で要らないって言うなら、ボクは止めない。けどキミは知らないんだ。何ひとつ! 見てもいないものを捨てて、こんな暗がりで、終わったお話を続けているふりをしている」
「…黙って! わたしはここにいるの。ここにいなきゃいけないの。約束したから。わたしが待っていなかったら、お父さまが帰ってきたときに、誰もいなかったら——」
「ボクはね、キミがどんなにこの世界に絶望して、自分の生を諦めているかなんて関係ないんだ」
エルフの声が、初めて燃えた。
「ボクが嫌なんだ! ボクが! 世界はこんなに素晴らしいのに、それを知らないまま暗闇で乾いていく子がいるなんて我慢ならないんだ! ボクは! キミの笑顔を見たい!」
「なにを——」
「外に出て、傷ついて、泣いて、それでも世界を美しいと思う義務がキミにはあるんだ!」
「だから、ごめんね」
ごめんね、がやけに優しく聞こえた。
直後、世界が白く爆ぜた。
風。
途方もない風の精霊たちが、わたしの部屋の壁を——三百年わたしを包んできた、闇の殻を——一息に、吹き飛ばした。
わたしの闇はそれを止めなかった。
止められたはずだった。大工たちの槌を弾き、火を呑み、三百年あらゆるものから部屋とこの館を守ってきた、わたしの闇。
それが、あのエルフの指先だけをなぜかするりと通した。
なぜ。
わからない。
木っ端と漆喰が舞い、夜風が雪崩れ込んでくる。月の光が——本物の、遮るもののない月の光が、三百年ぶりに、わたしの部屋の床を照らした。
部屋がない。
壁がない。
私の約束が。
「あ……あぁ……」
わたしは瓦礫の中に膝をついた。
部屋がないと、お父さまが帰ってきたとき、わたしを見つけられない。隠れておいで、と言われたのに。ここで待っているのが約束なのに。
部屋がなくなってしまったら、約束の場所が、なくなってしまったら——
「ぁ、あ、なおさなきゃ」
わたしは瓦礫を掻き集めた。
漆喰の欠片。折れた板。手当たり次第に積み上げる。指先が切れた。爪が割れた。痛みは遠かった。積んでも積んでも、欠片は崩れる。
だからわたしは闇を呼んだ。いつもみたいに。止まれ、と。そのままで、と。
闇が積みかけの瓦礫に絡みつく。欠片が宙で、ぴたりと固まる——固まって、震えてぼろりと崩れ落ちる。
掴んでは固め、固めては崩れ、わたしの闇は、わたしの手は、壁のひとかけらだって元に戻せない。
「な、なんで。それじゃあお父さまが、ねぇ、お願いだから元に……!」
「メイベル」
「明らかだわ、お父さまは帰ってくるわ、この部屋にいれば帰ってくるわ! 帰ってくるの! だってわたし、ずっといい子で待っていたもの、ずっと、ずっとずっとずっと——」
「分かっているんだろう?」
腕が、わたしを後ろから包んだ。
瓦礫ごと抱き上げるみたいに、強引で、乱暴で、それなのに壊れものを抱えるみたいな腕だった。
わたしは暴れた。叩いた。引っ掻いた。エルフは離さなかった。
「もう待たなくていい。キミの時間は、ここから動きだすんだ」
「いやよ、酷い、酷いわ、お父さま、お父さま……!」
「わがままでごめん。キミを連れて行くよ」
抱えられたまま崩れた壁の縁を越える。
夜風がまともに顔へ吹きつけた。
三百年ぶりの外の風だった。
◆
どれくらい泣いたのか、わからない。
気がつくとわたしは、館の前庭の伸び放題の草の上に降ろされていた。喉がかれて、目の縁がひりひりと熱くて、暴れる力はとっくに尽きていた。
エルフは隣に黙って座っていた。何も言わず、ただわたしが転がり落ちない位置に。
風が草を撫でる音がした。
知らない音だった。書庫のどの本にも、この音は書かれていなかった。
そんな音も聞きたくなくて、わたしはのろのろと顔を上げた。
——星があった。
夜空いっぱいに、こぼれそうなほどの星が。
青く光る星。赤く瞬く星。流れて消える星。絵本の中で女の子が渡り歩いた、自慢げな星たち。
それがページの外に、ほんとうにあった。
きれい。
そう思った。
思って、しまった。
「ち、ちがう」
胸の奥で、何かが裂ける音がした。
「……きれい……なんかじゃないわ。そんなこと、明らかなのに……!」
声が震えた。
明らかなのに。明らかなはずなのに。目を離せない。
必死に瞼を閉じても、星はまだそこにあった。
閉じた瞼の裏側にまで、もう焼きついてしまっていた。
部屋に戻りたい、と思った。
でも、もう分かってしまった。
瓦礫を積み直して、闇で固めて、あの暗がりに丸くなったところで——一度見てしまったこの星空が、わたしの中から消えてくれないことを。
きっと、これは罰なんだ。
エルフは何も言わなかった。
夜が明けるまで、隣で星を見ていた。
◆
出立の朝は、よく晴れていた。
行く、とわたしが言ったわけではない。行こう、とエルフが言ったのでもない。
夜明けの庭で、エルフは「さて、ボクは領主さんに報告に行くけど」とだけ言い、わたしは立ち上がった。
それだけのことだった。理由は自分でもわからない。
部屋がもうないからかもしれない。星を見てしまったからかもしれない。
どちらでもいい。どちらでも同じことだ。
もうあの部屋はないのだから。
約束が果たされることはもう無いのだから。
最後に一度、館に入った。
書庫で『ほしのみち』を棚から抜き取り胸に抱えた。
それから、お父さまの書斎へ。机の上の小さなオルゴール。
蓋に星の模様が彫られた、お父さまがときどき夜に鳴らしてくれたもの。
手に取ると、わたしの闇がひとりでに薄く絹のようにそれを包んだ。
オルゴールが、夜の色に沈む。——そのままで。どうか変わらないままで。
廊下を戻る。
高いところに掛かった、大きな絵の前を通って玄関へと向かう。
玄関広間。崩れた西の壁から差し込む朝の光の中で、わたしは振り返った。
瓦礫の散らばる、わたしの部屋だったところ。三百年のわたしのすべてだったところ。
闇が壊れた部屋をそっと撫でた。
崩れたかたちの、そのままに。埃の一粒まで、そのままに。
直すことは出来なかったけれど、留めることならできた。
それがどういう意味なのか、わたしは考えなかった。
考えたら足が止まってしまう気がしたから。
玄関の外でエルフが待っていた。
その目がわたしの胸元の絵本に留まる。
正確には、背表紙の隅の小さな一文字に。
「『ほしのみち』——上、か。……下巻は?」
「知らないわ。読んだことがないもの」
エルフは、ふぅん、とだけ言った。
そしてそれきり何も言わずに歩き出した。
◆
領主の邸の執務室は、紙とインクの匂いがした。
「——結論から言うとね、あの館に怨念や悪霊の類は、いなかったよ。これは試薬で確かめた。祭の最中に何かが暴れ出す、なんて心配は要らない」
スイは、わたしを連れたまま、当たり前の顔で報告をしていた。
領主と呼ばれた壮年の男は、書簡の山の向こうからエルフと、それからわたしをかわるがわる見た。
「……その子は」
「ボクの連れ。仕事の関係でね、しばらく預かることになったんだ」
嘘ではないが、ほんとうのことも何ひとつ言っていない物言いだった。
この三日で、わたしはこのエルフのこういう話し方をいくつも聞いた。
領主は何か言いかけて、わたしの顔を見てやめた。
「呪いはない、というのが結論か」
「人に仇なすものは、ね。ただ——あの館には、とても古くて、とても強い守りが掛かってる。これが呪いの正体だね。壊そうとした人たちが酷い目に遭ったのはそのせいだ。放っておけばこの先も、手を出した者が怪我をする」
「……解けるのか、それは」
「解けるよ。解けるけど」
エルフはそこでちらりと、わたしを見た。
「——解呪には、かなりかかりそうなんだ。すこし、準備をしてくる」
「準備」
「うん。あれはね、力ずくでどうにかするものじゃないんだ。順番ってものがある。……ま、悪いようにはしないよ。祭は安心してやるといい。館にはしばらく、誰も近づかせないでね」
領主は長いこと黙ってから、分かった、と言った。
「期限は聞かんでおこう。ただし、必ず戻って報告しろ。——得体の知れないまま放られるのが、一番好ましくない」
「あはは。わかってるよ。すぐ戻ってくるさ」
「具体的な数字以外は好かないが……まぁいいだろう」
◆
街門を出ると、街道が北へまっすぐに伸びていた。
道の両脇の屋台にはもう提灯が下がっていた。
柔らかな橙色の、小ぶりな提灯。まだ昼間だから火は入っていない。
「ねぇ、メイベル」
「なにかしら」
「ベル、って呼んでいい?」
足が半歩だけ乱れた。
何故その呼び方を知っているのか。わからない。
でも懐かしい香りがした気がした。
「……勝手にして」
「うん、勝手にするね。よろしく、ベル。さ、改めてボクはスイ。世界で一番素晴らしいものを、キミに見せてあげるエルフだよ」
「そう」
何処からそんな自信が出てくるのか。わからない。
「あ、いまの、ちょっと笑うところだったんだけどなぁ」
「そう」
「手厳しいなぁ」
スイは笑って、歩幅をすこしだけわたしに合わせて狭めた。
わたしは胸の絵本を抱え直す。鞄の中で、夜の色に沈んだオルゴールが、こと、と小さく揺れた。
感想いただけたら喜びます。
読みにくいところがあれば教えてください。
誤字脱字もあれば教えてもらえると助かります。